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第11話

◇  過ちを犯したどころか実際は様々な誤りによって犯したか犯されたのか分からない相手、吉良川(きらがわ)と目が合わない。合ったかも知れなかった。しかし逸らされてしまう。挨拶をする間も与えられず、彼は離れたところを通り過ぎていく。戸惑ってしまった。吉良川と言葉を交わした最後のとき、彼は下手くそながらに笑っていたのだ。それでいて今日は寒々とした態度を見せる。嫌われたのだろうか。まだ櫻岬(さくらざき)の目蓋の裏には彼の涙をこぼす姿と笑った顔が焼き付いているというのに。 「よ、べいべ」  ぬ、と妖怪の如く現れたのは柊だった。後ろから巻き付かれる。 「な、ん、だよ」 「ボクの匂いつけておこうと思って。昨日一昨日どうしたの。いつもいたよね」  昨日一昨日の講義は大規模なものが連続していた。吉良川と柊もおそらく同室だったのだろう。 「サボったんじゃね」  自分のことだが雑に答えた。柊はへらへらしている。 「ふぅん」 「カノジョのとこ行けよ。ほら、しっしっ!」 「ボクの匂いついた?」  髪や頸に鼻先が埋められ、腰から力が抜けるような寒気が走る。 「知るか。放せよ、気色悪い」 「ふぅん。気色悪いんだ。ボクとしてはきゅうきゅう可愛いトイプードルの相手してるようなものだったんだけど」  後方からの抱擁はさらに強まった。 「おい……」 「きらりんが昨日探してたよ。でもべいべはいなかった。あ、一昨日か。べいべは友達の家にいたんでしょ。熱出して。もう平気?身体冷やさないようにボクが温めてあげよっか」  柊の口振りは捉えどころがない。 「要らない、離れろって。心配してくれるならあっち行ってろって」  しかし素直に離れる柊ではない。耳元に息を吹きかけられる。悪寒が走る。 「きらりん、一夜明けて冷静になったらべいべに嫌われちゃってるかもって気にしてたんだよ。可愛いよね。そしたら次の日べいべはいないんだから、クールに見えて繊細で傷付きやすいきらりんがヘコんじゃうのは仕方ないよね」  今までの拘束が嘘のように彼は腕を開いた。人を莫迦にしたように笑っている。 「マジでオレのコト探してたのかよ」  宮末を目で追っていたのではなかったのだ。 「それでオレがいなかったから、ヘソ曲げてんの?」 「ああ、もうきらりんには会ったの?」 「会ったといえば会った」  柊は穏やかながら底意地の悪い顔をしていた。 「で?で?どんな反応してた?」 「いいだろ、別に。どんな反応してたかなんて」 「ははは、ヘソ曲げられたんだ。でも本当に、それだけかな?」  含みのある言い方だった。横目で一人楽しげな柊を睨んでしまう。 「それだけだろ」 「ウソだよ。だってべいべ、お友達の家で看病してもらってたんだもんね」  やはり含みのある言い方だった。妙に嫌味臭い。 「きらりんがべいべにどんな態度とるのか気になるから、ボクもべいべと一緒に居~よぉっと」 「オレ、ロッカー行くんだけど。吉良川のところには行かないし」  まるでそれは魔法の言葉みたいである。否、退魔の術だったのかも知れない。櫻岬の首にしがみついた腕がすっと引いていった。 「ロッカー……」  柊はぼんやりと呟いた。 「なんだよ?」  塩を振りかけたナメクジみたいになってしまった底意地の悪いやつに櫻岬も怪訝な顔をする。関わり合ってもろくなことにはならない。櫻岬は不思議に思いながらも柊に構うことなくロッカーに向かった。  ロッカーは暗い。何故このような内装にしたのか分からないほど暗い。天井と壁はダークカラーどころかブラックに近く、床はワックスのよく効いた体育館を思わせる。そこにダウンライトだ。落とし物をすると難儀する。照明の調節はできるけれど、櫻岬は入ってすぐのスポットライトじみた照明と左右に分かれるロッカーの列の上を淡く照らすダウンライトしか見たことがない。今日もまた落とし物をしたら大変なことになる暗がりになっていた。一体この建物をデザインしたものはどういうセンスをしているのだろう。瀟洒(しょうしゃ)を気取ったつもりであろうか。  