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第9話

 講義の終わるチャイムが鳴る。コメントペーパーを書き終えた順に退室していった。櫻岬(さくらざき)もコメントペーパーを提出した。宮末はびっしりと紙に書き込んでいる。それを待っている間に、吉良川(きらがわ)が帰っていくのを見ていた。相手が振り返る。目が合った。瞬間、逸らされた。 「ごめんな、(ホン)ちゃん」 「いや、この後暇だし」  やっと書き終えたらしい宮末は紙を持って教壇へ向かう。 「誰か探してたのか?」 「探してないよ、誰も」  彼は「待て」のできた愛犬を褒めるみたいに櫻岬の髪を撫で回す。 「おれはレポート終わらしていくけど、紅ちゃん、どうする?」 「オレは帰る」  要領はいいけれども、挙措(きょそ)のひとつひとつにゆとりのある宮末を待っていたつもりだ。しかし焦っていたかも知れない。PCルームの富んだ本館前で手を振り合ったが、十分でない気がした。急いているみたいに、ぞんざいな別れ方だったと後から気付く。  櫻岬の足は吉良川を探した。もう駅まで行ってしまったのかも知れない。彼のいそうな人気(ひとけ)のない西の第二キャンパスへ渡る。その途中で柊と"七瀬ちゃん"カップルとすれ違う。 「あ、べいべ。ほら、七瀬ちゃん、(べに)くん」  柊は丁寧なことに"七瀬ちゃん"の腕を引いて櫻岬の前に突き出した。 「お邪魔しやした」  だが柊はまだ放すつもりはないらしい。 「何してんの?まだ帰らないの?」 「うん」 「きらりんならそこの裏のトイレにいたよ」  彼の恋人からは見えないけれども、柊はそのとき無邪気ながらに陰険な笑みを浮かべていた。 「別に吉良川のこと探してるワケじゃないけど」 「ああ、そうだった?それはごめん、ごめん」  けたけたと笑って柊は"七瀬ちゃん"と門のほうに向かっていった。帰るらしい。不本意な相手から情報を得てしまった。  果たしてそのとおり、吉良川の気配をトイレで感じた。男子トイレではあるが、ここは完全個室で、左右に落ち着いたアパレルショップの試着室みたいなのがずらりと長い奥行きを持って並んでいる。櫻岬は息を殺し足音を押さえて踏み込んだ。人がいるのはセンサーによる照明で分かることだった。入ってすぐの鏡に映る櫻岬の表情は苦々しい。嗚咽が聞こえるのだ。ダークブラウンの木目を残した試着室みたいなトイレがひとつ閉じている。洗面所の分数が少なくなっているのが大便器で、その対面が小便器だが、閉まっているのは大便器の最も奥の個室だった。 「吉良川」  ひっ、と吃逆に似た音が聞こえ、嗚咽が消えた。 「いいよ、分かってる。柊から聞いた」  鍵の外れる音がした。ドアが開く。肩を震わせる姿が目に入る。 「吉良川?」 「すまない……すまない、」  彼は泣き腫らした目を擦ってから眼鏡を掛ける。 「ずっと泣いてたの」  逡巡する。決めかね、狼狽え、躊躇いながら啜り泣く肩に手を置いた。やはり細い。 「泣いて、ない……」 「いや、泣いてる。…………フューチャーのこと?」  神経質そうな眉が寄った。拭き取られたばかりの赤い目が潤む。 「違う……」 「なぁんだ、そっか。心配しちゃった」  へらへらと笑ってやると吉良川は俯く。 「心配かけたな。宮末にも悪いことをした」 「まぁ、フューチャーは、許してくれてるよ。優しいっつーか、しっかりしてるっていうか、自分の機嫌は自分で取れるし、他人(ひと)のこと絶対悪く言わないんだよな。やっぱすごい人だよ」  吉良川はゆっくり頷いた。 「ツンデレめ」 「……違う」  窶れて見える吉良川の落ち込んだ姿は寒そうに見えた。見ているだけでも寒い。震えているのは凍えているように思える。ぎこちなく引き寄せる。意外にも抵抗せず、彼は櫻岬に身を任せた。あまり身長差はない。柔軟剤の香りが優しく漂う。 「櫻岬……」  中学生以来、泣く同性の友人というのがいなかった。ぎこちなくなる。骨張った背に腕を回した。 「ま、まぁ、泣きなさんな」  予想に反して彼は肘を張ることもなければ突き撥ねることはない。 