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リップスフレンド 【放置】 第13話 | .攻め喘ぎZIKILLの小説 - BL小説・漫画投稿サイトfujossy[フジョッシー]
目次
リップスフレンド 【放置】
第13話
作者:
.攻め喘ぎZIKILL
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13 / 16
第13話
柊
(
ひいらぎ
)
の纏う空気の変化にいやでも気付かされる。 「ひぃらぎ」 柊は黙っている。カップルにしか見えない男女が遠くなると
櫻岬
(
さくらざき
)
は解放された、と思ったのも束の間、ふたたび顎を掴まれた。柊は恐ろしいまでに冷えた貌をして、自身の上唇を舐め上げる。 櫻岬は身を強張らせた。この男に口の中を荒らされたときのことが甦る。そしてその仕草からしても、また仕掛けようとしているに違いない。 「もぉ、きふ、やら………」 しかし柊は嫌がって拒む櫻岬を無視して唇を塞いだ。 「やらって……!」 喋るだけで相手の唇か舌を噛んだ気がした。自らの舌を歯で削られることになっても柊は櫻岬の口腔に突撃した。口蓋垂を舐め取らんばかりである。櫻岬は侵入するものに歯を立てた。防衛のはずで、意図したものだったが後悔する。鉄錆び臭い独特の甘みが鼻を抜けていく。密着を避けるために間に挟んだ手は握り込まれてしまった。 「ひゃ……らぁ………」 舌の絡まる質感と津液の混ぜられていく音が生々しい。脳味噌までぐちゃぐちゃに混ぜ込まれたみたいだった。酩酊に似た浮遊感で立ち眩みを起こす。しかし柊の腕に支えられ、転倒することはなかった。不純水が糸を引いてキスが解かれる。 「なんれ……」 舌の根元から痺れている感じがした。他者の舌で舌の表面を削り取られたみたいだった。妙な感覚が残っている。それだけでなく、望まない相手との接吻で、口を閉じることに抵抗があった。前屈みになり、垂れた涎が地面へと落ちる。溜まったものも吐き出した。 「お前、もうほんと、マジでムリ……」 持っていた茶で
嗽
(
うがい
)
をして吐き捨てた。 「で、君のオトモダチがボクのカノぴを寝取っちゃってるところをみた感想は?」 「寝取ったかどうかはあれじゃ分からないって……寝てないのに取られちゃったなら、そらひーらぎ、お前の力不足だろ。ま、フューチャーに惚れない女はいないからな。ひーらぎの力不足なんじゃなくて、フューチャーがかっこよすぎんだよ。しゃーない」 櫻岬はもう一度ペットボトルの茶で嗽をした。 「またキスしてあげようか」 その一言は冷えていた。普段の飄々としておどけた調子はない。櫻岬は咄嗟に彼のほうを向いてしまった。だがそこにいるのはやはり
平生
(
へいぜい
)
の柊である。ただ、そこにはふざけて緩みきった笑みがない。彼は拍子抜けした櫻岬をがば、と捕まえた。海洋生物の捕食を思わせる一瞬の出来事だった。 「なんだっ、なんだよ。カノジョにフられたからって、八つ当たりすんなって……!」 はたから見ればそれは抱擁であったが、当の櫻岬からすれば捕縛であった。突き離す余裕もないほど密着され、頬擦りされる。 「べいべって近くで見ると、結構かわいいよね」 それは僻みに似た語調だった。口付けを匂わせる距離に、櫻岬は暴れる。 「やめ、ろ!放せ……!」
踠
(
もが
)
けばもがくほど柊のシートベルトめいた腕は力を増して腹と胸部を締め付ける。 「放せよぉ!」 「かわい~。ボクが怖いんだ?泣いちゃう?べいべ。泣けよ」 頬に柊の頬が当てられる。彼の前では小柄になってしまう櫻岬は、もはやぬいぐるみの扱いだった。 「放せ、やぁめろ!」 柊はやめない。自分より大きなこの存在は、櫻岬の脅威である。 「やめろ、柊」 そこに第三の声が入ってきた。柊の手ではない感触に切り離される。 「災難だったな、櫻岬」
吉良川
(
きらがわ
)
