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「だから、今回はたまたまだって!」
「たまたま連続で赤点取るわけないだろ?これからは勉強の時間もしっかり取らないと」
「はあ!?今だって十分してるし!勉強より歌とダンスを磨いた方がよっぽど将来役に立つし!」
無事に補習とレッスンを終え、和喜 と真尋 は春翔 と共に寮に帰って来た。今はリビングにて、和喜が春翔にお説教されている所だ。
「その心意気はかうよ。和 が夢中になれるものを見つけてくれた事は兄としても凄く嬉しいし。でもね、和喜はまだ高校生なんだ、学生の本分は勉強だよ」
「勉強が何の役に立つんだよ!」
「役に立つかどうかは本人次第だよ。一見無意味と思える事も、後になってやっていて良かったと思える事もあるし、知識や出来る事が増えるのは、どんな事でも損にならないでしょ?和喜だって、ストレッチは大事だって、ダンスをするようになって分かったって言ってたじゃない。
この先の芸能活動にだって、役立つ事もあるよ!これから色んな人と出会うんだし、知ってるだけで相手と理解を深められる事だってあるかもしれない、それだけで仕事のチャンスだって増えるかもしれないし」
そして「何より」と、春翔は一際笑顔を深めて和喜を見上げた。
「レイジさんとリュウさんのいるこの事務所で、仕事を理由に高校生を落第させたなんて世間に広まったら大変な事だろ?」
その有無を言わせない微笑みに、和喜は思わず頬を引きつらせた。
大体の事に寛容な心持ちの春翔だが、絶対に引き下がらない時がある。そういう時は決まってこの顔をする。笑っているのに笑ってない、この兄の顔を見た時、和喜は兄を怒らせてはいけないと悟った経験がある。
幼い頃、和喜はこの状態の春翔に、いじめっ子から助けて貰った事があった。春翔の怒りにより、いじめっ子達は一目散に逃げ出し、以来顔を合わせる度若干怯えるようになっていた。
その事から、和喜にとって兄はヒーローであり、怒らせてはいけない存在となったのだ。
だが、勿論それで和喜が春翔に怯える事はない、大好きだった兄がより大好きになり、逆に普段は優しい兄を自分が守らなくてはと思うようになった。
「…分かった、勉強も、する」
固い表情のまま頷いた和喜に、春翔はぱっと顔を輝かせた。
「僕も時間合わせて手伝うよ!これもバッカスの為になると思って頑張ろうね!」
「それなら、僕も手伝います」
にこりと微笑む真尋に、春翔はますます表情を綻ばせ、和喜は更に表情を曇らせていった。
「皆でやれば楽しいよ。そうと決まれば、先ずは腹ごしらえだね!」
時刻は夜の七時を回った、リビングでの攻防に勝利を治めた春翔は、意気揚々とキッチンへ向かった。
「リュウさんご飯作って行ってくれたんだ。和の好きなバターチキンカレーだよ。真尋君の好きな駅前のシュークリームもあるよ」
春翔の言葉に、真尋は控えめながら身を乗り出し「それって、サクサクのやつですか?」と尋ねる。遠慮がちながらも瞳を輝かせる姿は普段の印象からは幼く、年相応に見える。春翔が微笑ましい気持ちになりながらも頷けば、真尋は更に表情を輝かせ、隣でふて腐れている和喜に、「シュークリームもあるって」と嬉しそうに言いながら、ダイニングへと引っ張って行く。
「よし、これ食べたら早速勉強頑張ろうね」
「は!?」
「シュークリームも待ってますしね…!」
「それ食いたいのは真尋だけだろ!」
そんな風にいつものように賑やかな食事をし、その後はリビングで勉強会が開かれた。そうして十時を回った頃、これで明日こそは赤点を免れるだろうと、春翔の分のシュークリームも貰ってホクホク顔の真尋と、そんな真尋のなかなかにハードな個人指導にぐったりとしている和喜を残し、勉強会はお開きになった。
「二人共お疲れ様。何か飲む?」
「俺はいらねー、もう何も入んねー、寝る」
「そ、そう?ちょっと詰め込みすぎたかな…?」
「これくらいしないと、今までの分なんてカバーしきれませんよ」
それよりと、真尋は部屋の壁時計を見上げた。
「リュウジさん、遅いですね」
「そうだね…神社の集まりもあるって言ってたから、飲み会でもやってるんじゃないかな」
「そうですね…あ、和喜こんな所で寝ないで」
ソファーで眠り始めた和喜に、真尋はたしなめに向かう。春翔は時計を見上げ、朝の会話を思い返し、小さく溜め息を吐いた。ユキの射抜くような瞳を思い出せば、また心が騒ついた。それが何故か分からないのだから、余計落ち着かない。
その時、スマホが震えた。見れば涼 からの電話だった。
時間が時間なだけに、何かあったのかと不安を抱いたが、聞こえてきた涼の声はのんびりとしたもので、春翔は少しだけ心を落ち着けた。
「涼さんどうしたんですか?」
「大した事じゃないんだけど、リュウって今寮にいる?」
「リュウさんならまだ帰って来ていませんが」
「そう?ならいいの、それだけ」
「あの、リュウさんに何かあったんですか?」
「ん?何もないわよ、ただ、明日のスケジュールについて確認したい事があっただけだから、あんたは何も心配しなくていいからね。それじゃ、おやすみー」
「おやすみなさい…」
流れるように通話が終わり、春翔は落ち着いた筈の胸の奥が妙に騒めいているのを感じた。
リュウさんと連絡が取れないのかな。
だから、リュウジが寮に居るか春翔に確認したのだろう。けれど、リュウジが鈴鳴 神社に居る事は、マネージャーである涼なら把握している筈だ。リュウジが撮影現場の下見をする事や、鈴鳴神社のイベントに参加する事は分かっているのだから。
ユキもこの寮だけではなく、事務所にもふらりとやって来たりするし、今夜の集まりを涼が知らないとは考えにくい。
ユキには連絡したのだろうか、それでも分からないのだろうか。単純にリュウジがスマホをどこかに置いたまま出かけただけかもしれない、そう思うのに、胸の不安が消えない。鈴鳴神社の存在が、胸を騒つかせる。
鈴鳴川や鈴鳴神社に、春翔はあまり良い思いがない、だから、こんなにも不安なのかもしれない。いくら尊敬する藤浪 ゼンの作品に登場する場所とはいえ、そこに足が向かなかったのもそのせいだ。けれど、事務所のタレントが絡んでいるとなれば話は別だ。ただの取り越し苦労ならそれでいい。ただ、何かあっても無くても、それを確かめに行かなくては。
「和、真尋君、ちょっと出かけてくるね」
「え?」
「何かあったんですか?」
「大した事じゃないんだ、ちょっと仕事で気になる事があって。すぐ帰ってくるから、戸締まりだけお願いね」
そう言い残し、春翔は足早に家を出た。夜はまだ少しだけ肌寒い。見上げた空には、ぽっかりと月が浮かんでいた。
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