「泣いてない……」 「そう?じゃあ泣いてない」  暫く身体をぶつけたままでいた。吉良川が徐ろに身を引く。まだ項垂れている。 「もう平気だ。ごめん……」 「へーきならいいけどさ。帰ったらちゃんと食えよ。ちゃんと風呂入って、ちゃんと寝てな。アホなこと考えなくていいから」  俯いたまま吉良川は頷いた。 「ありがとう、櫻岬。俺にはもったいない友人だ…………友人、だよな?」  やっと顔を上げたかと思えば不安げだった。 「確認することじゃない」  肩を軽く叩く。吉良川は悄然としながらも笑みを見せた。 「行こ。こんな長居したらここの電球切れるんじゃね」  手首を掴む。トイレから出ようとした時に袖を振り払われる。 「どした?」 「手を洗う」 「トイレ使った?」 「使ってないけど、ドアとか壁、触ったから」  手を洗う後姿を見ていた。神経質だ。液体石鹸まで使っている。ハンカチを持ち歩いているのも彼らしい。櫻岬の周りでいえば、吉良川と宮末くらいだ。トイレの後に手を洗うのも。 「偉っ」 「…………普通じゃないか」 「そう?」 「いや、こういう言い方がよくなかった」  鏡の中の吉良川は手の水気を落としている。櫻岬からは丸まった背中しか見えない。背骨が服に透けて見える。 「手はフツーに洗ったほうがいいよ。オレは洗わないけど」  妙に洒落た大規模なトイレのある建物から暗くなった外へと出る頃には癖によって吉良川の手首を引いていた。 「吉良川はもう帰る?」 「帰る。櫻岬は?終わってない課題でもあるのか」 「ないよ。そっか。じゃあな、吉良川。また明日。バイバイ」  門の前で別れるつもりだった。手を振る。 「櫻岬」  櫻岬の思うタイミングとは違った。吉良川は手も振らず、身を翻すこともなくそこに留まる。 「何」 「櫻岬…………変わらず接してくれて、嬉しかった。ありがとう。じゃあ……な!」  控えめながらも吉良川に対する印象の中では精一杯といった所作で手を振り返してきた。背を向け、離れていく。櫻岬の手は擬似的に左右に揺れる。別れる直前にぎこちない笑みを向けられていた。それが脳裏に転写されてしまった。フラッシュバックみたいに目瞬きのたびに鮮明になる。ぎこちないところがかえって吉良川らしかった。気拙いものを見てしまった。柊との異様な関係に巻き込まれたときに目撃した姿よりも、何かが気拙い。 「べ~いべ!」  後ろから容赦のない抱擁を食らう。予期しない衝突に噎せた。恋人にするような体勢にもまるで頓着がない。柊だ。 「なんだよ。っていうか帰ったんじゃないの」 「カノジョ送ってきた」  がっしりと胸元にまで回った腕を剥がそうとするが柊は笑ってばかりで離れようとしない。 「柊もさっさと帰れって。吉良川はもう帰ったけど?」 「ふ~ん。じゃあべいべと遊ぼうかな」 「遊ばないよ、放せって。なんで抱きつくの」  暴れるだけ柊を喜ばせている。むしろ強く抱き締め返され、耳に口付けられてしまった。 「なにっ、!すんだ!」 「べいべの身長(サイズ)、可愛いから。ハグされ慣れてるね。きらりんなんか、何十回、何百回ってハグしてるのに、なかなか慣れてくれなくてさ」 「やだ!や~だ!放せっ、放せよ!」  背後からの抱擁というよりも捕獲である。それをいいことに耳に息を吹きかけたり、唇を掠らせたりして遊んでいる。組まれた腕は固い。 「べいべちょっと髪硬いんだね。きらりんなんか猫っ毛でさ。あ、染めてんだ。いい匂~い。あんまり汗かかなかったの?シャンプーの匂いする。きらりんが綺麗好きでなんか清潔感あるだけだと思ってたけど、べいべもあんまり臭くないんだね?男なんかみんなあっちこっちぼーぼーで臭いと思ったのに」 「臭いのはアンタだけじゃないの」  肘で後ろにある長身を小突く。 「え、やだ、ボク、臭い?」  彼は腰を曲げ、さらに顔を近付けた。10cm近く差があるためにまだゆとりがある。そして口を開けると匂いを嗅がせる。 「うっわ、サイアク!」 「臭い?」 「知るかよ!離れろ!」  柊から逃れようと歩く。楽しげに彼はひしとしがみついたまま後を追ってきた。 「紅ちゃん……?」  戸惑い気味の宮末の声と呼び方だった。 