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花見 4
思わず視線を落とした先に下ろしたばかりの革靴がある。まだ熟れない生堅い履き心地で小指の側面が擦れて痛む。
学生ではなくなった。彼と同じくスーツを身につけて、ネクタイを締めて、革靴を履いて隣を歩いている。
あの頃より少しは近づけるだろうか。彼の傍に立っていてもいいのだろうか。
「この辺りでいいでしょう」
徐に立ち止まった朝倉さんが持っていたブリーフケースを探る。入ってきたのとは丁度反対側の辺りは桜ではなく楓が植っていて人気が薄かった。
「そっちの端を広げてください」
朝倉さんが取り出した小さめのビニールシートを二人で広げて腰掛ける。靴は脱がずに軽く曲げた膝に頬杖をついた。朝倉さんは長い足を投げ出して後ろ手に体を支えている。
薄ぼんやりと光りを抱く紺色の空を見上げて気持ちの良さそうな顔をする。
「いい夜ですね」
「ええ。花見日和です」
無防備に晒される朝倉さんの額を眺めながら肯く。この人は整った顔立ちをしているのに、それよりも先に表情の穏やかさが目を惹く。
どこか甘い春の夜風を嗅ぐような顔をした朝倉さんは傍の鞄から500mlの缶ビールを一本取り出した。
「とりあえず乾杯しましょう」
私もビニール袋から梅酒の瓶を出して蓋を開けた。こつん、と軽くそれぞれの酒をぶつけて口に含む。ふんりと梅の香りが漂った後、アルコールの温かさが喉を落ちてゆく。
「よかったらどうぞ」
これまた鞄の中から朝倉さんが出してきたのは乾き物の小袋だった。
中身の違う二袋を翳されてナッツとあられの混じったものを貰う。朝倉さんは小魚とピーナッツの入った方の封を開けて、のんびりとした仕草で口に放り込んだ。
「色んなものが出てくるんですね」
なんでもない顔をした朝倉さんが四角四面なブリーフケースから次々と花見の用意を取り出すのがおかしくて、つい笑ってしまう。ふふ、と一緒に微笑んだ朝倉さんは心配性なんでしょうねと自分の性格を分析した。
「いつも家を出る時は忘れ物をした気になります」
「それは、中々ですね」
「性分なもので」
「家に確かめに帰ったりするんですか?」
「たまにしてしまいますね」
不便ですが仕方がありません、と言いながら干からびた小魚を齧り悠々とビールを啜る。
朝倉さんの感情を読むことは難しい。この人はいつだって穏やかで揺るぎがない。取っ掛かりのない壁を撫でるようでするりと私のことなどいなしてしまう。
その難攻不落の壁を崩してみたい、と思った。多分一口二口飲みつけた梅酒が回ったのだ。緑の瓶を月明かりに透かす。綺麗な光を透過する液体の中で青い梅の実がことりと揺れた。
少しの酔いを言い訳に、私は口を開く。
「でも何も忘れてないんですよね」
「大抵はそうですね」
「怒られませんか?」
「誰に」
「奥さんに」
すっと朝倉さんの目が私の横顔を捉える。私は公園向かいの茫々と白く煙る桜並木を眺めていた。けれどどこかひやりとした視線は感じることが出来た。
恐らくいま、私は少しだけ朝倉さんの気持ちを乱した。この人が触れてほしくないと思っている所に手を掛けた。だからほんの僅かだけ壁が綻んだのだ。
朝倉さんはカサカサと音を立てて小袋の中を探っているようだった。カリッとピーナッツを奥歯で齧る音がして私は目を朝倉さんに向けた。
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