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第95話 決意

「そろそろ本当の事を話してくれるか?」 矢野君のそのセリフに、 心臓がドクンと高鳴った。 お茶を持つ手が震えて、 カップがソーサーにぶつかってカチャカチャと音を立てた。 “ヤバイ” そう思ってカップを急いでテーブルに置いたけど、 ひっくり返してしまった。 「ごめん、布巾、布巾」 そう言って立ち上がろうとすると、 「いい、俺が取ってくる」 矢野君はそう言って僕の行く手を阻んだ。 “どうしよう…… どうしよう…… 一体どういう風に話せばいいんだろう?” 心の準備なんて全然できていなかった。 まだ、矢野君に話そうという段階までは来ていなかった。 キッチンから布巾を持って来た矢野君は、 零れてしまったお茶を拭きながら、 「何故そんなに動揺する必要があるんだ?」 そう言って動かしていた手を止めた。 僕は覚悟を決めると、 咲耶さんと話した内容を、 一言一句漏らさないようにすべて矢野君に話した。 矢野君は暫く考え込んでいたけど、 「咲耶の気持ちは分かった…… でも残念ながら、 俺にとっての過去は陽向が説明した通り、 咲耶と愛し合っていたという記憶しかないんだ。 今ではお前の事を愛してるが、 咲耶に騙されたことを覚えてもいなければ、 別れたことも覚えていない…… これは俺にとって一つの心変わりのような感覚だ…… だから俺と咲耶の過去に何があって、 その為の咲耶の苦しみは理解のしようがない……」 と、まるで他人事のようにそう言い切った。 「そっか……」 その時はそう言ったけど、 僕の中には得体のしれない蟠りが残った。 今でも咲耶さんの “光を返して!” と叫ぶ声が僕の中でこだましている。 僕は矢野君のようにその声を他人事と出来ない! それにまぁ君だって…… もし矢野君がすべてを思い出したらどうなる? 今では忘れている感情も思い出すはずだ。 きっと咲耶さんに抱いていた感情は、 今の類ではないはずだ…… 全てを思い出したときに、 今と同じ感情でいられるのだろうか? 今では咲耶さんが何故ああいった行動をとったのか、 矢野君はもう既に知っている。 記憶が戻った時に、 裏に隠されていた事実と、その時の感情が交差したら、 矢野君は又咲耶さんに心が移らないだろうか?! その時、怖くなって急に僕の心にブレーキがかかった。 “これ以上矢野君を好きになってはいけない…… せめて、矢野君がすべてを思い出して、 すべてが明らかになるまでは!” いつかの矢野君が言った言葉ではないけど、 僕は矢野君を愛しすぎてしまった。 もうここまで来ると、 矢野君を失うのが怖い…… いっそ僕が記憶喪失になって、 矢野君の事を忘れてしまうことが出来れば! その後僕は一晩泣いて、泣いて、 もう涙なんかでないというほど泣いて、 そして決めた。 もうあの熱かった夏はここにはない。 僕達の終わりのないはずだった夏はとうに終わってしまっていた。 僕がそれに気付かなかっただけだ。 僕は息をスウッと深く吸い込むと、 矢野家の玄関のベルを鳴らした。 直ぐにお手伝いさんが出て来て、 「あら、陽向君、どうしたの? 坊ちゃんはまだ帰って来てないわよ?」 そう教えてくれた。 「あの……矢野君が来たら、 僕の離れに来るように伝えてくれますか? 緊急の話があるんです……」 そう言うと、お手伝いさんは訝し気に僕を見ていたけど、 ニコリとほほ笑むと、 「わかったわ。 陽向君、ちゃんと食べてる? 顔色が悪いわよ? ちょっと待ってて。 今ね、奥様のアフタヌーンティーの為に焼いたばかりのクッキーがあるの。 少し分けてあげるから持ってお行き」 そう言ってパタパタとキッチンへ走っていくと、 可愛い袋に沢山クッキーを入れて持ってきてくれた。 「ありがとうございます!」 そう丁寧にお礼を言うと、 “ここも出なきゃならないかな?” そう思いながら今来た道を戻った。 暫くすると、 玄関のチャイムがなり出ると、 「よう! 何か用があるんだろ?」 息せききった矢野君が玄関にニコニコとして立っていた。 「わざわざご免、入って、入って。 今ちょうど紅茶を入れる所だったんだ。 矢野君もいる? お手伝いさんに頂いたクッキーもいっぱいあるんだよ」 そう言うと、 「じゃあ、俺も……」 そう言って矢野君がリビングまで言ってソファーにドカッと座り込んだ。 勝手知ったる我が家…… 矢野君はもう何がどこにあるのか分かっている。 「真耶はまだ保育園か?」 「そうだよ。 茉莉花さんには感謝だよね。 本当だったら順番待ちがあるのにコネで入れてもらって…… 城之内大学が保育園から一貫した学校だって知らなかったよ…… それに城之内にもコネがあるなんて矢野家ってやっぱりすごいんだね……」 「いや、城之内は家の高祖父母が創立者と仲が良かったてだけで、 対したコネは無いんだけどな。 まあ、今でも交流はあるらしいんだけどな」 「仲が良かったって……それだけでもすごいよ。 矢野君の高祖父母って凄い人たちだったんだね!」 カチャカチャとお茶を入れる手が震える。 そんな音を矢野君はその後静かに聞いていた。 もしかしたらもう何か気付いているかもしれない。 「お待たせ~」 少し震える声でそう言うと、 僕はティーカップをテーブルの上に置いた。 「で? 緊急って一体どうしたんだ?」 矢野君のその声に体がピクッとこわばった。 「お前、大丈夫か? もしかして妊娠とか……?」 矢野君にそう尋ねられ、 僕は慌てて否定した。 「お前な、そんな慌てて否定しなくっても良いだろ? 何時かはそうなる事なんだしさ」 矢野君にそう言ってもらえる事が凄くうれしかった。 でも同時に凄く複雑だった。 僕は今からあることを矢野君に言おうとしている。 もう、何度も、何度も考えて出した答えだ。 「お前、大丈夫か? 心なしか顔色が……」 そう言って僕の前髪を触ろうとした矢野君の手をバシッと叩いて払った。 「どうしたんだ? お前らしくないな?」 そう言って矢野君が僕の顔を覗き込んだ。 拳を握って膝に置いた手が震える。 “頑張れ僕、頑張れ!” 自分にエールを送った。 「あのさ……」 僕がそう言うと、 「ん?」 いつもの笑顔で僕の目を覗き込んできた。 “ダメだ! 言えない!” 「お前、ほんとにどうしたんだ? 今日はなんだか変だぞ? まあ、いつも変なんだけどな」 そう言う矢野君をグーでつくと、 少し落ち着いた。 “今だ!” そう思い、僕は勢いで床に正座で座ると、 「どうか、僕との番を解消してください!」 そう言って深々と頭を下げた。

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