「フューチャー……」  宮末は少しおどけたような、彼にしては子供っぽい、しかし不意を突かれたらしき顔をしていた。目が丸くなっている。 「まだ残ってたのか」 「うん、ちょっと」  耳朶を捏ね繰り回されていることにも構わず、宮末を向く。だが彼の目を見た瞬間、今背中に纏わりついているのが宮末から恋人を奪った野郎だと気付いてしまった。憧れの兄貴分に歩み寄る足が止まった。 「じゃあ……な!また明日!」  後ろに纏わりつくのを追い払い、宮末のほうへ行ってしまいたかったけれど、ひいはまだ放そうとしない。頬にまで口付ける。 「おい」  そこまできて宮末が声を荒げた。不快の2文字が爽やかな顔面に張り付いている。櫻岬はびくりとした。一瞬で氷点下へ達する。 「ご、ごめ……」  優雅で清らかかつ爽やかな彼にとって、目の前で男2人が乳繰り合って頬にキスをする光景というのは我慢ならないものだったらしい。宮末に嫌われてしまう。尊敬し憧憬し慕っている人に嫌われてしまうのは厳しいものである。 「紅ちゃん」  手招きをされる。彼の愛犬になりたい櫻岬は柊を突き放す。柊のほうでも今度は簡単に放した。 「フューチャー!」  駆け寄る。賢い犬を愛でるように大きな手が髪や頬や肩を撫でる。しかしそれが治まると櫻岬は柊を振り返ってしまった。 「きらりんのコト、裏切るの?」  言動と表情が一致していない。彼は首を傾げ、人懐こく笑っていた。どういう意味かと問い返すよりも早く、柊はくるりと背を向け、離れていった。 「裏切る?吉良川が?え?」  宮末の両手が肩に乗る。後方上から顔を覗き込まれる。竹箒で掃かれるような、サッとした不安が急に櫻岬を襲った。 「オ、オレも、よく分かんない。アイツがなんか勘違いしてるんだと思う。人違い。だって、なんのことだかワケ分からないし」  あは、とおどけて笑っておく。しかし宮末は気難しい表情をしていた。 「フューチャー……?」 「紅ちゃんが気にしてないならいいんだけどさ。あんまり、聞いていい気分するもんじゃないだろ」  肩にあった手が頭に乗る。彼の相棒犬になれた感じが光栄だった。 「フューチャー、優し」 「そうか?」  櫻岬は頷いた。 「紅ちゃん、もう帰るなら一緒に行こうぜ」 「おう、帰ろ、帰ろ。オレもさっき別れた後さ、用事思い出して……」  愛想笑いを浮かべた。今隣にいる人物を想って泣くレンズの奥の瞳がふと甦った。 「紅ちゃん?舌でも噛んだ?」  宮末は爽やかで人懐こい。ほぼ無意識、無自覚に顔面を突き合わせ、目を見つめ、わずかに首を傾げる。もしそれを異性の友人にやられたら、強く意識してしまうかも知れない。 「いや、別に!なんでもなぁい」  先に歩くと宮末も後からついてくる。駅前まで着くと、いつもは気にもならなかったデジタルサイネージが目に入る。最近実写映画化した男性キャラクター同士の恋愛を描く漫画の広告が映っている。頬にキスをしているのがメインのカップルだろう。それが目に入った途端に櫻岬は直立不動になる。  高めのアパレルショップの試着室と紛うトイレでの出来事が意外にも、先程の柊の抱擁よりも粘こく纏わりついている。宮末に見せたくない。同性から大切に想われている憧れの人物を見たくない。彼に、同性同士の恋愛が彼の身近に当然にあることをまざまざと見せたくない。それでいて吉良川の感情に違和感も抱けなくなっている。 「紅ちゃん?」  引き戻ってきた宮末が肩を叩く。ひとつめの息が苦しくなった。 「どうしたんだ」  びくりとした。彼の爽やかな人懐こい眼差しで見透かされた心地になる。櫻岬はぶるぶると首を振る。 「昔飼ってた犬みたい」 「え?」 「ブルドッグのブルちゃん。そうやってぶるぶるって首振ったんだよ」  無邪気な笑いは大人びている。幼さがなくとも人は無垢な破顔一笑を生むことができるらしい。その下方目交い、鼻先、唇の向くところ、対象に自分がいる。櫻岬は彼の圧倒的な純潔ぶりに焼き消されるような心地がした。嗤う柊の顔と自分の腹の上で喉を仰け反らせる吉良川の姿が胸を重くする。 「紅ちゃん?」 「あ、あ、ゴメン。ヒューチャーは犬派なんだ?」  