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翌朝、春翔(はると)が目を覚ますと、昨日真斗(まこと)が言っていた通り朝食を作りに来てくれていた。ご飯に豆腐の味噌汁、焼き鮭に卵焼き、ほうれん草のお浸し、納豆、ヨーグルトが並ぶちゃぶ台に感動し、顔を洗って席につくと、春翔と真斗は向かい合って手を合わせた。 「美味しい!」 「そりゃ良かった」 「ごめんね、全部やってもらって」 「いつもの事だから構わねぇよ、お前は病み上がりなんだし、」 言いかけて真斗は、春翔の服装に目を止め顔を顰めた。 「病み上がりだし、もう一日休めって先生は言ったんだけどなぁ」 笑って誤魔化す春翔はしっかりと身なりを整えており、仕事に行く気満々だ。 「もう大丈夫だよ。どこもおかしいところは無いし、(まこ)兄が診てくれたお陰だね!」 「ったく、持ち上げても何もでねぇぞ。でもな、ひとまず異常なしってだけで、様子見って事には変わりないんだからな」 「…でも、いつまでも休んでられないし、(かず)のことも心配だし」 「…まぁ、あれは心配だわな」 兄貴第一主義の和喜(かずき)を思い浮かべ、真斗は苦笑う。それに頷く春翔もまた、昔から変わらない和喜の姿を思い浮かべ、こちらは心配が増した。この兄弟は、昔から良すぎるほど仲がいい。 「今回は大目に見るが、いいか?何かあったらすぐ言うんだぞ。リュウが側に居なかったら、俺でもユキでもゼンでもいい、すぐに言えよ」 真斗の真剣な眼差しに、春翔も頷きはしたが、正直まだ現実として受け入れられない思いもあった。リュウジ達が妖だというのは受け入れても、この先、自分が皆に守られるような事が起きるとは、春翔には思えなかったからだ。 「…ねぇ真兄、鈴鳴(すずなり)川で起きたような事って、普段から起きてるの?」 「ん?まぁ、頻繁ではないけどな。今だってゼン達が、不正に妖が入り込まないか見回りに行ってるし、もし何かあればあいつらが駆けつけるしな」 「そうなんだ、なら、」 なら、そんなに危ない事はないのでは。そう思った春翔だが、そんな春翔の考えを読んでか、真斗は眉間に皺を寄せ、身を乗り出した。 「だからって、お前は大丈夫とは限らないんだから、暫く鈴鳴川には行くなよ」 「僕は大丈夫じゃないって、どうして?」 腑に落ちず、春翔も眉を寄せて真斗と睨み合えば、真斗は溜め息を吐いて身を引いた。 「…過去にゼンと関わった件もあるし、この間の事もそうだけど、逆恨みでお前が狙われる可能性はあるんだ。俺らも目を光らせておくが、(はる)もそれだけは忘れるな」 釘を刺すような真斗の言葉に、春翔は眉間に込めていた力を緩めた。 「…うん、分かった」 少し、実感が沸いてしまった。 春翔を囮にしようと襲いかかった妖は、皆失敗に終わっている。もしその妖に仲間が居たら、春翔を標的にと考える事はあるかもしれない。そこまで考えて、ふとゼンの姿が頭を過った。 昔、春翔が妖に襲われたキッカケとなったのは、ゼンだった。そしてあの蛇女も、ゼンの事を話に出し取引しようとしていた。ゼンはいつも争いの中心にいる。自分に関われば誰かが傷つく、昨夜そう言って春翔を突き放したのも、実際そうだからなのだろうか。 そう思ってるんだとしたら、それはとても悲しいし、辛い。 やっぱり傷ついてるのは、僕じゃない。ゼンさんだ。 ならば、これ以上その傷を抉らないようにするには、ゼンの言う通り、自分はゼンと会わない方が良いのだろうか。 朝食を終えると、食器を片付けながら、春翔は居間の壁に掛かる時計を見上げた。 「…ねぇ、真兄、ゼンさん達はいつ頃帰ってくるのかな」 もうそろそろ家を出ようと思うが、ゼン達の姿はまだ見えない。 「あー、あいつらいつもマチマチなんだよ。鈴鳴川以外にも、町を見て回ったり、用事済まして帰る事もあるからさ」 「…そうなんだ」 きっと、今日も色々用事があるのだろう、そう納得しようとするが、もしかしたらゼンは自分と顔を合わせないようにしているのではと、ついそんな事を考えてしまう。 