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第12話

 吉良川(きらがわ)に腕を取られる。櫻岬(さくらざき)は唇を尖らせた。 「行こう」 「おお」  正門前のバス停で吉良川と分かれかけた。この時間は行列を成して、ほぼこの大学の貸切状態のバスが2台並ぶほどだった。彼がふいと視線を奪われ、櫻岬もその先を追う。バスに乗り込む"七瀬ちゃん"とそれを送る宮末の姿があった。2人で並び、乗り込むところで宮末だけ列から脱した。 「(ひいらぎ)の恋人だ……」  吉良川が呟いた。櫻岬はどきりとした。吉良川はあの状況をどう見るだろう。宮末に対してどのような印象を抱くだろう。柊の交際相手をバスに乗せた宮末のその挙措(きょそ)はエスコートする王子や騎士そのものであった。 「櫻岬は残るんだろう?じゃあな。あまり身体を冷やすなよ」  ぽす、と年長者みたいに吉良川の両手が肩に置かれた。柊の前にいる時は櫻岬から見て、吉良川は(かよわ)く陰気な感じがあった。しかしこうしてみると、意外と面倒見の好いタイプなのかも知れない。 「うん。吉良川も、帰ったら手洗い嗽してくれな。するか。多分オレよりきっちりしてるよな」 「そこは気にしなくていい。じゃあ」  行列に加わっていく吉良川を見送って櫻岬はもう一度キャンパスに戻った。少し駆け足になると宮末に追いつく。しかし声を掛けるか否か迷った。尾けているみたいだ。実際に尾けている。喉も渇いていた。購買部に行くのである。先程は柊の邪魔が入ったのだ。櫻岬は自分の正当性について己に訴えかけていた。  足音で宮末が振り返る。彼は意外そうな顔をした。 「フューチャー」 「ああ、(ホン)ちゃん。忘れ物か?あんまり無理するなよ、病み上がりなんだから」  意外そうな顔をしたが、焦ったり、物怖じしたようなところはなかった。すべては邪推なのかも知れなかった。それか彼の中ですべて割り切れている。 「うん。急に腹減っちゃってさ。食欲あるから安心してよ。もう迷惑かけないし」  深い意味はなかった。言葉の綾だが、宮末は困ったように眉を下げる。 「食欲があるならよかったが、別に迷惑じゃない。困ったときはお互い様だろ」 「お互い様って言ってもフューチャーに頼りきりなんだって」  いつもは愛犬が走り寄ってくるのを歓迎するみたいに構えた腕が今日はない。櫻岬はポメラニアンやコーギー犬になれなかった。"七瀬ちゃん"の存在が脳裏を掠める。しかし男同士、友人の戯れである。宮末と"七瀬ちゃん"の関係に干渉するものではないはずだ。 「フューチャー」 「どした?」  爽やかな微笑はいつもと変わらない。呼んだはいいが、何も訊けそうになく、またここで話題を提示できるような機転も利かない。 「ううん。今度また遊ぼ」  返事がなかった。宮末は宙に置いた手を櫻岬の肩に降ろす。見上げたハンサムな横顔は遠くを望んでいる。 「そうだな」  何テンポか遅れてやっと返事があった。彼の見ていたものを探す。柊が外灯の下に立っていた。こちらを見ている姿がどこか不気味だった。視線が()ち合ったかどうか定かでない距離だが、櫻岬もその方を向いたとき、柊はやっと動いた。逃げ帰ったように感じられるのは日々の彼に対する鬱憤であろうか。  櫻岬は大好きな兄貴分を見上げた。 「どしたん」 「……紅ちゃん。なんでもない。寒くないか?中入ろう」  そうしてまた購買部前に戻ってくる。宮末は買い物せず、自販機でコーヒーを買っていた。飲食ブースで合流する。櫻岬は肉まんとホットレモネードを買ってきた。 「フューチャー、半分食べる?」 「いいや、食べない」  千切りかけた手を止める。この購買部と提携しているメーカーの肉まんは小振りだが柔らかく、肉汁の旨味もしっかりと包まれていて美味しかった。  宮末は熱いコーヒーの入った紙コップに両手を添え、櫻岬を見つめている。 「どした?やっぱり食べる?」  櫻岬は肉まんを千切ろうとする。憧れの兄貴分には肉部分を多く食べさせたかった。 「違う、違う。腹は減ってないよ。