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鈴鳴(すずなり)神社から土手まではそう遠くない。静かな住宅地を道なりに進み、車の通過を待って道路を渡れば、土手の上がり口が見えてくる。緩やかなスロープを歩いていると、土手の斜面が可愛らしい花壇になっている事に気づいた。ぽつりぽつりと灯る街灯と家々の灯りの中では、はっきりとその色合いは確認出来ないが、昔は草が伸び放題だったのに、ここも随分変わったようだ。 スロープを上りきると、土手の上に出る。少しだけ強い風が吹き、僅かに身を竦ませた。草の匂いがする。こんな感じだったと懐かしさを感じれば、この場所に対する不安も幾分薄れていくようだ。 夜のロードワークに励む青年が通り過ぎる。つられるように青年の走り行く方へ目を向ければ、川を渡る鉄橋が見えた。そのまま対岸へ目を向けると、川向こうはビルやマンションが建ち並び、その灯りが川の水面を、そして夜空を密かに照らしている。 変わってしまった町並みなのに懐かしく思えるのは、この川が昔と変わらずあるからかもしれない。 夏には花火大会を開き、少年野球やサッカーチームが試合をしたり、魚釣りやピクニックをする家族連れ、ロードワークをする人、きっとどこにでもある河原の風景がここにもあり、春翔(はると)もよくこの場所に遊びに来ていたように思う。しかし、ここでどんな事をしたのだろうと思い出そうとしても、頭の中に黒い靄が広がり、まるで知らない誰かに突然目隠しされ、暗闇へと引きずり込まれそうな感覚になる。それは酷く気分の悪い感覚で、いつの間にか思い出そうとする事も、この町が、この川があった事すら記憶から追いやるようになっていた。 「…こっちだな」 込み上げる何かを見ない振りでやり過ごし、思い出の追跡をやめ、その場所の記憶だけに焦点を合わせた。鉄橋と逆の方へ足を向ける。鈴鳴川とは、本成(もとなり)川の一部を指した通称の呼び名だ。恐らくこの町の住民以外は知らない人がほとんどだろう。鈴鳴神社と鈴鳴川が一直線上にあるからそう呼ぶのだろうかと、春翔は勝手に思ってるのだが、正式な理由は分からない。気づいたら誰もがそう呼んでいたので、疑問に思う事もなかった。 グラウンドの先へ向かうなら、先に河原の方へ下りた方が良いだろう。側に階段があったので足を下ろそうとした、その時だった。 ーリン、 不意に軽やかな鈴の音が聞こえた。 風の音、虫の声、車や電車の走行音、サイレン。夜の静かな土手とはいえ、町は音で溢れている。しかし、それらの音を掻き分けて鈴の音は耳に届いた。とても涼やかで可愛らしい音だ。しかし、周囲に人気はなく、春翔も鈴は持っていないし、落ちていた物を蹴飛ばした訳でもない。不思議に思い立ち止まりはしたものの、それでも単なる鈴の音、もしかしたら何かの生活音が風に乗り、鈴の音に聞こえただけかもしれない。気にせず再び階段に足をかけた春翔だったが、今度は鈴の音どころか、キーッと甲高く突き刺さるような音が頭に響き、思わぬ音の攻撃に春翔は動く事が出来ず、その場でうずくまってしまった。 「な、に、」 ギリッと奥歯を噛みしめ、ぎゅっと目を閉じる。どうにかして音をやり過ごそうと試みるが、四方八方から春翔めがけて飛んでくる音の刃は止まらない。 しかし、それも束の間だった。 頭蓋骨を巡るような突き刺すような音の隙間、リン、リン、と再びあの涼やかな鈴の音が聞こえた。すると、あの甲高い音の刃は嘘のように消えてしまった。 「あれ…?」 思わず拍子抜けしてしまう。 「…な、なんだったんだ…?」 痛みが去れば、あとは何事もない。突然の事に驚いた心臓だけが、ドクドクと痛いくらい脈打っている。春翔は周囲を伺いながら立ち上がるが、自分に異変をもたらした原因がどこかにあるとは思えない、何の変哲もない風景がそこにあるだけだった。 ちょっと、疲れてんのかな。 激しめの偏頭痛かもしれない。納得出来ない部分はあるが、とりあえずそう自分を納得させた。そうでもしないと、怖くてリュウジを探しに行けない。やっぱり鈴鳴川は自分には鬼門なのかもしれない、でも大丈夫、今日を限りにもうここに来る事はない、怖い思いは今日だけだ、リュウジはすぐに見つかる、だから大丈夫。春翔はそのように必死に己を奮い立たせ、けれども階段からは足を外し、土手の上を行く事に決めた。うん、歩けてる、健康健康と自分に言い聞かせながら。そう、今のは間違っても怪奇現象ではない。 と、そこで思い出してしまった。鈴鳴川の川岸に一本だけ植えられた、通称“お化け桜”と呼ぶ桜の木の事を。 この町の住人なら誰もが知ってる、有名な桜の木。通称名通り、奇妙な噂が絶えない桜だ。何故そこに一本だけ植えられているのかという疑問から始まり、夜な夜な桜から声が聞こえてくるだの、夏に花が咲いただの、幹から血が流れるだの、よくあるオカルト話で信じにくいものばかりだが、夜という事もあり、おまけに奇妙な体験をしてしまったせいか、お化け桜の存在が頭にこびりついて離れてくれない。まさか、桜に取り憑いたお化けが自分を驚かそうとしてあのような事をしているのではないか、はたまたそれは序章に過ぎず、これから命を狙おうと考えているのではないか。 まさか、リュウジを探しに来た自分に嫉妬して…? リュウジを慕うお化けなど、あり得ない。そもそもどんな噂がたとうともあれはただの桜の木だ。そうは分かっていても、考えれば考えるほど、現実的な考えは遠ざかっていく。春翔はホラーの類いは大がつく程苦手なのだ。 「…そういえばこの辺りだよな」 鈴鳴川に向かうなら、もれなく桜の木も視界に入る。貯水槽を越えた先、知らず内に及び腰になりながらも川岸に目を向け歩いていれば、桜の木よりも早く人影を見つけた。 土手の斜面の中程辺りに、こちらに横顔を向けて斜め向こう先、ちょうど川岸に咲く桜の木を見ている青年がいる。街明かりだけの暗がりの中だが、春翔にとっては大事なタレントであり、仕事仲間、同じ寮で毎日世話になっている人物だ、彼を見間違う筈がない。 「リュウさん!」 春翔の声に青年が振り返る。やはりリュウジだ。だが、すぐに駆け寄ろうと土手の斜面に足をかけた春翔を見て、リュウジは何故か表情を強ばらせた。

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