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第10話

「おれか?おれだったら、友達から……かな。友達付き合いで、色々分かってくることもあるだろ?でも悪いかな、それ。相手はおれのこと好きなんだもんなぁ……」  櫻岬(さくらざき)の中の隅に追いやられた理性は、意外にも真摯に答える 「フューチャー、いいの?それで」 「何が?」  逞しい腕から細く長く伸びた菜箸と、こちらを向く宮末(みやまつ)の姿は絵になった。暮らしの雑誌の表紙みたいだ。 「フューチャーは、怖くないん?」 「だから、何が?」 「好きじゃない人に好きになられるん、ウザくないん?怖いし、キモくないん?」  もし櫻岬が、先程スーパーでアルコール度数ばかり高い安価な酒缶を選ばなかったら、あるいはテーブルに並ぶ甘味の強いジュース紛いの酒缶をここで開けていたなら、宮末の表情が強張ったことに気付いたのかも知れない。 「……(ホン)ちゃんは、そう思うのか」  酔った頭にしろ耳にしろ、それは非難の響きを持って入ってくる。寛容で優しく、大体のことに模範的な正しさを備えた宮末に下卑た表現をしたのは間違いだったのだ。それを櫻岬は言ってしまってから気付き、そしてそう解釈した。宮末からすれば、好意を寄せてきた相手には感謝を示さねばならないのかも知れない。とすると吉良川は報われる。 「ん……フューチャーは、どう思うのかなって………」  彼に蔑まされるのは嫌だった。恐ろしいことだ。立ち直れなくなるかも知れない。櫻岬は自分の意見を口にしないことにした。 「おれは…………どんな人でも嬉しいよ。おれのこと、好きになってくれるなら」 「フューチャー、完璧過ぎてたまに怖くなる。フューチャーが怖いんじゃなくて、フューチャーがいつか壊れそうなんが、怖い。マジで全部へーきで、フューチャーの性分(シュミ)みたいなのとオレの思う完璧だなってやつがマジのガチで同じ方向向いてるだけなら、いいんだけどさ……」  櫻岬はぼそぼそと喋った。酒気の回った頭では、果たしてワードチョイスが自分の言いたいことに則し、相手を傷付けたり怒らせたりしないかという点で、正しいのか否かすらも分からない。 「おれはそんな、紅ちゃんが思うような高尚でよくできた人間じゃない」  フライパンが持ち上げられた。皿の上で傾き、菜箸が掻く。 「オレから見たら、完璧なんだよ。でもそれ、ムリしてんのかどうかも分からんくらい自然なんだもん。なのにオレ、そんなパーフェクトな人間、いないとも思ってるんだ。ンでも、フューチャーがそういうふうに演じてるんだとしたら、それもめちゃくちゃすげぇコトだと思うんだ。だってオレ、絶対カオに出るし、態度に出るし、1時間も続かないと思うし」  ぐび、ぐび、と酒を呷る。飲みやすくフルーツの味がついているはずだったが、すでに口腔にあるのは鼻まで届く苦みばかりだ。 「できたぞ」  皿を持って宮末がやってくる。櫻岬もテーブルへと戻る。対面に座る憧れの人はどこか悄然としている。俯いたように見えた。 「フューチャー…………?」 「ん?なんだ?」  彼は顔を上げてにかりと笑む。そこに悲哀の色は見出せない。 「変なコトばっか訊いてゴメン」 「ははは、気にするなよ。それよりも空きっ腹に酒は良くないから、早いところ食えよ」  そう言って彼はポテトチップの袋を開けた。 「紅ちゃん」 「なぁに」  小さく捌かれた鶏肉を食らう。みりんの甘みが効いている。 「あんまり褒めるなよ、おれのこと」  ポテトチップスを耳に心地よく噛み潰し、宮末はやっと缶を手に取った。プルタブに指を引っ掛ける仕草までが櫻岬からすると洗練されて見える。 「なんで?」 「褒められると弱いから」 「でもオレ、別に褒めてないよ。思ったコト、そのまま言ったんだ。でもイヤだった?ゴメン」  舌が回らない。言葉より先に首が伸び、宮末のほうへ前のめりになる。それを見て宮末は微苦笑し、手を左右に振った。 「嫌じゃない。むしろ嬉しいよ。でも、無理はしてないんだ。おれはおれの思うとおりに好き勝手やってるよ。