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花見 3
「満開の桜の下にあるのは」
「孤独と虚無、ですか」
「よくわかりましたね」
「坂口安吾でしたね。やたら怖かったので覚えています」
「何故か桜には恐ろしい話が似合いますね」
取り留めのない話をしながら歩調を落とした朝倉さんが私の横に並ぶ。黒い縁の眼鏡の端から彼らしい微笑が覗く。
このアングルにはひどく見覚えがあった。
以前も朝倉さんは私が後ろを歩くことをよしとしなかった。弱輩だからと引くことを許してくれなかった。自然と私は朝倉さんの隣を歩くことに慣れていた。
しかしどうやってこの人の横に居たのか。いまとなっては思い出せない。ただやはり朝倉さんは私が後をついていくことを了解してはくれそうにはなかった。
不意に酔いどれた大きな笑い声が右から聞こえて思わず顔を向けて確かめる。丁度向かいから来た二人組を避けた朝倉さんがふらりとこちらに寄った。
ちくりとした感覚を覚えたのは一瞬だった。しかし鈍い痛みが引かず私は右目を手のひらで覆う。
「どうしました」
「ちょっと…」
「目にごみでも」
「たぶん、髪が刺さりました」
「それは痛い」
さらりと言った朝倉さんの指が私の顎を持ち上げる。
目を開けてくださいと促されて恐る恐る目蓋を上げる。涙で滲む視界にぼんやりと人の気配がある。顔を覗き込まれていると気づいて身じろぐと顎を掴む指先に力が籠った。
「暗くてよく見えませんね」
困ったような朝倉さんの声に瞬きをすると、瞳の表面に溜まっていた水分が溢れて流れた。固めの布地が下瞼に触れて疼痛にこぼれた涙を拭ってくれる。慣れない柔軟剤の香りがしたのは朝倉さんのハンカチだった。使っていないのでと言い添えて手渡してくれる。
「歩けますか?」
はい、と肯くとそっと肘に大きな手が触れた。優しく握られてそのまま誘導するように腕を引かれる。
私は朝倉さんのきちんとアイロンの当てられたハンカチに顔を伏せて大人しくついて行った。
少し拓けた街灯の下で顔を上げた時には痛みは大分治っていた。微かにチクチクとした違和感が残る瞳を見下ろして大きな傷はないようですが、と朝倉さんは曖昧に語尾を窄めた。
「帰りましょうか」
「大丈夫ですよ」
「痛みはどうです」
「このくらいならアルコールで散らせます」
「豪胆ですね」
どこか感心したようにも見える顔で微笑んだ朝倉さんがふらりと歩き出す。並んで隣に目をやると撫でつけた毛先が、それでもふわりふわりと風に揺れる。
どうしてこんな柔らかな髪が目に刺さったのかと考えあぐねていると、朝倉さんが種明かしのように口を開いた。
「白髪でしょうか。あれはね、固くてぴんと跳ねるんです」
「ありますか、白髪」
「ありますよ」
「若白髪ですね」
「どうでしょう」
まじまじと朝倉さんの横顔を見つめる。微笑むと目尻に微かな皺が寄る。大抵そこにある皮膚の襞から察するに恐らく四十は超えていない。しかし正確な彼の年齢を私は知らない。
歳に限らず朝倉さんの来歴を殆ど聞いたことがない。興味はあったけれどこの年上の男性にそれらを尋ねる資格が当時の私にはないように思っていた。
実際親しく往来はしていたけれど私と朝倉さんとの間には常に薄いセロファン紙の膜のような隔たりがあった。普段は気にならない。けれどひょんな時にその薄膜が目の前に現れて私の口を噤ませた。
あれは自分が物を知らない学生だという引け目だったのだろう。いまになって思い至る。あの頃の私は随分と大人の男性にあれやこれやと問いただして距離を詰めることを躊躇っていた。
近づけそうで近づけない。そう思っていたのは私自身だった。
まったく隣に立ってなどいなかったのだと今更気づく。物理的に並ぶことはしていたけれどずっと私はこの人との間に線を引いていた。彼がではなく、私が。
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