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誰かの話声が聞こえて、春翔 は重たい瞼を持ち上げた。
どこか見覚えのある板目の天井に、くすんだ白い傘を被った電気が見える。ここはどこだろうと、寝起きでぼんやりしている頭で考えを巡らせていると、目の前にぬっと男の顔が飛び込んで、春翔は驚きに目を見開き、衝動のままに叫んだ。
「うわぁっ!」
「おーおー、これだけ元気があれば大丈夫だな」
びくりと震えた体を宥めるように男は柔らかく微笑み、その手で春翔の頭をぽん、と撫でた。
「…え、」
その端正な顔立ちに、春翔は驚きの表情を一変、真っ青に顔を歪めると、慌てて寝床から飛び出した。
「も、申し訳ありません!社長とは思わず失礼な態度を…!」
「あー、いいのいいの、それより目が覚めて良かったよ」
目の前に居たのは、レイジだった。
条件反射のように正座して頭を下げた春翔に、レイジはニコニコと人の良い笑みを崩す事なく「まあ、顔上げてよ」と、春翔の肩をぽんぽんと叩く。春翔は促されるまま、恐る恐る顔を上げた。柔らかな表情ながら、切れ長の瞳からは力強さが感じ取れて、見る人を惹き付けてやまない色気を感じる。藍色の艶やかな髪を後ろに一つに結い、すらりとした長い手足も逞しい体つきも、記憶に残るスター、有坂 レイジの現役時代と何一つ変わらない。
というか、全く変わっていない。老いを感じないというより、まるで彼だけ時が止まってしまったかのようだ。
芸能事務所STARSの社長であるレイジだが、忙しさからか、社員である春翔も会うのは初対面以来だ。久しぶりに会うからこそ、余計にレイジの若さが際立って見え、本当に同じ人間なのかと疑いたくなる。それは、人ではない存在を知っているから、尚更かもしれない。
「……」
人ではない。その言葉に、春翔はまさかなと、思い至った考えを振り払った。
「ん?どうした?まだどっかおかしいか?それとも、俺に惚れたか~?」
まるで誰かのような台詞だと思ったが、相手は社長だと思い直し、春翔は慌てて背筋を伸ばした。
「す、すみません、体調は大丈夫です。あの、社長はどうしてこちらに?ここはどこですか?」
そう尋ねながらも、春翔にはこの小さな和室には見覚えがあった。しかし、もしそうだとして、何故この場所にレイジが居るのか。
レイジは春翔の問いかけに、少し考える素振りを見せ、それからニコリと口元に笑みを浮かべた。
「本当はここがどこか分かっているし、俺の事も察しはついてるんじゃない?」
「え、」
ニコニコとした表情に、春翔は頭の中を覗かれた気がしてドキリとした。その言い方はまるで、レイジは春翔の考えを分かっていて、それを肯定しているようにしか聞こえない。
まさか、という思いが、やっぱり、という考えに変わる。
「…社長は、人ではないんですか」
「そうだよ」
恐る恐る尋ねれば、レイジは表情一つ変えず頷いた。すると、ふわりと黒い羽が部屋に舞い、春翔がきょとんとしていると、いつの間にかレイジの背中には黒い翼が姿を現していた。黒く艶やかなその翼は、春翔を気遣うようにゆっくりとその存在を示していく。翼は伸びやかに広がり、春翔の体をすっぽりと覆ってしまいそうだが、黒々と艶めくその翼からは恐怖を感じる事はなく、まるで、夜の闇に優しく抱かれるような柔らかさがあった。
「俺は天狗なんだ」
黒い翼に囲われ、レイジと距離が縮まる。見上げるその綺麗な瞳に吸い込まれてしまいそうだ、引き寄せられるのは天狗の力か、レイジだから成せる技なのか。
だが、ぽかんとしている春翔に、レイジはどこかつまらなそうにして、翼の囲いを解いた。
「さすがに驚かないね」
きっと、もっと騒ぐと思ったのだろう。レイジが少し離れると、春翔は知らず内に詰めていた息を吐いた。
「…十分、驚いてます」
そして、納得する。十年以上の時を経てもレイジの姿が当時から全く変わらないのは、人に化けているからなのだと。そしてこの家は、ゼンの家だ。以前世話になった時に、泊まらせてもらった部屋と同じだ。
「まさか、社長もなんて…」
という事は、日本の芸能界を引っ張ってきたのは、人ではなく妖だったという事になる。衝撃の事実に頭が上手く働かないが、それでも何故今、レイジが春翔の前に現れ、その正体を明かすのか、その理由が分からなかった。
「あ、あの、社長は何故ここに?それにここ、ゼンさんのお家ですよね?ゼンさんは無事ですか?僕一体どうして…真尋君は?真尋君もあの時一緒に居たんです!怪我とかしていませんか!?」
「うんうん、順番に話そう、その前に喉乾かない?お茶でもいれようか」
レイジはにこりと微笑んで、ふわりと立派な黒い翼を揺らした。
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