77 / 77

77

「…行ってしまいましたね」 「あぁ」 過ぎてみれば、まるで嵐のようだった。 春翔(はると)がそっと息を吐くと、ゼンは申し訳なさそうに眉を寄せた。 「すまない」 「え?あ、違うんです!」 「嫌な気分にさせただろう」 「そんな!その、僕の気持ちの問題というか…僕は、無力だなって…」 「春翔?」 「ゼンさんの側に居たいなら、僕がシンラさんに認めて貰わなきゃ…でも、それにはどうしたら良いんだろうって…というか、改めてゼンさんとの立場の違いを感じたというか、ゼンさんは凄いんだなって」 なのに、僕は。その先は、言えなかった。 春翔は苦笑い、そっとゼンから視線を逸らした。 ゼンの存在は良くも悪くも妖の世では大きい、それを、ただ側に居たいの気持ち一つでこちらの世界に引き止めたりして良いのだろうか。例えゼンが望んだ事だとしても、ゼンの隣に居るのは、その手を掴むのは、自分では役不足なのではないか。 今更、どこか夢見心地でいた自分に気づかされた。 突きつけられる現実を、どう受け止めていいのか分からない。 ゼンは俯く春翔を見て、その頬に手をあてた。導かれるように春翔が顔を上げれば、真っ直ぐ見つめるゼンの瞳と目が合った。 「選んだのは、俺だ」 「え?」 頬に触れた手がゆっくりと下がり、そして優しく春翔の手を握る。 「悪いが、もうお前を離してやれない」 しっかりと、その瞳に春翔の姿が映る。春翔は思いがけない言葉に目を丸くした。 春翔が不安を感じているとゼンは思ったのかもしれない。先程とは違って強引な告白は、逆に、春翔の迷いに対するゼンの不安の表れかもしれない。 けれどその言葉は、その眼差しは、春翔が現実と向き合うには十分な力があった。 ゼンの気持ちが言葉以上の思いを背負い、その瞳が伝えてくれるようで、ぐるぐるとのし掛かる様々な感情が、ゼンのたった一言で不思議と軽くなってしまった。 「…はい」 薄ら滲み出す視界に、柔らかに微笑むゼンが映る。春翔は唇を噛みしめ、その手をぎゅっと握り返した。 まるで魔法みたいだ。いつだって守り導くこの手は、春翔にとって間違いなくヒーローだ。 そしてそれは、春翔にどうしようもない幸せを与えてくれる。 「俺の過去を背負わす事になるかもしれない。この先も、危険はついて回るかもしれない。けれど、必ず守るから、強くあるために、側にいてほしい」 空いた手でそっと頭を撫でられ、春翔は小さく鼻をすすりながら、顔を上げた。その表情には迷いもなく微笑みが広がっている。 「はい!僕も、もっと強くなります!次また襲われたって、もうゼンさんを忘れたりしません!」 「もし忘れても、また探してみせるさ」 「ふふ…はい」 頬を辿る涙の跡をゼンの親指がそっと拭う。そのまま大事に頬を包まれれば、春翔は誘われるまま目を閉じた。 笑った唇に重なるそれは、夢の中で感じた唇よりもかさついて、優しかった。離れる最中目を開ければ、微笑む彼の向こうに桜の花びらが風に乗って散るのが見える。 なんて綺麗なんだろう。惚けていれば、ゼンはどこかおかしそうに笑い、春翔を包むように抱きしめた。 「温かいな」 その言葉に、春翔はきゅっと胸が苦しくなり、ゼンの背中に腕を回すと、ぎゅっと抱きついた。その温もりを確かめるように、ゼンの腕も少し力を強めたが、もう縋るような事はない。 温かい。心の奥底で失った何かが満ちていくような、絡まった糸が日溜まりにくるまれてほどけていくような。 ずっと探していたものを、ようやく見つけられたような。 この先、きっと幸せばかりの日々とはならなくても、きっとこの人となら大丈夫。一人じゃない、そして、二人だけでもない。 皆が笑顔でいられるように、この先も、この手だけは離さないように。 桜の花びらが川面に散る。 風に揺れる鈴鳴(すずなり)川は、今日も穏やかに二人を、そして二つの世界を見守っている。 終

ともだちにシェアしよう!