購買部で買ったダイヤル錠を外しロッカーを開く。フックをかっちり閉めていないため、実質施錠されていない。工具を使う講義があるため、作業着に着替えねばならなかった。櫻岬はつなぎの入った袋を取り出し、それを抱いた。そろそろ洗うかどうか考える頃だ。  入ってきた道順とは別のルート、つまり元来た道を辿らずに建物を出ようとした時に、出口付近のロッカーで蹲っている人物を見つけた。ロッカーは1つ上下で2人分だった。下部のロッカーが割り当てられたのだろう。薄手の赤いセーターと長い髪からして女のようである。彼女は運動靴を見ていた。 「びちゃびちゃ~」  櫻岬が言った。ただ目に入ったものをそのまま口にしたのである。彼女の持つ運動靴は濡れていた。水滴さえ垂らしている。振り返った目と櫻岬は目が合った。柊の恋人である。互いに驚きで目を見開く。 「あれ、柊のカノジョ?七瀬ちゃん?だっけ?」 「紅くん……」  櫻岬はその手に握られている靴と見比べてしまった。 「靴、濡れてんの、大丈夫?」  水溜まりでも踏み抜いたのだろうか。ただ踏んだだけではない。全体的に水に浸かった濡れ方だ。 「うん。靴洗おうと思ってただけ」 「そか。大胆だね。外に干しとけば」  彼女はまた「うん」と言った。あまり表情の豊かな女ではないようだ。宮末と付き合っていたらしいが、あまり想像ができなかった。ロッカールーム兼用の建物を出た。全方位から明るい外が少し眩しい。意識的に瞬きをしていると、壁に沿うように立っている吉良川を見つけた。彼も櫻岬に気付いていた。視線が()ち合った瞬間に吉良川は逃げようとする。 「ちょ……待って!吉良川、おい、待てよ!」  櫻岬は走った。吉良川は走りはしなかったが、それでもその後姿は急いでいるように思えた。 「吉良川」  骨張った感じのある肩を捕まえる。だがなかなか振り向こうとしない。 「なんなんだよ、吉良川。どういうつもりだよ。なんで避けんの?」  回転ドアみたいに吉良川の肩を押して身体を向かせた。まだ逃げようとして顔を逸らす。無防備に晒された横面を張ってやりたくなった。 「避けてたのは、櫻岬のほうなんじゃないのか……」 「はぁ?なんで。なんでオレが吉良川のこと避けんの?訳分からん。もしかしてオレの風邪うつったんじゃねーの」  吉良川は訝しげに眉を顰めた。 「俺とあんなことしたから……あの時は許してくれだが、後になって…………気持ち悪くなったんじゃないかと…………」  柊の言っていたことを思い出す。くだらない話だと思って聞いていたが、意外にも頭の片隅に残っていた。 「それは、吉良川の勝手な憶測だよな」  櫻岬のむっとした顔に吉良川の表情に焦りが滲む。 「2日間くらい顔見なかった……」 「こちとら37度出して風邪っぴきよ。オレのこと探してたんだろ?悪かったよ」  素直に謝ると、吉良川はばつの悪そうに眉を下げ、軽く唇を尖らせた。懐かれているらしい。その面倒臭さが可愛らしい。 「熱出してたのか」 「そう」 「もう平気なのか」 「うん」  ふん、と吉良川は鼻を鳴らした。 「勝手な憶測でオレのこと避けんのやめろよな」 「……ごめんな」 「いいよ、許す」  他意はなかった。抱擁し、その背中を軽く叩く。直後、突き飛ばされてしまった。 「なんだよ」 「変な目で見られる……」 「別にフツーだろ、これくらい」  吉良川は唇をもにもにと食んでいた。裏では羽目を外すようだが、人通りのあるところでは神経質なまでに後ろめたいのだろう。何も知らない者からすれば、人懐こく仲の良い友人としか見られないだろう。 「で?ロッカーに用あんの?」 「いいや……別に」  レンズの奥の目は明らかにロッカールームを兼ねた講義棟を気にしていた。 「柊のカノジョがいた」 「……そうか」 「会っちゃうとマズいんかなって」 「柊が俺のことを話すとは思えない」  吉良川はロッカールームに背を向けた。櫻岬も作業着の入った袋を抱き直す。  柊の交際相手とまた会った。うっかりと指を切り付けてしまい、医務室に絆創膏をもらいに行ったとき、彼女は待合室の隅に座っていた。ジャージ姿である。スポーツ実技の講義を取っているらしい。束ねた髪が新鮮な感じだった。