が立っていた。自身の後ろへ櫻岬を引き寄せる。 「あらら。べいべとのイチャイチャタイムを邪魔してさ、きらりん。これはお仕置きだよね。覚えておきなよ」 「ああ……だから櫻岬の嫌がることをするな」 「いや、ダメだろ。断れって。なぁ、ひーらぎ!お前のやるべきことはオレとか吉良川にちょっかい出すことじゃないよな。カノぴっぴのとこ行けよ。カノジョ守れって。何、見過ごしてんだよ」 前に立つ吉良川の肩を掴んで、半歩踏み出る。まるで対立しているみたいな構図になっていた。 「フューチャーが取ったんじゃない。譲ったも同然だろ、こんなの。自分は傍にいるし何かされたなら言ってやる、くらい言えよ。カノジョ泣いてるのに、何を迷うことがあるんだ」 柊は表情を失くして項垂れながら散々口腔を蹂躙した相手を見ている。 「行こうぜ、吉良川。お茶買いたくってさ」 残りの少なくなったペットボトルを見せる。吉良川の手首を掴んで、自動販売機のある場所へ引っ張っていた。 「助かったわ。サンキュな」 同じ茶を2つ買って、吉良川に差し出す。 「気にするな」 「買っちまったしもらえよ。本当に助かったんだ」 さらに差し出すと、吉良川は小さく礼を言って受け取った。 「でも、吉良川は大丈夫か?柊に、いぢめられない?」 「八つ当たりみたいなことはよくある。心配しないでくれ。櫻岬も……犬に噛まれたと思うことだな。でも、その………平気か?」 真剣な面差しの吉良川に顔を覗き込まれ、櫻岬はたじろぐ。 「大丈夫だけど。なんで?男同士だし、顔見知りだし、ひーらぎだし……」 「傷付いているかと思って。そうは言っても、あんなのは暴力みたいなものだろう」 今度は櫻岬の表情が堅くなっていく。俯き気味の吉良川が細く弱く小さく見えた。今では柊にいいようにされてそれに応えているようだが、その関係の始まりは一方的で、最初は戸惑い、深く傷付いていたのではないか。 「吉良川?」 「なんだ」 肩を軽く叩いてみた。風化して消し飛ぶのではないかと彼は思ったが、吉良川はしっかりとそこにいる。掌にも骨張った固さがある。 「優しいなって思ってよ。ありがと」 「そうか」 櫻岬は新しい茶を開けて一口目は
嗽
(
うがい
)
に費やした。吉良川を振り返ると、複雑そうである。櫻岬からみて、彼は潔癖の傾向があり、柊に振り回されて性に奔放なことをしている以外は品行方正そうである。水場でもないところで、それも自動販売機で買った茶で、有事でもないときに口を
濯
(
ゆす
)
いで吐き捨てるという行為はだらしなく感じることだろう。 「悪り、悪り」 「いいや、気にせず続けてくれ」 「もぉ、平気」 もう平気だと言っておきながら、口腔で暴れ狂っていった他人の舌遣いを思い出すと、またもや下顎が持ち上がらなくなった。つまり閉口することができなかった。もう一度茶で嗽をする。麦の甘みが強い記憶と結びつきそうである。 「櫻岬……」 「ヤバいかも……あはは」 嗽で済んでいたものが吐気へと変わった。ペットボトルを呷って誤魔化す。その様が吉良川には異様にみえたらしい。彼の眉間に刻まれた皺は濃い。それが櫻岬を焦らせる。このようなことで打ち
拉
(
ひし
)
がれていると思われるのは意地が許さない。 「それはそうだろう」 真摯な態度に櫻岬は胸に一撃拳を食らったかのような衝撃を受ける。吉良川はそういう人物だった。揶揄したり嘲ったりしない。打ち拉がれた様を見せたところで、痛むのは矜持ではなく、吉良川のほうだ。 「吉良川……」 沁み渡るような優しさを感じる。 「うがい薬、要るか?」 「え……?持ってんの?なんで?」 コマーシャルでよく聞く商品名の入った歌が有名なうがい薬の容器を見せられる。櫻岬は幼少期に使ったことがあるが、味は忘れても、非常に不味かったことだけは覚えている。 「俺もたまに、嫌になることがある。たまにな。それならやめればいいのに、結局やめられないし、やめない」 「吉良川。それ多分、メンヘラ女がさくさく手首切ってるのと同じだよ。自分のこと、傷付けて、痛いのか気持ちいいのか、分からなくなってない?」 櫻岬はうがい薬を受け取った。懐かしい容器を眺める。自分の陥っている嫌悪を忘れてしまった。目の前に立っている者への憐憫によって…… 「そんなことは……」 「傷付いたときにやっと自分のこと見つめてるんじゃん。やめよう、やめよぉ、吉良川。オレ吉良川が傷付いてそのたんびに望んでるつもりで実は望んでなかったことすんの、イヤだよ。