不思議そうな表情が恐ろしくなった。蒸し暑ささえ感じながら冷や汗をかく。 「いや、それが、実家で猫拾ってさ、それからめっきり猫派よ。猫ってツンケンしてるイメージだけど結構犬みたいなところあるんだよな。紅ちゃんは?」  またぼけっとしていた。サイネージに映された絵のカップルに呼吸を細められる。すると、宮末は彼の腕を取った。 「具合悪い?今日、なんか変だ。やっぱり吉良川と何かあった?喧嘩とか……?」  心臓を直接握り潰されるような衝撃と驚きと息苦しさによって脈拍が2つ3つ跳んだ。 「フューチャー……」 「言いたくないなら詳しくは聞かない」  宮末のことで悩んでいるのだと本人に言えるはずもない。彼に侮蔑される。嫌悪され、忌避されるかも知れない。 「おれじゃ力になれないかも知れないし、内容知らないから紅ちゃんの味方だ~なんて無責任なことも言えないけど、何があっても傍にいるって意味では味方だから」 「何でもないんだよ、ホントに。ゴメン、キョドっちゃっと。ちょっと寝不足なんかも。やっぱ朝までどんちゃん騒ぎはダメだね」  そして昨晩は23時に寝て朝の9時頃には起きている。 「どんちゃん騒ぎしたのかよ?」 「そ、そう……!」  咄嗟の嘘であるがそれを貫き通すことにした。 「今度は、フューチャーとどんちゃん騒ぎしたいけどな」 「おれとはどんちゃん騒ぎできないよ。紅ちゃんが飲み過ぎないように見張る係だから」  彼が保護者然として苦笑する。彼に苦労をかけ煩わせる兆しを得ると嬉しくなってしまう。尻尾が生えた気がした。そして千切れるほど振り回す。しかし長くは続かない。幸福感は事実によって追撃される。打ちのめされてしまった。虚構の尻尾は腐り落ち、振り乱す力もない。 「………フューチャー…………」  がくりと肩を落とす。取り繕う余裕もない。目の前から宮末が去ってしまいそうだ。それが最も恐ろしい。脳裏にある吉良川の嬌態も涙も笑顔も破り捨てた。 「今日、一緒がいい。フューチャーと………」 「どうした、どうした」 「フューチャー……」  声が嗄れていた。足元を見つめる。宮末を見られない。背反した感情が先走る。指が躊躇いがちに彼の服を摘んだ。 「一緒なのは、いいんだけどさ。そんな大きな喧嘩、したのか?」 「違うけど……」  宮末と離れたくない。しかしそれを口にしたら根掘り葉掘り訊かれるかも知れない。誤魔化せるだろうか。泣いてしまうかも知れない。誰に対してどのようにしていいのな分からない悲しさがある。全身にへどろを被ったような厭悪感に包まれている。だがそれは吉良川に被せられたものとは違う。それなら柊だろうか。否、誰のせいでもない自生したものなのかも知れない。  宮末の服を汚した気になる。それは彼本体を穢したことに等しい。放しかけた手を宙で拾われた。 「おれの(うち)?紅ちゃんの家がいい?潰れるくらい飲むなら、おれの家のほうがいいけど。勝手が分かるし……」  包む掌が温かく、櫻岬は自分の手の冷たさを知る。だが引き抜いてしまった。 「手、繋いでたら、ホモみたいだろ……」  宮末はそうではないはずだ。だから吉良川も苦悩している。柊のように同性と割り切った関係を結びながら異性と交際などできない。強姦紛いのことをされながら吉良川に同情してしまう。 「……困る?」 「困るだろ。だってフューチャー、そういうんじゃないじゃん。オレもだけど……」  それは(はた)から見れば駄々を捏ねる子供を宥める保護者や、散歩を嫌がる愛犬を(たしな)める飼い主に見間違えたかも知れない。 「この前、ジェンダー論でやって思ったんだけどさ、性別で好きになることも勿論あるし、それが多いと思うけど。ただどうしても、その人の性格知ったら、意外と、放って置けないな、他の人たちの目なんてもうどうでもいいなって思える出会いも、生きていれば間々あるのかもな。紅ちゃんは他の人の目、気になる?おれと手、繋いでるの、知り合いに見られたくない?」  講義はただの単位取得、つまり卒業のための手段である。だから出席数と提出物、試験で必要分点数を取れていればいい。櫻岬のキャンパスライフはこうだった。