靴だけハイヒールなのが変な感じだった。 「あ、柊のカノジョ」  顔を突き合わせて何事もなく去るということを彼は出来ずにいた。目元を強調するメイクの奥でその素顔は怯えたような気がした。 「怪我したん?」 「あ……うん」  相変わらず愛想がなかった。宮末は表情豊かである。やはりこの2人の付き合っているところが想像できない。美男美女カップルであるだろうけれど、ドラマの中、映画の中といった、取ってつけたような感じだ。  医務室の職員からカウンター越しに処置をされた。消毒をして絆創膏を巻くだけである。大した時間はかからない。使用名簿に名前を書いているとき、"七瀬ちゃん"が呼ばれた。苗字を竹井というらしい。服が見つかったの見つからなかったのという話が隣から聞こえた。 「あざっした」  名簿を書き終えて医務室から出る。医務室はキャンパス内に2ヶ所あった。一戸建てになってカウンセリングルームや休憩室があるのが第二医務室で、櫻岬は本館の裏玄関近くの第一医務室にいた。学生課のある反対、南エントランスから出る。駐車場に繋がる。キャンパスに戻ろうとしたところ、目の前の脇のドアから出てきた吉良川とばったり出会(でくわ)した。エントランスではない東出入口だ。 「おっ、吉良川!」  呼び止めて手を振る。吉良川は妙な顔をした。 「櫻岬か……」 「なんだよ、オレじゃ不満?」  宮末を期待しただろうか。内心揶揄する。しかし実際、宮末が出てきたところで彼は悪辣な態度をとるだけであろう。 「いいや。櫻岬でよかった」  一息後には安堵の顔をする吉良川に今度は櫻岬が妙な顔をした。 「なんだそりゃ」  吉良川は何か誤魔化すような、それでいて偽悪的な感じのする微笑を浮かべた。 「これから柊のところに行くから……」 「なんでだよ。柊のとこ行くならオレと遊ぼうよ」 「……約束だから」  ふいと視線を逸らし、眼鏡の奥の瞳が泳ぐ。 「そっか。あんまムリすんなよ。マジでムリだったらオレといようぜ」 「ありがとう」 「じゃ、な」 「うん」  手を振る。吉良川は振らない。垂らされた腕を掴み、手を振るよう構えさせて別れる。  櫻岬はふらふらとキャンパスを歩いた。購買部で飲み物を買い行こうとしていた。 「よっ、!」  追突される。櫻岬は大袈裟に前につんのめってみた。すでに誰かは分かっている。 「(ホン)ちゃん、元気?」 「おかげさまで。めちゃくちゃ元気」 「今度はフューチャーがオレん()来いよな。ちゃんと片付けておくから」 「そう……だな」  宮末のぎこちない反応に、彼に憧れ、観察を怠らない櫻岬は敏く気付く。 「どした?ちゃんと片付けて、消臭しとくし!」 「舌噛んだだけだよ。じゃあ今度、お邪魔するかな」 「来て来て、フューチャー。もうオレ帰ったら掃除しよ」 「病み上がりだろ。そんな焦るなよ。大変そうならおれも手伝うし」  大好きな飼主、尊敬する兄貴分の掌が背中を摩る。櫻岬は振りすぎた尻尾の幻肢痛を覚えた。 「フューチャー、これから自習?」 「そう。おれと遊ぶか?」 「いやいや。邪魔できませんて。フューチャー、なんか飲む?めちゃくちゃお世話になったからさ、なんか飲むならオレが買う!」  宮末の手がぽすぽすと駄犬と化した同期生の背を軽く叩く。 「そういうことなら遊びに行った時もてなしてくれ」  (てい)よく断られ、そうすると櫻岬もさらに踏み込めなくなってしまう。彼には勝てない。 「フューチャー」  櫻岬は宮末にしがみつく。気分は小型犬だった。しかし櫻岬の見方からすると、宮末は大型犬を好みそうである。シェパード犬やハスキー犬を横にした宮末は、櫻岬にとって憧れの対象以外の何物でもなかった。  一頻り触れ合い広場の如く散々に戯れる。 「じゃあな、フューチャー」  宮末は物思いに耽ったように櫻岬に触れた手を離さなかった。 「フューチャー……?」  彼が今受けている講義のすべての単位が取れたなら、必要分より大きく差をつけて単位を取得することになる。あまり講義をとると単位を落とした時に全体的な評価は下がるものの、宮末ならば余程のことがない限りそれはなさそうだ。学びに真摯な彼は忙しいのだろう。アルバイトによる多忙ぶりではない。