ありがとうな、紅ちゃん。おれが無理してるかもって気を遣ってくれたんだもんな」 「じゃあ、やっぱフューチャーってすっげぇやつ!」  櫻岬は無邪気に笑った。自分の同い年の兄貴分は偉大なのだと大声でどこかしらに喧伝して回りそうだった。 「だから、褒めるなって」  だが、鶏肉を口に入れて頬を綻ばせていた櫻岬は突然涙をこぼしはじめる。啜り泣く。宮末のへらへらと緩んでいた表情も引き締まる。  兄貴分が、飼主分が偉大で清廉であればあるほど、櫻岬は自身の汚穢(おわい)感に溺れなければならなかった。酒では薄まらず、アルコールでは拭い去れない。他者の目の前で、互いに持ち寄る恋愛感情もなく、どちらがどちらを犯したのかも分からない出来事がふと胸元で突然爆発したのである。そしてそこには別れ際の吉良川の不器用ながらに純真な笑みの残像が伴う。 「紅ちゃん……」  うっう、と涙を落としながら意地でもそれには気付かないとばかりに鶏肉を頬張る。 「紅ちゃん、どうした?ツラいこと、思い出したのか」  眉根が寄ってしまう。涙が止まらなくなってしまった。明日から吉良川に会えないような気がする。トイレで彼を抱き竦めたのが夢や幻みたいだった。 「紅ちゃん……」 「ゴメン。オレもよく分かんなくなっちゃって。なんだかよく分かんない……」  手を伸ばすと、宮末はポテトチップスの袋の口を向けた。櫻岬が数枚取ってから、彼は袋を展開した。あおのりのついたチップはまだこんもりと入っている。 「無理してるのは紅ちゃんのほうだったのかもな」  櫻岬は首を振る。宮末は彼の否定を信じていないふうに苦笑を滲ませる。 「自己矛盾、みたいなやつ」 「自己矛盾」  復唱される。 「すごくイヤなことされたのに、恨めない。可哀想だと思っちゃって」  宮末はおそらくストロベリーかフランボワーズかラズベリー辺りの酒缶を一口啜る。 「両立するだろ。嫌なことは嫌だった。それでいて相手も可哀想なやつなんだって。恨む必要はないよ。紅ちゃん、優しいんだな」 「優しくないよ、オレ。優しかったら、多分もっと上手いことやれた。きっと」  赤らんだ目を眠そうに擦り、酒を呷った。随分と飲んだつもりでもまだ缶には重みが残っている。半分は越えたが、実感よりは飲んでいなかったらしい。 「自分が嫌な思いしたのに相手のことを思い遣れるのはすごいことだ」 「そんなん、フューチャーがいつもやってることじゃん。オレは多分、そこのところ、フューチャーほど割り切れてないし、背負いきれてないよ。ナチュラルいいやつにはなれなかったな。だからくだらないコトで、こんなふうになってんだ」  ポテトチップスを齧る。宮末は櫻岬を見つめながら脚を崩し、ちびりちびりとアルコール度数の低い缶を傾ける。 「褒め殺すのはやめてくれ」  酔いの兆しもない爽やかな面立ちにはやはり微苦笑が浮かんでいる。 「フューチャー……」  彼は浄罪の太陽みたいだ。天日干しにして清めるみたいに、宮末の傍にいたならば自身の不快感も滅菌されるような気がする。 「酔ってきたな。おいで。紅ちゃんは酔うと甘えたがりになるんだから」 「フューチャー」  飼主が腕を広げては、忠犬としてそこに行かない手はない。四つ這いで飼主のもとに向かった。気分はスムースヘアードのダックスフントである。 「男同士でこんなことして、ゴメンなぁ?」  宮末の腕の中に入ってから櫻岬は手を伸ばし、飲みかけの酒缶をまた呷った。脳味噌が凍りついたような感じで意識はくずぐずに溶けたみたいだった。 「ま、抽象概念で言ったらそうなるけど、紅ちゃんだし?」  宮末は愛玩犬を抱き上げ、背に腕を回した。 「フューチャー……」  膝立ちになり、宮末を見下ろす。他意はない。ただその唇にキスをしてみたくなった。肌と肌のぶつかり合いを求めていた。宮末でなくとも、清潔感があれば誰でもよかった。衛生観念を害さなければ、見ず知らずの者でもよかった。上塗りしてみたい。試してみたい。来るべき衝撃に耐えられるかも知れない。 「チュウ、していい?」  宮末は目を見開いた。咄嗟の拒否はない。ただ驚いたように眼を大きくするだけだった。 