紅ちゃんが何か食べてるところ見るとなんか安心するな」 「なんで?痩せてるっぽい?」  褒められたわけではないのだろうけれど、彼からそう言われて悪い気はしない。その一方で痩身な吉良川から同類扱いされたことを少々気にしてもいる。 「なんでだろうな?食事と幸せってものがおれの中で結びついてるのかもな」  口を開くと表情が緩む。 「家族がこう、子供にお菓子あげるの好きだったんだよな。それがコミュニケーションだったっていうか」  微苦笑している。今日は表情がぎこちない。 「だから気にしないでくれ」  彼はコーヒーを一口飲んだ。様になる。すでに大学の講義は終わっている時間帯だがチャイムが鳴った。購買部が閉まる時間帯である。 「このあと、また自習?」 「いや、帰るよ。スーパー寄らないとだしな」  宮末がスーパーマーケットで買い物をしているところを想像した。地に足のついた光景も絵になる。  肉まんを食い終えると宮末もコーヒーを飲み干した。2人で建物を出て正門に辿り着く前に櫻岬はあることを思い出した。 「あ!」 「何、どしたの紅ちゃん」 「忘れ物。作業着(つなぎ)洗おうと思ってたのに置いてきちゃった。ごめん、フューチャー。ここでバイバイだ」  大好きな兄貴分と一緒にいる櫻岬は機嫌がよかった。軽い足取りで走り出す。暗い内装のロッカールームのほうが外よりも明るいらしく、開放されたままの重げなドアから光が漏れていた。櫻岬はこの時間にはあまりロッカーに寄り付かない。  瀟洒(しょうしゃ)で不便なロッカースペースに入った。時間帯の割に人気(ひとけ)があった。大学生女子の集団がいた。サークル活動が終わったのかも知れない。  外壁裏側、傘立てが脇にあるロッカー列を囲んでいるように見える。派手だが垢抜けた身形できゃいのきゃいのと華やかな(やかま)しさがある。ロッカーを開けて荷物を取り出すだけの作業だ。特にうるさくはない。だが櫻岬が鼻唄混じりに踏み込むと、ぴたりと話し声が止んだ。彼はそれなりに異性から好かれた。恋愛感情なのか、どこか飄々としたところが良いのか、「(べに)くん」「紅くん」と声が掛かるから悪い気はしない。ありきたりな雑談を交わしてロッカーを開ける。もうひとつ跫音(きょうおん)が増えたことにも気付かず、目的の作業着が入った袋を取り出す。喧しいくらいに(こだま)する高らかな話し声がぴたりと止んだことも大して気に留めていなかった。  肩に手を置かれ、彼はぎくりとした。見上げると柊が逆光によって顔面をどす黒く塗り潰し立っていた。柊だ。異様な雰囲気を纏っている。櫻岬は逆光や風采などに確かな見覚えはあったけれどもそれをすぐに柊本人と情報を合致させるのには僅かな間を置いた。締まりのない緩んだ剽軽者の姿はそこにない。肩にある手がするすると櫻岬の二の腕に滑り落ち、がしりと掴んだ。さながら鷹のようである。 「え、あ?柊?なんだよ」  黙っている柊に調子が狂った。開口一番に人を小馬鹿にするのが彼ではなかろうか。櫻岬は引き摺られ、相変わらず利便性の悪い薄暗い内装のトイレへと連れ込まれる。女子トイレは入り口が赤く塗られで男子トイレは青く塗られている。そしてやはり内部はセンサー式のダウンライトがそう十分な明るさを発揮しない。 「なに、なに?柊?」  無口な柊は怖い。彼は筋骨隆々というわけではないけれど背が高い。取っ組み合いの喧嘩になった時、その利点によって負けてしまうかも知れなかった。  トイレの個室に連れ込まれ、鍵の掛かる音がした。濃い影が視界を覆う。殴られると思った。鈍い音が耳の真横で聞こえる。櫻岬は目を瞑った。 「べいべってムカつく……」  おそるおそる見上げた。頼りない照明に翳った柊は引き攣った笑みを浮かべている。 「ひい………らぎ、」  無理矢理取り繕ったような笑みは一瞬で消える。茶化すようなことを言おうとした唇へ徐々に真顔が降ってきた。頭が真っ白になる。接触を許す。 「あ、ふ………」  柔らかな弾力に櫻岬は身動いだ。反射的な拒否だったのかも知れない。柊の花を思わせる甘い柔軟剤の匂いに頭や肩を包まれ、もう動けなかった。櫻岬の頭には激しく口腔を蹂躙される吉良川の姿ばかりが駆け巡った。