櫻岬は何人か、学費の都合で辞めていった友人を見てきた。 「フューチャー、大丈夫?オレの風邪、感染(うつ)った?」  その額に手を伸ばす。触れる前に躱された。宙に彷徨う掌に彼の掌を合わされ、大きさの違いをまざまざと見せつけられた。 「ああ、平気。感染ってないから気にすんな。じゃあな。ぶり返さないように」  彼の手の甲が櫻岬の頬の弾力を確かめて去っていった。 「うん」  彼の弟、息子になったような心地が嬉しかった。ひとりでにやにやしながら2階に上がりかける。折り返しの手摺に頬杖をついている巨体が待ち構えている。 「楽しそー」  柊だ。櫻岬はばっちりと目が合ったが、そのまま通り過ぎようとした。 「べいべ」 「カノジョなら医務室にいたけど」 「べいべ、医務室行ったの」  この男と喋るのが面倒臭くなって絆創膏の巻かれた指を見せる。ガーゼ部分に滲みが透けていた。 「傷口舐めてあげよっか」  言動こそ普段どおり飄々としているが、その声音は低く、彼なりの台本というものを棒読みしているようである。 「きも。汚っ」  櫻岬は慌てて手を引っ込めた。 「じゃあ迎えに行こっかな」 「それより吉良川と約束あんだろ?」 「ああ、そうだった、そうだった。ありがと、べいべ。また待ちぼうけさせるところだった」  柊のテンションは低い。 「オレの風邪、感染ったんじゃね。引っ付いてきたのはそっちだから謝んねぇよ」 「ボクは頑丈なんだよ。毎日大運動会して健康なんだから」  その大運動会の内容を櫻岬は身体で知らされた。思い切り顔を顰める。柊は両頬をどうにかこうにか持ち上げるが疲れているようだ。 「くだらね」 「きらりんも大運動会してるから健康なはずだよ」 「さいでっか。オレのことはいいから、早く吉良川のところ行ってやれよ」  言ってしまったが、果たしてそれは吉良川のためになるのだろうか。 「言われなくても」  柊はふと目を側めた。櫻岬の奥、後方を見ている。その手には乗らんと櫻岬は躍起になった。彼の後ろにはキャンパスを見渡せる黒ずんだガラス張りだ。ここからは学生会館と本館、それから学生図書館が見えた。  柊はひょいと櫻岬を摘んだ。踊場から引っ張られた。 「な、ん……」  口元を押さえられ、軽々と2階へと引き上げられてしまった。 「なんだよ」  柊は「しっ」と言って口元に指を突き立てた。 「はぁ?」  誰かから隠れているとしか思えないドアの死角に張り付いている。隠れんぼならば1人でやってほしいものだ。 「いつからだ?」  入ってきたのは宮末だ。櫻岬は彼を追おうとしたが口を塞がれている。身体も押さえ込まれている。 「知らない……」  女の声がした。聞き覚えがある。愛想のない、掠れ気味の質感は泣いた後のようにも思えた。"七瀬ちゃん"だ。宮末と"七瀬ちゃん"だ。櫻岬は咄嗟に柊を振り返ってしまった。また引き摺り回され、気付けば外である。 「なんなん」  櫻岬は強がってみた。彼もショックなのだ。どういう経緯か分からないが、今現在交際相手のいる元恋人とただならぬ様子であった。宮末に限って爛れた関係にあるはずはない。宮末は聖人君子なのである。宮末は徳を積んだ偉大な人物なのである。傑物だ。英雄なのだ。主人公でありヒーローだ。それがろくでもない恋人のいる元恋人と密かに会っていたからといってどのような汚点になるのだろう。宮末は間違わない。宮末は正しい。 「なんなんだよ」  柊は黙っていた。櫻岬は今頃2人でいる2階を見上げた。 「ちんちん勃たないよ。べいべが代わりに、きらりんのところ行って」 「どこ」  溜息が帰ってくる。何に対する溜息なのだろう。 「そっちのキャンパスの学生会館」  第二キャンパスの学生会館といえばほぼ廃虚である。何故か学生会館と呼ばれているが、その正体は出るものが出そうな物置と化している。 「あそこかよ……」  日が落ちて外は暗い。吉良川も1人で待っていたのでは怖いだろう。櫻岬は急ごうとしたが、一旦止まった。ぼんやりと自分の交際相手とその元交際相手がいるはずの建物2階を見上げている。 「ばったり会っただけだろ」  櫻岬もそう信じたい。宮末は正しい。宮末は間違わない。