それが宮末となると、自分の価値観にまでそれを組み込む。退屈な講義を彼は楽しんでいる。 「フューチャー……」  櫻岬から拾い直した手は先ほどよりも冷めたように感じられた。 「フューチャーは、すごい人だからへーき」 「おお、そうか?悪い気はしないけど。ははは、()られたらどうしようかと思った」  彼は爽やかななかでも乾いた笑みを浮かべた。手を握っていたはずが握られている。また物理的には存在しない尻尾が生えた。賢い飼い主にリードを引かれる悦びがあった。 「フューチャーの家で飲むならお酒とおつまみ、オレが買う。好きなの選んで!」 「ほっほ~ん。そうしたらおれまでへべれけになっちまうな」  肩をぽむと叩かれる。キャンキャン吠えたくなってしまった。尾骶(びてい)骨が伸び、皮膚を突き破って振り回る感じだ。 「じゃあオレがセーブして飲む」 「セーブしなくても潰れないように飲んでくれ~」  宮末の自宅は駅ひとつ分だった。大学から徒歩で通学できない距離ではないが、帰りの遅くなる日は電車を使うらしい。そこから歩いて15分のところのアパートに暮らしている。通りの商店街にあるスーパーで酒や肴を買った。築年数は宮末や櫻岬の年齢をいくつか上回っているが、それでも新そうに見える。2階の階段から最も離れた角の部屋だ。 「お邪魔しまぁす」  宮末から薫る彼の匂いが充満している。櫻岬の心情を言い換えるのなら大好きな飼い主の匂いだ。散らかっていると予防線を張っていたが、実際まったく散らかってなどいなかった。大好きな飼い主であれば部屋の隅に干された洗濯物の生活感ですら瀟洒なインテリアに成り代わる。 「その辺、適当に座って」  机とほぼデスクトップPCと役割は変わらないノート型PC、小型のテレビと姿見がある。廊下と同化したキッチンスペースに置き切れなかった一人暮らし用の冷蔵庫もある。かなり片付いていて、掃除も行き届いていた。端のテーブルを引き寄せ、部屋のセンターに持ってくる。その上にビニール袋を乗せる。 「片付いてんね」 「そう?よかった。そろそろ誰か来るかなって思ってさ、昨日片付けた」 「オレんちもっと散らかってんもん。全然綺麗よ。それでオレが来たワケだ」  缶酒をぷしりと開ける。宮末は甲斐甲斐しく袋のものを並べていく。 「これ焼いてくる」  スーパーで買った味付きの鶏肉のパックを見せられる。店で深く考えずに見ていたところ、宮末が家で焼くと言ったためにそこに甘えて買った。櫻岬は頷く。もう腰を上げる気力もない。今日は不要な体力と精神力を割いた。 「ゴメン、先飲んじゃって。頼む」 「一気に飲むなよ。任しといて」  爽やかに笑う。酒缶を傾けながらキッチンスペースに立つ宮末を眺めていた。IHが小さく唸り、やがてフライパンが鳴き、油が騒ぐ。甘味噌の匂いが流れる。酒缶を持ってキッチンスペースに近付く。部屋の出入り口に屈む。 「待ってなぁ」 「ここで飲む」 「いいって。気、遣うなよ。今日は飲み会ってより、紅ちゃんを元気づける会なんだから」  苦い液体を喉に流し込む。ほんのりと酔いが回りつつある。 「フューチャー……」 「もう酔った?」  清らかな目が櫻岬の握っていた缶に留まる。 「それ買ったのか」  安価でアルコール度数が高い酒だった。今までにも宮末から苦言を呈されたことがある。しかし買った。これなくして飲み会はない。宮末のようにしっかりした飲み方はできない。 「奥まで火が通らないから、ちょっとバラすぞ」  彼は菜箸を片方ずつ持って縦や横に割いていく。そしてキッチンペーパーを摘んでフライパンを拭いていく。 「今、焼けるからな」  フライパンと来客、宮末は交互に見遣る。素面ならばそこまではしなかったかも知れない。だが面倒見のいい彼は早々に酔っている友人を気にする。 「フューチャーは、好きでもない対象(ひと)からコクられたら、どうする?」  酔った頭は特に後先を考えなかった。時折酒の場の後、櫻岬は自身の口にガムテープを貼らなければならない義務感に襲われることは多々あった。

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