「ポテチ食べたばっかだぞ」  櫻岬は頷いた。それは為倒(ためごか)しの遠回しな拒絶なのか、勧告付きの是認であったのかは判断がつかなかった。 「する」 「分かった」  酔っ払いのしかつめらしい顔は苦笑によって往なされた。櫻岬は宮末の両頬を固定する。 「フューチャー」 「焦らすなよ。おれからしようか?」  櫻岬は首を振る。 「フューチャーは、ホモじゃない」 「またそれか」 「でもオレ、おかしいから。オレがおかしいんだ。でもさ、でも、チュウしてみたい」  そのとき、櫻岬の視界は急速に下降した。力を込めたつもりはなかったけれども、宮末を押し倒してしまったらしい。 「フューチャー!」 「ははは、ごめんな。ちょっとは酔い、覚めたか?」  どうやら宮末が自ら下敷きになるよう背中から倒れたらしい。 「フューチャーはどっから見ても男前だなぁ」  下にある顔を触る。寝ても肌が弛まない。質も良い。生活に臨む心構えが違うのである。 「紅ちゃん」  軽快に笑っていたはずだ。それが妙に凛々しくなった。櫻岬が気付くよりもはやく後頭部に手が回る。唇がまろやかに蕩けた。 「フューチャっ、!」 「満足したか?」  慌てて口元を押さえる。 「褒められると弱いって言ったろ」 「お世辞だったかも知らんよ。お世辞だったかも…………」  一瞬の感触を惜しんでいるのか櫻岬は自分の唇を摘んだり引っ張る。 「お世辞だったのか?」 「違うけど……全部、ホントのこと。ホントだよ?フューチャー……ホントにすごい人」  そして櫻岬は長らく「ホント」だの「すごい人」だの繰り返し、その"すごい人"を敷布団にして寝落ちてしまった。 「紅ちゃん……」  髪を撫でられ、堅い胸板に頬を擦り寄せる。 「ひゅ~ちゃぁ」 「あんまり、惑わさないでくれ」  四指の背が頬肉に押し当てられる。大好きな飼主、憧れの兄貴分の匂いと体温に、櫻岬は安眠する。  喉の痛みと咳で目が覚める。温かな宮末の匂いがまだ眠気を誘ったが身体を起こした。二日酔いの頭痛もある。ふいと室内を見渡すと書置きとバンダナに包まれたもの、それからスポーツドリンクと漢方薬が置かれていた。昨夜、家主が買ったインスタントのしじみの味噌汁のカップも置かれている。 『熱があるみたいなので今日は寝ていてください。弁当を作ったので昼飯にでも食べて』  スマートフォンも確認してみる。時間を置いて様子を窺う内容のメッセージが来ていた。『しんどかったら帰るから言ってくれ』というのが最新のものだった。 『平気!悪かったな!良くなったから帰るわ』  送信して3分と経たずに端末が震える。テキストメッセージにしては長かった。電話である。 「あ、フューチャー?今講義の時間じゃないん?」  声が出なかった。そして鼻の詰まったような曇った質感である。 『そうそう。ちょっと抜けてきた。紅ちゃん、悪化しても仕方ないからまだ寝ておけよ。おれは平気だから。講義のプリントももらっておくな』 「ゴメンな。分かった。じゃあもうちょっと寝てる」  講義を真面目に受けている宮末の時間を奪っても仕方がない。バンダナを解いて弁当を食らう。宮末の顔を潰すわけにはいかない。甘苦い漢方薬をスポーツドリンクで飲み干す。 『お弁当おいしかった。ハンバーグめっちゃうまい』  既読を示すマークが即座についた。 『また作る』  櫻岬は宮末の返信を眺めてへらりと笑った。それからまた眠気に誘われて少し寝た。枕元に置いた端末が短く震える。 『吉良川が探してるみたい』  うつらうつらとした頭で字を読む。遠目から視線を送る吉良川の姿が簡単に想像できてしまった。宮末は吉良川と大喧嘩したものと思っているらしい。だが自分を探しているわけではないのだと櫻岬は内心でしか言えないのである。吉良川の本音を勝手に伝えるのは卑怯だ。 『じゃあオレから連絡しとく』  それが無難な返答だろう。 『ありがとな』   間を置かず2連続で送信する。「了解」と書かれたネコの写真を切り抜きのステッカーが送られてくる。  天井を見上げると、吉良川のへたくそな笑顔がそこに微かに映っているような気がした。