宮末が"七瀬ちゃん"と密かにそうなっているのならば、世間もまた色恋に対して多情的であるべきなのだ。  柊の背中を引っ叩いて吉良川の待っている第二キャンパスの廃虚、(もとい)、学生会館に向かった。  白いコンクリート打ちの学生会館は巨大なオブジェのようであるが、人の出入りするところと考えると小規模な感じがある。黒ずんだガラス張りで「コ」の字型を形成し、2階建てで、3歩ほどしかない鉄板の渡り廊下がついていた。洒落たアパートのようであるが今では倉庫同然だった。文化祭などで使うものがダークカラーを帯びたガラスの奥に立て掛けてある。吉良川はそういう煤けたコンクリートの壁の陰に立っていた。 「櫻岬……?」 「柊が用事あって来れないんだってさ」 「用事……」  彼の表情は暗さによってよく分からなかったが、その声は鋭さを伴った。 「何かあったのか」 「失恋でもしたんじゃね」 「恋人のことか」  櫻岬はまじまじと吉良川を見てしまった。どこから拾った光かは分からないが、レンズにグリーンやブルーの模様が反射している。 「……うん」 「そうか」  吉良川はひょいと鞄を掛け直す。 「伝えに来てくれてありがとう。今日は帰ることにする」 「そっか。門まで一緒に行こうぜ」  櫻岬もその後を追った。 「あそこ、怖くないん?」 「怖いさ」 「じゃあなんで?」 「柊の……………趣味」  怖がる吉良川を脅かして愉しんでいるらしい。恋人にもそういうところがあるのだろうか。そら浮気されるわ、と言いかけそうで慌てて呑んだ。吉良川にとっては柊の交際相手にしろ宮末にしろ複雑な相手であろう。 「とんでもないシュミしてんな」 「俺も……結局は悪くないと思ってしまって……」 「え、あ………そうなんだ」  何の話をされたのか一瞬分からなくなった。分かりたくなかったのかも知れない。しかし分かってしまった。 「変な話をした。すまない」 「いや、別に……」  笑って誤魔化せない自分の迂闊さを櫻岬は呪った。猥談には慣れているはずだが、吉良川からされるとは思わなかった。そして生々しさを伴う。他人事でいられない。妙な圧迫感を覚えてしまう。 「あ、のさ……吉良川」 「なんだ?」 「も、やめとけよ。なんか……柊、怖いしさ。約束、忘れられたりすることもあんだって?」  吉良川の腕を取ってしまう。 「柊から聞いたのか」 「ぽろっと言ってるの聞いた」 「恋人との予定が入った時の話だ。恋人を優先するのは当然だろう。俺は気にしていない」  彼の腕をさらに短く持った。 「でも先約は吉良川なんだろ?友達と予定があるって断ればいい話じゃん、柊が」 「そうもいかないんだろう。俺は割り切っているし、別に悲しくもない。俺のために怒ってくれているのか」 「違う。単純に気に入らないだけ。カノジョとかカノジョじゃないとか関係ないだろ。先約なんだぜ。早い者勝ち」  掴んでいないほうの吉良川の手が、櫻岬の手に重なった。 「なんだよ」 「柊の、恋人のことだが……」  吉良川の目が泳ぐ。何か知っているらしい。宮末と現在も関係が継続していると、断言しそうな空気だ。 「なに……?」 「いいや……」  冷たい風が強く吹いた。 「寒(ちゃび)び……」 「風邪がぶり返すんじゃないか」  吉良川は自分の上着に手を掛ける。 「着るか?」 「はぁ?吉良川こそそんな薄着でナメてんの?」  服をそれなりに着ているはずだが彼は華奢に見える。 「着とけ、着とけ。吉良川、風邪ひいたら肺に穴空きそう」 「俺からすると櫻岬もそんな変わらないけどな」 「ウソだろ」  吉良川の冗談に決まっていた。櫻岬はぴくち、と(くさめ)をして震える。 「おい」 「悪り」 「何か飲むか。温かいもの。買ってくる」 「へーき、へーき。感染しちゃ悪ぃな。ここでバイバイ。帰ったら手洗い嗽な」  櫻岬は立ち止まった。離れかけた吉良川が振り返る。気に入らなそうな表情をしているのがキャンパスの明かりで照らし出される。 「やられると結構ムカつくんだな」  小さな呟きと共に吉良川にほんの1歩を埋められてしまった。

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