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春翔(はると)が気がつくと、そこは水の中だった。 濁りのない水は降り注ぐ太陽の光を受け、水面がキラキラと輝いている。ぼんやりと水中から空を見上げ、水の流れに身を任せていると、不意に両肩を掴まれ、はっとして視線を前に戻した。 あ、と口を開けば、空気の泡が零れていく。だが、不思議と息苦しさはない、このおかしな現象に気づいているのかいないのか、春翔は自分の状況よりも、目の前に現れた彼の事で頭がいっぱいだった。 そこに居たのは、夢の中に現れるあの少年だった。 美しい顔に微笑みをのせ、銀色の長い髪は、水中に降り注ぐ太陽の光を受けてキラキラと煌めいている。いつも泣き出しそうだった宝石のような瞳は、今日はとても穏やかだ。そんな少年の姿を見たのは初めてだったので、春翔はその微笑みに見惚れながらも、良かったと、ほっと胸を撫で下ろした。 良かった。今日は、悲しい事は何も起きていないみたいだ。 少年は、少し照れくさそうにはにかみながら、何かを伝えようと口を動かしている。だが、春翔には彼が何を言ってるのか分からなかった。聞き返そうにも声が出ない、唇からは空気の泡が零れるだけ、ここには音がなかった。 そこで、春翔はようやく自分の状況に目がいった。 そうか、ここは夢の中だと。妙な事が起きても、夢なのだから不思議はない。少年は、春翔の様子には何も気づいていない様子で、どこか楽しそうに春翔の手を引いて背を向けた。どうやらどこかに連れて行こうとしているらしい。 まぁ、いいか。どうせ夢だし。 春翔は少年に手を引かれるまま、水の中を進み始めた。 あれ。 その時、少年の背中越しに、誰かが居るのが見えた。少年が進む先は、太陽の光が届かない暗がりで、春翔はその人物が誰なのか分からなかった。 あれは誰だろう。尋ねようと、その人物から少年の背に目を戻した瞬間、音の無かった世界に、突然ボッと音が聞こえ、少年の体はみるみる内に青い炎に巻かれていった。声にならない叫びを喉奥に詰まらせ、春翔は炎を消そうと、焦って少年の体に触れようとする。 「行くな、春翔」 耳元で声がした。それは、青い炎を放つ彼の声。振り返れば、いつの間にかゼンが春翔の背後に立っていて、少年を炎で焼くその手を春翔の前に翳し、冷たい瞳で見下ろしていた。 「っ!」 はっと息を吐き出し、春翔は目を開けた。そして、目前に迫る手のひらにぎょっとして、春翔は叫び声を上げながら、その手を思いきり払いのけた。そのままその手から逃れるように体を起こすと、振り返りもせず部屋の出口と思われる障子戸に向かって駆け出した。春翔には、ここがどこで、自分の身に何が起こっているのか考える余裕もなかった。ただ、青い炎が、手が、冷たい瞳が頭の中を埋め尽くして離れない。あの炎に自分も命を奪われてしまうのではと、夢と現実の境が揺らぐ。その中でも確かなのは、あの炎が本物だという事だ、夢だろうが現実だろうが、あの炎の冷え冷えとする恐ろしさが、夢も現実も繋いで、春翔に恐怖を思い起こさせていた。 「待て!」 その声も耳に入らないまま、春翔は怯えてこの場から逃げようとするも、震える手ではなかなか戸が開けられない。その内に、背後に影が降り注ぎ、春翔は更にパニックになる。誰かいる、あの手がくる、蛇女を、少年を焼いた炎が目の前にちらつき、その先に見えたのは、冷たい眼差し。 「く、来るな!」 それが誰かも分からないまま、嫌だ嫌だと必死に叫び、春翔は背後に迫る影を振り払おうと、手足を思いきりばたつかせた。怖くて怖くて仕方なかった、逃げ場もなくて、その人の声も頭に入らない。助けて助けてと叫び声が変わると、その人は春翔の振り回す手を掴み、春翔の体を思いきり引き寄せた。 「大丈夫だ」 ひ、と悲鳴が喉奥に消えた。きつく体を抱きしめられれば、ド、ド、と早い心音が耳に伝わった。自分のものではない、誰かの鼓動、力強い腕、それは必死に春翔の体を抱きしめて、春翔を落ち着かせようとしているのだろうか。だがそれらは、逆に縋っているようにも思えた。 「……」 その温もりに、その腕の強さに、春翔の心もだんだんと落ち着きを取り戻してきた。手の震えは止まり、逆に、微かに震えているように思うその背中に、おずおずと手を回した。宥めるように撫でると、その人は幾分体の力を抜き、どこかほっとしたようだった。 「…もう、大丈夫だ」 この声は、ゼンの声だ。春翔に言っているようで、まるで自身に言い聞かせているようにも聞こえ、春翔は詰めていた息をようやく吐いた気分だった。 ゼンさんだ、優しい、ゼンさんだ。 心の中で繰り返し唱え、春翔は怖い夢の中の彼を追い払う。青い炎が蛇女を痛めつけていた姿を見たから、その恐怖が夢に現れたのだろう。確かに命も取りかねない恐ろしい場面だったが、それも全て春翔を守る為に起こした行動だ。傷ついた春翔を、まるで自身の事のように苦しみ心配してくれたゼンは、きっと優しい人だと春翔は思う。 今だって、その手に怯えて振り払ったのに、こうして宥めるように抱きしめてくれている。 「……!」 そこまで考えて、春翔は突然ぼっと顔を赤くした。ゼンに抱きしめられているという現状に、ようやく思い至ったのだ。 「…嫌な夢でも見たのか?」 しかし、焦って顔を赤らめるのは春翔だけのようで、ゼンは抱きしめる腕を解く気配も見せず、問いかける声はとても優しく落ち着いたものだった。そしてその声が、再び忙しなくなった春翔の鼓動を宥めていくから不思議だった。会ったばかりの人なのに、この温もりは春翔を安心させてくれる。 「…は、はい、すみません、手を払ったりして」 「構わない。目が覚めて、…無事で良かった」 再び抱きしめる腕の力が強くなり、それはやはり縋っているようにも思えて。なので春翔は赤くなりながらも、それに応じるように背中をさすった。 いつまでも身を委ねていたい、そんな風に春翔が思い始めた頃、トットットッ、と何かが軽やかに走ってくる音が聞こえた。

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