急に居心地が悪くなった。咳が出る。二日酔いの頭痛も小さく響いた。端末で時間を確認した。バッテリーもそろそろ無くなる頃だ。  咳き込みながら懐き尽くした飼い主の匂いに潜る。彼はどこで寝たのであろうか。帰ってきたら謝らねばならない。家事も手伝うつもりだった。けふけふと喉の痒さを出す。友人とはいえ他者にベッドを貸すのは嫌だっただろう。それも風呂に入り損ねた風邪っぴきをだ。さらに尊敬と憧憬の念を深くしながら意識を手放す。 「―紅ちゃん」  けほけほと咳を繰り返す。喉が漠然と痒い。毛玉を吸い込んだみたいだった。吐き出そうとさらに咳をする。 「―紅ちゃん、大丈夫か?」  上半身がベッドから引き剥がされ、起こされたことで目が覚める。睫毛に部屋の明かりが絡みついているみたいだった。 「紅ちゃん、飲んで」  唇にペットボトルを当てられる。粘度の低い水分が清々しい音を鳴らす。櫻岬の口腔には甘みのある液体が流れ込んだ。まるで哺乳瓶から栄養補給をしているみたいだった。見上げると宮末の慈愛に満ちた双眸と()ち合う。 「今ごはん作るからな」 「ひゅうちゃぁ、オレ、ゴメン……そろそろへーき」  大きな掌が額に当てられる。どちらかの肌が汗ばんでいた。 「まだ熱あるみたいだけど」  体温計を腋の下に突っ込まれる。 「治るまでいたらいいよ。一人暮らしで熱出してるの、しんどいだろ」 「ひゅうちゃー、どこで寝てるん………?」 「そんなこと気にすんな。ごはん作るから。食べられそう?」  頷いた。宮末はへらと笑って玄関先に置かれた買い物袋のほうに向かっていく。櫻岬は上体を起こし、キッチンスペースに立つ宮末を見ていた。 「ひゅうちゃあ」  呼ぶとベッドまでやって来る。洗ったばからの手には赤みが差している。 「どうした?」 「迷惑かけてゴメン。感染(うつ)ったらオレが看病するから……」  よいタイミングで体温計が鳴った。まだ熱があるらしいことを宮末は呟いた。 「紅ちゃん、身体拭くからね」  彼は咳が止まるのを待ち、温かな濡れタオルで友人の身体を拭いた。 「うぅ」 「熱い?」  櫻岬は首を振った。ただ身体を伸ばして声が漏れただけだったが、よくできた兄貴分は手を止めた。 「だいじょぶ。シャワー、浴びてい?さすがに何日も風呂入らないでベッド借りるの、悪い」 「いいけど、平気なのか?ムリしなくてもいいぞ」 「だいじょぶ……」 「そうか?じゃあ飯の支度しておくから」  濡れタオルを預かり櫻岬は浴室を借りた。シャンプーボトルのポンプを押したとき宮末の匂いの出どころを知る。ボディソープも宮末から薫ったものが含まれている。そう珍しいメーカーではなかった。吉良川に教えたい衝動と教えてはならない独占欲と教えたら厄介なことになる計算が(せめ)ぎ合う。よほど小規模なドラッグストアでもない限り購入できそうなほど、よくある洗剤だった。妙な心地になりながら身を清める。  シャワー室から出た途端にタオルを構えていた宮末に捕まった。借りたタオルは腰に巻いていたが頭や上半身を次々と拭かれていく。 「フューチャー、タオル洗って返すっていうか買って返すわ。オレのちんこついたのイヤっしょ」  拭かれながら喋る。子供の頃に戻ったみたいだった。それか洗車機の中にいる。 「いいよ、別に。おれはあんまり気にしない。紅ちゃんだし」  ふわっ、ふわっと宮末からした洗剤の匂いが鼻腔を擽る。それだけでは済まなかった。大好きな飼主、憧れの兄貴分の匂いが染みついた寝間着を借りねばならなかった。 「ゴメンな、ドライヤーないんだわ」  タオルドライの後、手拭で頭を包まれる。すでにテーブルにはネギが山盛りになったうどんが置かれている。油揚げと蒲鉾も添えてあった。 「足りなかったらまた茹でる」 「ありがと、フューチャー。いただきます」  声はやはり自分で聞いても鼻が詰まっている感じがある。慕ってやまない同い年の兄貴分の対面に腰を下ろし、うどんを食らう。 「フューチャーはどうしてなんでもできるん?」  擂られた生姜が効く。宮末のよりもワカメが少ないのは消化を考慮されたのだろう。その代わりにネギが多かった。 