おそらく同じことをされている。あらゆる角度から唇を当てるとやがて舌先が隙間を割って入ってくる。 「ひ………ら、ぎ、」  拒んだところで柊はさらに櫻岬に迫る。強張った。潜んだ舌に舌が絡まる。 「ぁ……っ」  頭部の中身を掻き回されて吸われていくような眩暈に似た浮遊感があった。陶酔感が不本意な熱を腹に集める。膝から力が抜けていく。それが相手に伝わったのか、腰に腕が回る。支えられたまま舌の絡め合いが続行する。ざらついた質感で喉奥が痒くなる。 「あぁふ………ぅ」  喉は働かなくなってしまつた。混ざり合った津液(しんえき)が上を向かされた櫻岬の口角から溢れ出る。 「ぁ……っ」  縺れたまま舌を引っ張り出され、外気に触れてやっと離れる。それでもまだ絡まっている幻影じみた糸が口腔を冷たくした。 「く……んっ、ん……」  空いた舌床に先回りされ、柊に居座られてしまう。 「んあ、ほぇ………」  荒々しくも技巧的な舌遣いによって繰り出される陶酔感にとうとう櫻岬は四肢から力を奪われ、くたりと柊に身を任せてしまった。ぼんやりとした思考は口元を滴る唾液の冷たさしか認識できなかった。 「ほんとムカつくよ」  耳が拾う言動に反して抱き竦め直し、背を叩く加減は優しい。 「ん……ひ、らぎ。ゃら……」  先の短い老猫を慈しむような手で彼は撫でられていた。だがそのうちに我に帰る。 「柊、やら……」  個室にもう1人いる男を突き飛ばす。 「痛った……」  痛がる柊が気にならないではなかった。一瞥したが、しかし櫻岬はトイレを飛び出した。女子の会話ももう聞こえなかった。乱れたロッカーを閉め、そこに落ちた袋を抱き締めて自宅に帰った。 ◇  辺りを見回してから歩く様が挙動不審だった。櫻岬はまたきょろきよろして吉良川のいそうな場所をあたった。彼は第二学生会館の物陰にいた。膝をついて手に数冊本を抱えている。その様は落としたものを拾っているようでもあった。大柄な男は一緒にいないかと確認してから声をかける。 「おはよ、吉良川」 「おはよう、櫻岬」  険しい顔をしていたらしいのを緩んだ眉間の皺によって気付く。 「何してんの?」 「……ざっくり言うと、落とし物だな」  吉良川の腕にある紙類が少し濡れて見える。 「落とし物?なんの」 「教科書」  いくつか見覚えのある背表紙は櫻岬も同じものを持っている。 「なんで?」  教科書を入れていたカバンがはち切れて、それに気付かず持主は行ってしまったらしい。でなければ吉良川が数冊も拾っているわけがない。キーホールダーなりリップクリームが落ちたのとは訳が違う。櫻岬はストーリー性のある落とし物に首を傾げた。 「誰のか分かんの?学務課かな」 「……いいや。ロッカーに直接届けるよ」 「もう誰のか分かってんのか」  水を吸って表紙や角が傷んでいる。 「ああ」  吉良川は櫻岬を何度か顧みて少し気にした。 「なんだ?」 「いいや……分かった。行こう」  友人が苦い顔をしたことに彼は首を傾げる。吉良川が向かうのは実用性に欠く瀟洒すぎたロッカールームだった。壁のすぐ裏に並ぶロッカー列のひとつの前に立つ。学籍番号が記されているが鍵は特にない。 「吉良川のロッカーってここなん?」 「違う」  食い気味に答えられる。一瞬訳が分からなかった。 「ああ、そこが持ち主の?」  学籍番号札をよく覗き込んだとき、ロッカーのドアに刻まれた(きず)を目にすることになる。引っ掻いた痕らしい。蹴ったような凹みもある。随分と荒い利用者のようだ。 「大学のものだよな、一応」 「大学生になってもこれか……」  櫻岬は自分の頭の悪いコメントに対して吉良川が呆れたのかとその途端に考えた。何故急に嫌味を言われたのか、きょとんとしてしまった。 「え?」 「なんだ?」  レンズの奥の双眸は険しい。そこまでおかしなことを言っただろうか。2人視線をぶつけたまま静止していたが、ハイヒールの音が近付いてきたことで互いに顔を逸らす。 「あ……ごめん」 「いや……」  何に対して謝っているのかも分からなかった。吉良川もまた何を謝られているのか疑いもしない。  