そして、そんな風に考えてしまう自分に、溜め息が零れた。 どうしてこんなに気になるのだろう、ゼンがずっと自分を探してくれていた話を聞いたからだろうか、ゼンが憧れの小説家だからだろうか。 いや、それだけじゃないと、春翔は食器を持つ手に力を込めた。 ゼンの事を覚えてないのに、抱きしめられた腕に安心して、心配そうに見つめる瞳に苦しくなって。 春翔が記憶をなくしたのは、妖が春翔に術を掛けたからだ、再び春翔を見つけ出す為の術、それのショックから記憶を失ったのだろうか、それとも、本当にあの鈴鳴川で、全てを忘れたい位怖い思いをしたのだろうか。 思い出したい。思い出しさえすれば、ゼンの傷だって、癒せるかもしれない。 頭に浮かぶ鈴鳴川、いつだって思い出そうとすれば、頭の中に靄がかかったみたいになり、気持ちが悪くなる。でも、その先に、何かあるのなら。いつもは怖くて探るのを止めていたが、それを乗り越えられたら、何か思い出す事が出来るのだろうか。 春翔は目を閉じ、思いを巡らす。失った記憶、鈴鳴川、鈴鳴神社、頭を埋めつくす黒い靄。体の中を這い巡るような嫌な感覚を掻き分け、暗闇に引き込まれそうな腕を振り払う、気分が悪くなるのをどうにか堪え、一歩その先に踏み込もうとする。すると、黒い靄の中から大きな手が勢い良く現れ、その手は春翔の顔目掛けて飛んできた。 「うわ!」 はっとして目を開け、倒れそうになる体を、食器棚に手を掛け支えた。 ド、ド、と心臓が大きく跳ね、春翔は何が起きたのか分からず、辺りに目を向ける。目の前に手など、どこにもない。ここには自分以外、真斗しかいない。 「春翔!?」 春翔の声に気づいたのだろう、テーブルを拭きに行っていた真斗が、慌ててキッチンへ戻ってくる。食器棚にしがみつく春翔を見て、真斗は心配そうに春翔の顔を覗き込んだ。 「どうした?何があった?」 その顔を見て、春翔はほっと息を吐いた。 「…ちょっと躓いただけ」 「躓いた?何かあったのか?」 「な、何でもないよ!寝すぎたかなー、足が縺れちゃってさ」 実際、三日も寝込んでいた。春翔が冗談混じりに笑えば、真斗はまだ心配そうに眉を寄せながらも、ひとまず納得してくれたようだ。 「…それならいいけど」 「ちょっと慌てちゃって…」 「あ、そうか、もう出る時間か?」 「うん、そろそろ」 「じゃ、俺も店に戻るから送ってく」 「え、大丈夫だよ!」 「近所だし、散歩みたいなもんだよ。勝手に帰したとなったら、あいつらがうるさいしな。せめてしっかり送り届けたぐらい言わないと、何言われるか」 「ふふ、仲良いね」 「どーだか。今じゃ、飯作ってくれる人間としか思ってねーんじゃねぇの?」 肩を竦めて笑う真斗だが、彼の存在が妖と人間の架け橋を担っている事は確かだ。短い時間の中にも、信頼関係がなければ成立しないであろうやり取りを、何度も目にしている。真斗の言葉は恐らく照れ隠しだ、それが分かり、春翔は微笑んだ。 「また、お前らんとこにも差し入れ持って行くからさ」 「わ、本当?真兄のご飯絶品だから楽しみだな…!」 「ついでに、お前の診察も兼ねてな」 「…はーい」 そんな笑い交じりの会話を交わしつつ、片付けを終えると、二人はゼンの家を出た。 ゼンの家は、平屋の一軒家で、ちょっとした庭がある少々古びた日本家屋だ。ドアはガラスの引戸で、家の敷地は塀でぐるりと囲われ、屋根のついた和風門がある。 家を出て、春翔は何気なく家の前の通りを振り返ってみたが、ゼン達が戻ってくる気配はなく、世話になった挨拶も出来なかったもやもやと、何故かもう、ゼンとは会えないような気さえして、春翔の気持ちは落ち着かなかった。 それに、目の前に現れたあの手は、何だったのだろう。 先程記憶を探った時に見た、あの黒い靄から現れた手。 まだ自分は、ゼンを心のどこかで怖がっているのだろうかと、そんな事ないのに、だけど本当にそう言いきれるのかと、記憶の無い自分が、春翔を不安にさせていた。

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