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春翔(はると)にとってこの町は、STARSに入社してやってきた町というだけではない。この町は、春翔が産まれてから八歳まで過ごした町でもある。なので、十数年振りに再びこの町にやってきた時は、懐かしさも感じた。でも、随分町は変わったようだ。昔は、殺風景で畑も多かったが、背の高いマンションが並び、店舗も増え、どこから人がやって来るのか、広々としていた町は競い合うように家々が建っていた。変わらないのは、学校や町工場位だろうか。駅前は賑やかになり、バスのロータリーはすっかり整理され、大きな病院は見違える程キレイになり、毎日のように通った駄菓子屋は、ワンルームのアパートに変わっていた。少しの寂しさを感じるが、それでも春翔にとってこの町の記憶は、そこまでだった。 そもそも、思い出がないのだ。 町の風景や地理は覚えてる。変わってしまった町でも、記憶を頼りに行きたい場所へ行く事は可能だ。だが、その場所で何をしたか、友人とどんな事をして過ごしたのか、そもそも友人は居たのか、場所以外の記憶が靄がかかって見え、気分が悪くなるのだ。中でも一番嫌な感覚に襲われるのが、鈴鳴(すずなり)川や鈴鳴神社だった。 寮から鈴鳴神社までは、歩いて三十分程だろうか。 憂鬱な気分に陥りながらも、これも仕事の為、いつもお世話になってる先輩やリュウジの為と、必死に気持ちを取り繕いながら歩いていれば、三十分なんてあっという間だった。 「……」 鈴鳴神社に着いてしまった。来れる距離にありながら、この町に戻って来て約二年、ずっと目を逸らし続けていた場所だ。 拝殿の裏に森のような木々を持った、どこにでもありそうな神社で、その神社内には、神社の内外どちらからでも入れるようになっているカフェがある。白い壁が印象的なカフェだ。春翔は明かりのついているカフェに目を向け、窓から中の様子をこっそり覗いてみる。明かりはついているが、中には客も店員の姿も見当たらなかった。 「(はる)?」 不意に名前を呼ばれ振り返ると、そこに春翔が探していた人物がいた。 「(まこ)兄!」 「なにやってんだこんな時間に。こっちの方来るなんて珍しいな」 少し驚いた様子でやって来たのは、大柄な男性だ。がっしりとした体は逞しく背も高い、少し癖のある髪を後ろに結った、無精髭が似合う男性で、いつも作務衣を着ている。彼は、十禅真斗(じゅうぜんまこと)、春翔の従兄弟だ。見た目は少し強面だが、彼の懐が深い事を春翔はよく知っている。小さい頃はよく遊んで貰ったし、大人になった今でも時折相談事を持ちかけたりと、春翔にとっては頼れる兄貴分だ。 「リュウさん探してて、リュウさんまだ居る?」 「リュウジなら、一時間位前に出て行ったぞ。何かあったか?」 真斗は鈴鳴神社内でカフェを経営しているので、鈴鳴神社とも関係が深い。近くの商店街とも付き合いがあり、今回のイベントにも尽力している。ユキは勿論、ユキの幼なじみであるリュウジの事も以前からよく知っていたようだ。 春翔が町に戻ってからは、真斗も同じ町に暮らしているので、たまに差し入れを持って寮にやって来てくれたりする。 「ちょっと連絡取れなくて。確認したいスケジュールがあってさ、どこに居るか知らない?」 すると真斗は、「うーん」と唸りながら顎に手をやる。捲られている袖には、調理をしている際に飛んだのかシミが見えた。だが、春翔が注目したのはその腕だ。毎日フライパンを振るっていると、あんなに逞しい腕になるのだろうかと、春翔は自らの細腕と密かに見比べてみる。筋肉がつきずらい体質だと自分では感じていたが、最近はいくら食べても身になる事はなく、薄いこの体にコンプレックスを抱いていた。春翔にとっては、真斗のような体躯は憧れだ。 「…ま、大丈夫か」 ぽつりと零れた呟きに、春翔ははっとした。今は逞しい体つきを羨んでいる場合ではない。先程までは不安で仕方なかったのに、親しい人物が側に居るだけで、春翔の気持ちは幾分和らいでいるようだった。 「大丈夫って?」 「あー、こっちの話。リュウジなら確か、もう一度下見に行くって言ってたよ」 「下見?」 「あぁ、撮影やるんだろ?鈴鳴川で。あいつも今回の映画には、特別な思いがあるみたいだからな」 「……」 春翔は穏やかに微笑む真斗の瞳に導かれるように、鈴鳴川の方角へ目を向けた。すると、突如として何ともいえない恐怖が足元から這い上がってきた。だが、そんな春翔の思いがまるで分かっているかのように、真斗がその大きな手で背中を叩くものだから、春翔はびっくりして肩を跳ねさせた。 「一人が怖いなら、ついて行ってやろうか?」 悪戯に笑う真斗に、春翔はほっと息を吐くように微笑んだ。 「大丈夫だよ、僕だってもういい大人なんだから。それに、店開けてるんでしょ?」 「今日は神社で色々あったから開けてたけど、もう帰る所だ。昼間だって、ユキが神社に居ないと客なんて大して来ないしさ」 「そんな事言って…それでよくやっていける ね」 「まぁな。でも、本当に大丈夫か?」 「…うん、大丈夫だよ」 「そっか」と頷いた真斗は、春翔の思いに気づいているのだろうか。この町が怖い事は、誰にも言った事はない。それでも真斗は、自分の、自分でも分からないこの思いを分かっているのではと春翔は思う。だから、彼と居ると安心する。落ち着いて考えて、向かう事が出来る。 大丈夫、何もない、リュウジに会いに行くだけだ。 「ありがとう、真兄。行ってみるね」 「あぁ、気をつけてな。なんかあったら連絡しろ」 「大丈夫だよ」 笑ってその場を後にする春翔。月夜に伸びたその影を見送って、真斗はどこか思案顔を浮かべていた。

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