友達になった以上は、考えちまうよ。感情移入して、きちぃよ」 やめようとしてやめられないということは吉良川から何度か聞いている。彼にとって柊との関係を断つことは容易ではないことなのだ。 また嗽をして茶を吐き出す。麦の風味が鼻を抜けていく。心配げに見ている吉良川の腕を横から叩いた。 「……チュウ、しよう」 「本気か」 「チュウくらいならオレもできる」 「櫻岬。気持ちはありがたいんだ。その気持ちだけで、救われているよ。友達と言ってくれただけで……」 今度は垂れている吉良川の手を掴む。 「大丈夫……吉良川とならイケる、と思う。やめろ、やめろって言っておいてオレだけノーリスクなん、ヤバいっしょ。吉良川は?嫌ならしない」 眼鏡の奥の吉良川の目が泳いだ。顔を背けられてしまう。 「櫻岬は、そういうんじゃないだろう……それにもし、やってみて、またそういうことになったら、ちょっと傷付く、かも……」 控えめに彼は嗽によって水浸しになった地面を指す。抑揚のない喋り方に緊張が伝わる。 「そっか。じゃあ、仕方ないな」 「関係壊れるのも、怖い。櫻岬は、大切な………友達、だから……」 言うのはいいが、言われると櫻岬は顔が火照り、鼻の下を掻いた。 「そっか。分かった」 「ありがとうな。でも、俺が自分で解決することだから。櫻岬を巻き込めない。ありがとう」 「いいって。いいって、そんな」 「なんて、重いか?」 吉良川は偽悪的に笑っている。櫻岬はペットボトルの底を天に向け、仰け反った喉に茶を流し込んでいた。 「ちょっと。こんくらい」 コンタクトレンズが入るかどうかというくらいの大きさを示す。 「やめたい、やめたいと言っていたのは俺のほうだ。いいのか、櫻岬。本当にするぞ」 「うっし、来いよ、吉良川。チュウなんてな、口の衝突なんだよ」 手を構え、指がくい、と吉良川へ向けて挑発する。 「俺からいくのか」 吉良川は櫻岬から渡されたペットボトルを開けた。そして一口飲んでから唇を拭う。 「じゃ、じゃあ、櫻岬……する、からな………?」 彼は近寄り、櫻岬の肩に手を置いた。 「う、うん。えっと、目は閉じたらいい?開ける?」 「す、好きにしろ。別にじろじろ見ない……」 櫻岬は吉良川の肘を寄せる。目を閉じると目蓋の奥が翳った。直後に唇が柔らかな感触に包まれる。そして目蓋の奥が明るくなる。開いてみると、吉良川はばつの悪そうな顔で俯いている。 「どうだ」 「柔らかかった」 気の利いたことをいうだけの余裕もなく、正直に答えた。櫻岬は自身の唇を指で触る。一瞬の夢みたいに実感がない。 「吉良川は?」 「……悪くなかった」 「悪くなかったって、なんだよ」 拗ねたように言えば、吉良川は頬を真っ赤に染めている。 「もう時間だ。行くぞ」 誤魔化すように彼は櫻岬の腕を引いた。踏み出したときにはチャイムが鳴っていた。 最後のコマで吉良川とは講義が分かれた。キャンパスを歩いていると宮末が声をかけてきた。彼は1人で、少し表情が堅くみえた。 「
紅
(
ほん
)
ちゃん」 出会い頭に抱き寄せられる。大好きな飼い主にそうされては、櫻岬のなかの愛犬としての魂が激しく興奮して、尻尾を千切れんばかりに振り乱す。猫ならば直線状に尻尾を持ち上げ戦慄かせていたに違いない。 「お、お、色男だねぇ。どしたん、フューチャー」 「やっと会えたなって思って」 それにしては熱烈な対応である。 「さっきは急にいなくなっただろ?悪かった」 彼は泣いている元交際相手を見つけ、彼女のもとにいったのだ。それは柊と見ていたことだ。櫻岬はしかし、元交際相手のことについては触れなかった。 「へーき、へーき」 宮末の服には彼の匂いと洗剤が混ざり、櫻岬はそこに押し付けられて、肺いっぱいに吸い込んだ。宮末の声に興奮し、彼の匂いで落ち着くのである。父であり兄であり、飼主のフローラルな香りに包まれている。 「吉良川は?」 「あいつとはこの時間、取ってるやつ違うんだよ」 「そうだっけ?」 彼は朗らかに笑った。 「いつもいないだろ」 この時間は宮末と2人か、タイミングが合わなければ1人で受けている。他の友人たちも固まって大講義室で開催される講義を取っているため、知り合い程度ならばいるけれども、そう親しい者はいない。 