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花見 5
朝倉さんも私を見ている。節の高い指で掴んだ缶ビールをシートに置いて左手を自分の膝に置く。
「そうですね。無駄だと叱られたことはありました」
「いまはないんですか」
「ありませんよ。独り者なので」
「…そうですか」
「三年ほど前でしょうか。家庭を持つのに向いてなかったようです」
何もない左手をひらひらと振って朝倉さんが軽やかに笑う。私はなんとも言えない後味の悪さが口に残ったけれど、謝ることも出来ずにアラレとアルコールで誤魔化した。
「美味しいですね、これ」
「保険の営業さんが職場のデスクに置いていってくれまして」
「確かに貰いますね。飴と共に熱烈な営業トークを」
「独身の時はあまり用がありませんからね」
「ええ」
ぐるぐると本質の周りを巡るような会話が途切れて、私は口を噤んだ。朝倉さんは両方の膝を立てるとビールの缶を持ち上げて傾けた。
「未来永劫の劫という字は仏教哲学では時間の長さを表す単位なんですが」
ビールを飲み下した朝倉さんが突然そんなことを言い出しても私はさして驚かなかった。この人の脈絡の無さは了解しているので、そんな所は変わらないなあと思っただけだった。
「地上へ降りてきた天女が羽衣で大きな岩を撫でてその岩が擦り切れてなくなるまでの時間を表すそうです。しかも彼女は二百年に一度しかやって来ないそうなので途方もない時間ですね」
低いけれど柔らかな声が紡ぐ、少し不思議な話に耳を傾けながら私は桜の下で賑やかに酒盛りをする人たちを眺めていた。朝倉さんの話の終着点はわからなかったけれど静かな彼の語り口はいつまでも聞いていたくなるほど心地いい。
ほろほろと酔ったように目を瞑った。周りの喧騒が遠くなってより彼の声だけを身近に感じる。
「でもこの話を聞いたときに思いました。途方もない時間が掛かったとしても終わりは来るんだと。全てのことは、いつか終わってしまう」
そろそろと目を開ければ朝倉さんはこちらを見ていた。薄いレンズ越しに栗色がかった瞳がじっと私を見据えている。何かを問われている気配がするけれどぼんやりとした頭では上手い返答も思いつかない。
答えに窮していると、不意に強い風が一迅吹いて方方から悲鳴に似た高い声が上がった。ビニールシートの旗めく音が耳障りに響いてやがて収まる。
乱れて落ちた前髪を朝倉さんがゆっくりと掻き上げた。私も手櫛で四方八方に散った髪を整える。それから弾みでスラックスの上に落としたナッツを拾い上げた。
終わり際の桜は今しがたの風で大分枝から離れてしまった。辺り一面が白に近い薄紅色の花びらで敷き詰められている。
「散る桜、残る桜も」
「散る桜」
呟いた朝倉さんの後を引き取ると彼はふふと笑った。徐に伸びてきた手が大雑把にしか整えなかった髪に触れて離れる。
「付いてましたよ」
そう言って翳した指先に透けそうなほど肉の薄い花びらを摘んでいた。にこりと微笑んだ朝倉さんは私の梅酒の瓶の上でそれを手放す。
ひらりと身を翻しながら一片の花弁が酒に浮かぶ。
「花見酒ですね」
瓶を傾けると儚い小舟のような花びらは波に揺れた。そのまま酒と一緒に口の中に流し込む。薄っぺらい花弁は一度舌に触れて喉を通っていった。
終わってしまうのが怖いですか。
そう朝倉さんに訊きたかったけれど口からは出なかった。さっき飲み込んだ桜の花びらが喉に貼りついて邪魔をするように言葉が痞えてしまう。
何も始まってやしないのに怖気づく朝倉さんの慎重さが愛しくもあり、恨めしくもあった。いつかやってくる終わりに怯んで、けれど私の手を取らないとも明言しない曖昧さをこの人らしいと思う。
そしてそんな朝倉さんを咎めるほどの強さを私は持ち合わせていない。
「寒くないですか」
「少し」
「夜はまだ冷えますね」
「ええ」
「これ、飲んだら帰りましょう」
「そうですね」
短く言葉を交わしながら潜水艦のソナー手のように互いの距離を測る。多分、かつてなく私は朝倉さんの近くにいる。腕を伸ばせば恐らく届く。
それでも触れることは出来なかった。夜風に冷えた指で最後のナッツを口に放り込んで咀嚼する。空になったプラスチックの小袋はコートのポケットに突っ込んだ。
奥さんがいなくったって私のことなど必要ないのかもしれない。男なんて冗談じゃないと嗤われるかもしれない。伸ばした手を振り払われるのは、怖い。
何だかんだで臆病なのはお互いさまだった。結局は私だって物欲しそうに遠くから眺めているだけで、すぐ横にある手のひらを掴んでみる勇気もない。
それぞれ口を噤んだまま花を眺めた。白い花を肴に緑色の瓶の底に残った酒を飲み干す。
空になった半透明な瓶が、春の夜を閉じ込めたように微かに鈍くひっそりと光っていた。
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