ハイヒールの跫音(あしおと)が傍まで来る。人影を櫻岬も視認する。知った顔だった。 「紅くんと……真八(まや)の…………」  ぎくりと吉良川が戦慄いたのが櫻岬にも分かった。やってきたのは柊の交際相手である。顔が小さく、髪は櫛を通したばかりのようで腰は細く、手足はすらりとしている。小振りな胸に華奢なネックレスがよく似合っていた。 「教科書、どうするの」  吉良川はぶっきらぼうな声音で言った。あまりにもぶっきらぼうで櫻岬は自分に言ったものと思ってしまうほどだった。それでいて彼らしくない喋り方をした。 「あ、え?」 「教科書……」  柊の交際相手"七瀬ちゃん"は吉良川の腕にある草臥れた紙の塊に目を遣った。 「ありがとう」  彼女は吉良川から水に濡れた教科書の山を受け取ろうとした。 「柊は、知ってる?このこと」 「え、あ?」  吉良川と"七瀬ちゃん"の間に暗号じみた会話があるらしい。櫻岬は間に挟まれて2人の顔を交互に見比べることしかできなかった。吉良川は険しく、"七瀬ちゃん"はグレーのコンタクトレンズを嵌めた目を泳がせている。 「ううん。でも、真八には言わないで」  気の利いた風でいて役に立っていないダウンライトが綺麗に染められた"七瀬ちゃん"の茶髪の上を環状になって揺らめく。 「いいの、言わなくて」 「うん。心配かけたくないから。ありがと」 「……っす」  運動部の下っ端みたいな無愛想な返事をして吉良川は先にロッカールームから出て行った。櫻岬は取り残される。 「あ、え、何?どゆこと?柊のカノジョさん、だいじょぶ?」  とある人物の名を口にしたとき、脳裏に忌まわしい接触が甦った。柊から濃厚な口付けをされた後、異様な違和感に何杯も水やジュースを飲み腹を壊したのだ。 「うん。大丈夫」  彼女は地声が少し低い。それが見た目だけでなく全体的に大人びて見えた。図体ばかり大きい柊よりも、心身共に大人な宮末のほうが似合っている。櫻岬は余計な想像をしながら、吉良川ほどではないが無愛想な"七瀬ちゃん"に適当な別れの挨拶をしてロッカールームを後にした。吉良川は斜向かいの校舎の壁際で待っていた。 「悪い」 「別にいいけど、どゆこと?よく分からなかった」  眼鏡の奥の目は、もう険しさを帯びてはいない。ただ少し呆れと安堵を含んだ笑みを浮かべる。 「嫌がらせを受けているんだろう。嫌がらせというと軽いな。器物破損というか、窃盗というか」 「柊のカノジョが?なんで?」 「その柊が理由なんじゃないか」  かりかりと髪を掻いた。さらなるヒントを求める。 「柊は女子人気が高い。有名企業の社長の息子だなんだって噂もある。だから付き合ってるのが気に入らないんだろう」 「ああ~、そうなん?でもあの横柄な態度とかそれっぽいわ、納得。でも付き合うのが気に入らないってなんそれ?」  櫻岬は足元の芝生に屈む。青々と茂っている。空はグレーの斑模様だった。 「嫉妬だろうな」 「嫉妬かぁ。でも横から口出したって仕方ないのにな。それで柊と付き合えるワケじゃないんだし」  ちらと立っている吉良川の目が降る。 「なんだよ?」 「誰もが櫻岬みたいに潔くいられるわけじゃない。ああいうことは擁護できないが、入口になる気持ちは……………」  彼は口を閉ざした。ブルーやグリーンに反射するレンズを隔てた目が櫻岬から外れ、遠くを望む。そして突然弱気になった。 「―が気にしてるぞ」  ぼそぼそとした物言いは人名を口にしたらしいが、肝心なところが聞き取れない。 「はぇ?」  耳を(そばだ)て身体ごと傾ける。吉良川は唇を何度か噛み直して、首を反対へ向けてしまった。櫻岬は今の今まで吉良川の見ていた方向を確かめた。宮末がおどけるようにこちらを覗き込む真似をしている。手を振ると振り返された。 「じゃあな。また」  吉良川が視界の外で言った。 「え、一緒にいろよ」 「宮末に悪いから。じゃ」  ひそひそと話されてはつられて声のボリュームが絞られてしまう。宮末に手を振り翳し、吉良川には首だけ寄越した。 「う、うん。じゃ、また。絶対な」  頷くのを認めてから向き直る。宮末がやって来た。 