「いつもいる気がした。おれは避けられちゃってるけど」 「そんな……」 櫻岬は気にするなと宮末を叩く。嫌われているわけではないのだ、むしろ逆であると伝えられたら、彼も楽であろう。否、戸惑い、余計に苦しむかもしれない。もしかするとこの状況が最も均衡を保てているということもある。 「そんなこと、ないだろ。フューチャーはいいやつだもん」 宮末を前にすると、実際よりも大きな体格差を想像し、自分が子供になった気がした。宮末に縋り付いて頭突きする。 「紅ちゃん!」 大きな手に肩や腕や背を撫でられていく。ペットとして、息子として、弟として、至上の喜びがそこにある。 「フューチャーすきぃ、へへへ」 穏やかだった宮末の腕が、今度は後頭部に回る。力が強い。彼の胴体に縛り付けるられたようだ。どきりと櫻岬は脈を飛ばす。柊にされた捕縛とは違う。今度は反対に、周りから見ればそれは捕縛にみえたかもしれないが、櫻岬にとっては抱擁だった。宮末の筋肉質な腕は、柊のいくらかまだ柔らかさのある肉感と違い、ぎちぎちとしているだけに悪さをして捕まえられた感じがある。ほい、と顔を上げると、宮末の真っ直ぐな視線と
搗
(
か
)
ち合った。彼はぎくりとしていた。逸らされてしまう。 「ひゅーちゃー?」 「行くか」 解放は呆気ない。何か気に障ることを言ってしまったかと櫻岬はいくらか気を揉んだ。宮末には嫌われたくない。 「ひゅーちゃぁ」 頭の上に手が乗った。そこに嫌われた気配はない。見上げる。また、宮末と下から目が合う。 「紅ちゃん……見つめないで」 背中を押され、前に押される。宮末は顔を背けて、進行方向を見ている。 「めんご」 宮末とは帰り際まで一緒にいた。社交辞令か、本気なのか、彼はまたいつかの家飲みに誘った。櫻岬は調子のいい返事をしたが、視線の先に柊と吉良川を見つけると、適当なところで話を切り上げた。 「用事思い出した!また今度な」 両手を合わせて謝ると、吉良川の後を追う。柊と一緒であることが気にかかる。 外はもう暗く、
人気
(
ひとけ
)
のない学舎の解放された裏口から差し込む古ぼけた光は眼球に痛い。その明かりの陰に吉良川がいた。 「吉良川……」 吉良川を呼ぶと、その奥で暗闇に紛れていた柊が現れる。柊と一緒であることは知っていたし、柊と一緒であったから吉良川を追ったのだが、予期しないタイミングだったために櫻岬はどきりと驚いた。 「べいべ。さっきはありがとね。覚悟が決まったよ」 その声に常日頃のふざけた響きはなかった。 「吉良川に何する気だよ」 「櫻岬。俺が呼び出したんだ」 柊を睨みつけると、吉良川は間に入った。 「そ、完全に濡れ衣」 柊は大袈裟に肩を竦めた。 「もう、爛れた関係はやめたいんだ。俺も、柊の恋人を知らず知らずのうちにでも、傷付けている存在だから……」 「ふぅん。でもそれが理由なら、知らないなら傷付きようなくない?それに、ボクのカノジョが、もしそういうの傷付かなかったら?勝手に人を決めつけるのもどうかと思うけど」 櫻岬の知る柊のいつもの声音とは違う気がした。 「そうだな。柊の恋人は関係ない。やめたい。やめる。やめさせてくれ、柊」 吉良川は俯いていた。柊はそれを見下ろしている。櫻岬はそういう柊の反応を窺っていた。 長い沈黙が流れた。遠くで談笑が聞こえる。部外者に等しいというのに櫻岬は自身の胸の鼓動を敏く感じていた。 「いいよ。ボクも、ボクのカノジョといる時間を大切にするよ。じゃあね、きらりん。さようなら。バイバイね。お元気で」 本音なのか普段の調子を取り繕った虚勢なのか、櫻岬には分からなかった。それくらい、これというところはなかったが、しかし何かが違う。 柊は去っていく。数秒遅れて彼の匂いが鼻腔にやってくる。時が止まったように吉良川は佇んだままで、櫻岬も残された匂いが消えていくまで動くことができなかった。あまりにも呆気ない。 「吉良川」 「こんなもんか」 静止したままの吉良川が怖い。 「え?」 「こんなものだったんだな。俺が一言、やめたいと言えば叶うことだった。櫻岬を巻き込んでまで、引き延ばしにしてきたことは、こんなあっさり……」 彼は泣いているのではないか。櫻岬は微動だにしない吉良川を見つめる。その唇も睫毛も動いているには動いているのだろう。しかし夕暮れに隠れている。 「吉良川」 普段宮末にされているみたいに櫻岬は