「なんでもはできてないだろ。やれることしかやれてないし」  うどんを啜り、彼は苦笑する。 「オレ、むりだもん。誰かにベッド貸したまま、そいつに優しくできない。なんでだよ!って多分キレる。タオル使われんのも。いいよ、って笑って答えられない。だから、すごいと思う」  彼は、はははと口元を綻ばせている。 「紅ちゃんだからだよ。気にすんな」  自分ならばたらたらと嫌味を垂らし続けただろう、など櫻岬は考えていた。彼の友人に対する見方はすでに崇拝の域に達していた。 「すごいフューチャーのすごさにおんぶに抱っこしない」  酒は飲んでいないはずだが、櫻岬は舌足らずに言った。ぼんやりとしたまま自分が何を話そうとして何を喋っているのかも分からなかった。 「紅ちゃん?」  眠くなりながらうどんを啜る。 「だいじょぶ……」  目を擦った。 「残してもいいんだぞ」 「食べられる」  残りのうどんを平らげる。昆布出汁の効いた汁も吸った。 「ごちそぉさま」 「お粗末様でした」  両手をぱんと打ち鳴らす。 「よく食べたな」 「うん。美味しかった。ひゅうちゃあはすごい……」  重くなった目蓋をなんとか開閉する。世話焼きな家主はまだ食べていたが中断して風邪っぴきに漢方薬を飲ませベッドに入るのを手伝った。 「ひゅうちゃあ」 「横向いて寝るか。食べたばっかじゃ仰向けはキツいだろ」  体勢が決まると布団を掛けられていく。小さな風に洗剤では足らないほどの彼の匂いが吹く。 「ひゅーちゃーのカノジョになったら幸せ」  他意はなかった。鈍くなった頭は思ったことを吟味もせずに口から出す。鼻声の自身の言葉を聞いて、薄らと吉良川のことが過った。それから元交際相手で現在の柊と付き合っている"七瀬ちゃん"を思い浮かべた。彼女もこのベッドに寝たことがあるのか。そう考えた瞬間にカップルの営みがふと連想され、体温が上がってしまった。傍にいるとあまりにも清らかで颯爽としているために忘れがちだけれども性格はよく見目も悪くない。時折、中学高校と遊んでいたようなことを匂わせることもあった。他の連中が言えば虚栄心の発露かも知れなかったが宮末である。ともすればそれなりに遊んでいたのだろう。随分と清楚な身形に品行方正ではあるけれど、それは爛れた過去の生活から改心したからに違いない。 「どうした?急に」  そういう人物が、果たして部屋の片隅で捻くれたようにしている控えめな吉良川を好きになどなるだろうか。爛れた関係の中で経験は豊富なのかも知れないが、実際彼は宮末を前に冷たい態度しかとれないではないか。 「眠くなってきた」 「寝ろ、寝ろ。もう目が眠そうだもんな」  宮末のほうを向いた。優しげな眼差しに甘んじる。自分が(かよわ)いチワワの気分になった。 「……おやすみのチュウ、するか?」  たとえ櫻岬が発熱し眠気に呑まれかけていなかったとしても、彼では宮末の表情が仄かに硬くなったのを見破れはしなかっただろう。 「うーん。オレ、歯、磨いてないよ」  真横から柔らかな苦笑いが聞こえる。それから陰った。鼻を摘まれ、唇がとろ、とチョコレートが一瞬で溶けていくようななめらかさに似た感触に包まれたのだ。それは局所的なものにもかかわらず、全身を覆いかねない威力がある。酒よりも浮遊感の強い陶酔だ。 「なんで、鼻摘むん」 「人工呼吸の癖?」 「癖になるほど人工呼吸するん?」  すでに目蓋は通常の半分ほどしか開かない。上瞼と下瞼の睫毛がハエトリソウの如く絡み付いたみたいだった。 「紅ちゃん」  まるで本当に愛犬や愛猫を呼ぶように甘い響きを帯びている。 「ぅん……?」  目を閉じたまま飼主に鼻先を向けた。ほとんど乾いている髪に手櫛が入る。異性から薫るほど匂いの残るシャンプーではないけれど、宮末の匂いが濃くなっている。 「うどん、のびちゃぁよ……」 「そうだな。ありがと。おれのうどんの心配してくれて」  軽く頭を叩かれ、尊敬している兄貴分の手が離れた。それが少し寒く寂しく感じられる。

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