「おはよう、紅ちゃん」 「おはよ、フューチャー」  曇空だが宮末は爽やかだった。櫻岬に笑いかけると、吉良川のいたところを一瞥した。櫻岬も同じところに目で追った。 「おれが来たからか?悪いことしちまったな」 「なんか忙しいらしい」  内心で吉良川に毒突く。露骨に避けては宮末も変に思うだろう。それをどちらのことも悪くならないよう気を回すだけの器量に自信はなかった。 「そうか。それじゃ仕方ないな。ありがとう、紅ちゃん」 「ンなことよりフューチャー、朝飯食った?買いに行かね?」 「おー、おれもお茶買おうと思ってたんだよな」  芝生の上に屈んでいる櫻岬に宮末はしっかりした頑丈そうな手を差し伸べる。ペちりと両手を打ち鳴らして大好きな同い年の兄貴分に応える。 「あれから体調はどうなん、紅ちゃん」 「いやもうお陰様で。めっちゃ元気。二度と風邪ひかないかも知らん」  調子づいたことにも飼い主のような同期生は朗らかに笑って気の利いた返しをする。だが宮末はロッカールームの方を見ると表情を凍らせた。兄貴分の見ているものを弟分が追うのも当然だった。彼はロッカールームから出てくる元交際相手、つまり今の柊の交際相手に瞳を留めていた。彼女は控えめに目元を拭っていた。 「フューチャー?」 「ごめん、紅ちゃん。先行ってて」  後ろから肩を優しく持たれて行く方向へ促される。  強固な壁を立てられた感じがした。胸に真綿を詰められているようだ。"七瀬ちゃん"の元に急ぐ宮末を呼び止めそうになる。 「うん」  だが相手は元交際相手だ。元交際相手では仕方がない。なにしろ彼女は泣いていた。櫻岬は宮末と"七瀬ちゃん"の合流を見ていた。それから吉良川の去っていったほうへ踵を返す。横から現れた人影が行手を阻んだ。止まりきれずにぶつかる。ふわりと鼻から肺までが柔軟剤のまろく瑞々しい香りでいっぱいになる。優しい匂いのはずだった。しかし櫻岬にとっては舌の痺れるような出来事と結びついていた。 「フられちゃったんだ。ボクと行こ、購買」 「う………ぃ、ひ~らぎ……」 「ははは、べいべ、意外と初心(うぶ)なんだ」  乱暴な手付きで顎を掴まれる。親指と人差し指が頬を揉んだ。 「放せよ……!」 「またチュウする?」 「するか!」  腕を振り解く。柊はへらへら笑って半歩ほど退いた。そして表情が消える。チョレートブラウニーみたいな目はロッカールームを気にしていた。 「行くとこあるんじゃないの」 「ボクの出る幕なんかないよ」 「ほんとぉ~?」  ふざけて見せれば大柄な剽軽者の顔に嫌味な弧が描かれた。 「ほんと。べいべのお友達っていい男だよね。いい男だよ、ほんと」 「うん。フューチャーはいい男だよ」  櫻岬のふざけた顔が引き締まった。柊のほうもさらに悪い貌をする。 「七瀬ちゃんも、宮末くんはいい男過ぎて別れたって言ってたよ。ははは」  乾いた笑い声だった。空咳よりも痛々しさがある。櫻岬は左右に首を傾げた。 「あー、でも、分かるかも」  困ったときはお互い様だろ、が宮末の口癖だった。しかし宮末は困らない。櫻岬にとって常に困っているのは自分のほうだった。助け合いが貸し借りならば借りばかりだ。負担はいつでも宮末のほうにある。 「ボクは寝取り寝取られ男だよ」 「ねと……寝取るとかは、ないだろ……」  フューチャーに限って……と内心で続いた。しかし男女のことだ。櫻岬の知らない顔もあろう。もし憧れの、この俗世間に舞い降りた聖人君子が、人の恋人を横から奪うような人物だったなら。 「宮末君のほうはないかもだけど、ボクのカノジョのほうがまんざらじゃなかったりして」  柊は言い終えた直後、目を瞠って櫻岬に飛び掛かった。口元を押さえられ、物陰に寄せられる。ふわりと香水に等しい柔軟剤が薫った。小規模で寂れた花壇の奥、真横にあるフェンス越しに噂をした2人の男女が通りがかっていく。ほんの数秒が長く感じられた。背中が見える。宮末は柊の交際相手の肩に手を置き、彼女もまた身を縮めそこに収まっていた。

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