佇立
(
ちょりつ
)
する友人を抱き締めた。 「櫻岬……」 名を呼ぶ語尾が溶けていく。吉良川の身体は細く骨張っていて固い。力を込めれば軋んでしまいそうだ。 「別に柊が好きだったわけじゃない。情が移ったわけじゃないんだ。でも……」 「悔しかったんだろ、多分。自分に対してでも、柊に対してでも……色々なことが合わさってさ、複雑なこともあると思うぜ」 「ありがとう、櫻岬。君のおかげだ」 櫻岬は首を振った。 「いんや、オレは外野からあれこれ言ってただけだから」 「もう放せ。誰が見ているか―」 「紅ちゃん」 友人を腕に入れたまま、櫻岬は振り向いた。先程別れたはずの宮末が立っている。彼は目を見開いていた。 「あ、フューチャー……」 「学生証、落としていったから……その、」 敬愛する友人の目が滑ることで、櫻岬は自身の今の状況を知る。吉良川に突き離される。 「あ、ありがと……フューチャー……」 宮末の手には確かに見覚えのあるパスケースがあった。受け取ろうと手を伸ばした。しかしそれはパスケースに届く前に、手前から伸ばされた腕で超過する。大好きな飼主、偉大な親仁、尊敬する兄貴の匂いがむわ、と膨らむ。額に柔らかな感触が落ちたこと以外は何が何なのか櫻岬は理解が追いつかない。転んだのかと思ったが、そうではない。 「じゃあな」 宮末の声は優しい。暗くなった大学構内で男同士で抱擁していたというのに、そこに厭悪の色はない。むしろ関係が変わっていってしまう不穏な響きを帯びていた。 「ごめん、なんか、その……」 「いいや」 吉良川は元々、そう喋る性分ではない。しかし言葉の少ないのが、今は苦しい。 「櫻岬には感謝しているんだ。感謝してもしたりない」 「いや、別に……ああ、もう、帰ろうぜ。今日はちょっといつもより美味いもの食って、ちゃんと寝ろよ」 吉良川は後ろをついてくる。歩みが遅い。柊のことか、宮末のことか、どちらかだ。 「吉良川」 外灯によって乱立する学舎の壁に映し出される吉良川の影を見ていた。 「なんだ」 「呼んでみただけ」 彼は数歩遅れている。 「櫻岬」 「なぁに」 今度は吉良川から呼ばれ、櫻岬は身体ごと振り返る。 「柊とのことも終わらせられた。俺も変わらないとな。気を遣っているんだろう?宮末とのこと」 「えっ?いや……そんなんじゃねぇけど……」 「今日は早く帰って、よく食べてよく休むよ」 吉良川と帰り、別れて1人になった後、櫻岬はふと額に触れた。まるで自分の熱を測っているかのようなポーズである。彼は今になって、宮末に何をされたのか分かったのだ。顔が火照る。汗が背中を蒸らす。あれは何だったのか……考えかけてやめてしまった。口でもしたことがある。何を今更思案に耽ることがあるのだろう。 ◇ 「べ~いべ」 朝の1コマ目の講義に間に合わせるには起きる時間も早くなるが、夜更かしもするため眠さが残る。だがこの時間の陽光は嫌いではなかった。欠伸をしながら目的地の講義室までキャンパスを歩く。 ところが朝の散歩めいたひとときを邪魔する者がいた。巨大なものに後ろから抱きつかれ櫻岬はどきりと身を強張らせた。 「ひぃらぎ!」 「おはよ、べいべ。かわいいサイズね」 頬を擦り寄せられているのを、櫻岬は自ら押し付けてまで振り向けば、案の定柊である。その奥には
瀟洒
(
しょうしゃ
)
な美女が立っている。柊の交際相手だ。 「おぃい!」 「べいべにしゅりしゅりするのは七瀬ちゃん公認だからへーき!」 一際甘えた声で柊は櫻岬を抱き締める。彼は女性より明らかに体格がよく背丈もある櫻岬をハムスターだとでも思っている様子である。 「おはよう、
紅
(
べに
)
くん。色々と、ありがとうね」 "七瀬ちゃん"が控えめに、無愛想ながら表情を和らげている。 「いや、オレはなんも……おへ、ぃ」 「頬っぺた柔らかっ!かわちぃ」 指でつんと喋っている途中の頬を突かれる。
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