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花見 2
春の宵はひやりとした風が吹いていた。
コートを持ち出すには温かく、かと言って上着を置いてくるには寒い。中途半端な気候に辟易としながら去年に新調したスプリングコートを羽織った。
一度部屋に戻る余裕はなかったので駅前のコンビニに寄って、そのまま自宅とは反対の緩やかに傾斜する坂道を下る。この時期になればそこかしこで桜が咲くのだけれど私と朝倉さんの花見は長い坂を下った先にある治水公園と決まっていた。
職場を出そびれたので時間は約束にぎりぎり間に合うかといったところ。少し急いで待ち合わせ場所に向かうとすでに朝倉さんはU字の車止めに座っていた。
「お待たせしました」
「時間通りですよ」
腕時計を私に見せるようにしながら立ち上がる。やはり朝倉さんも仕事が終わって直接やって来たのかグレイのスーツ姿だった。コートもマフラーもない首筋は寒そうで思わず肩を竦めてしまう。
「どうかしましたか」
「いいえ」
並んで歩き出しながら辺りを見渡す。盛りを過ぎた桜の花がはらはらと風に散って時折白に近いピンクが街灯の下を横切る。多分花見は今週が最後。
だから金曜の今夜は酒盛りを楽しむ人の塊が一群二群とあちらこちらに出来ていた。
私と朝倉さんは誰かの踏みしだいた轍を辿りながら堤を上る。
治水公園は大雨などで浸水しそうな時、一時的に貯水して周辺の被害を避けるために設けられている。ぐるりと巡る土堤のうえに立つと楕円形に窪んだ公園が一望出来た。
遊具はなくて真ん中を細い人工の川が横切る。とても浅く水の量もないので暑い盛りにはよく子どもたちが遊んでいるのを見かける。
季節に応じて趣を変える公園は今の時分、桜見物に特化する。管轄する役場の仕事なのだろう。電飾を抱く雪洞や提灯が木々の間に吊るされて、ぼんやりと柔らかく周囲を照らしていた。
「出店がありますね」
「本当ですね」
「ビールでも買ってきますか」
「お気遣いなく」
駅前のコンビニで仕入れてきた梅酒の瓶が入った袋を掲げると抜かりがありませんね、と朝倉さんが微笑んだ。そういう彼だってどこかにアルコールの類を隠しているに違いない。
互いに酒を一本ずつ。それが私と朝倉さんの花見のルールだった。強くはないけれど飲めないわけでもない。夜桜に酒を飲まないのは無粋極まりないとどちらからともなく言い出してそうなった。
他愛のない約束だけれど朝倉さんが忘れているはずがない。五年経っても約束の類は覚えている。そんな人だ。
微かな風が吹くとそれに乗って歓声が遠くから聞こえる。深皿の底は多くの人手で賑わっていてとても降りていく気にはならない。高さのある縁取りを人を避けながらゆっくりと歩いた。
「そろそろ桜もお終いですね」
春の匂いを嗅ぐようにしながら朝倉さんが眼鏡の奥の瞳を細める。背の高い彼は時々軽く頭を下げて張り出した枝を潜る。
柔らかな色の薄い髪が絡んでしまいそうでつい見つめてしまってから、そっと視線を逸らした。
「散り始めるとあっという間でしょうね」
「ソメイヨシノの木は皆同じ遺伝子を持つので散るタイミングが大体揃うんです。だから一斉に咲いて一斉に散るんですね。桜吹雪も壮観で素敵ですが」
「へえ、全部同じなんですか」
「ええ。全てが自分でもあり親や兄弟姉妹でもあります。仲良く一緒に咲いて散るなんて羨ましいものです」
さらりと言って微笑んだ朝倉さんに含みがあったのかどうかはわからない。けれど家族を連想させる言葉を彼が口にしたので私は少し驚いた。
以前はその単語の気配を感じると巧みに話題を変えていた。恐らく私が勘づいていることを朝倉さんは知っていた。それでも避けることはやめなかった。
余程のことがあるだろうと思っていたので尋ねはしなかった。何でもないことのように口に出せるようになったのは問題が解決したのか。若しくは朝倉さんの方の整理がついただけかもしれない。
五年のうちに何かがあったのだろうなと私は半歩後ろから彼の月明かりに晒される襟足を眺めた。
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