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ありがとう

「はーー‥」 深いため息を吐くと、白い息がまだ冷たい2月の空に吸い込まれていく。 「はーーーー‥」 「‥うっせーなぁ、気になんだろうが」 「だってさぁ‥‥はーーーーーー‥」 「‥‥‥‥‥‥」 通学路の途中で穂輔にばったり会った七海。一緒に行こうと声をかけたはいいものの、七海は先程からずっとこの調子で、横を歩く穂輔はだいぶイライラしていて、眉間のシワはいつもの3割増しだ。普段なら耐えきれず一発はたいているところなのだが‥ため息の理由を知っている穂輔は、今日ばかりは仕方なく我慢した。 2月9日。 今日は修作の第一志望校合格発表の日。 結果が出るまでの2週間弱、七海は自分のことのように不安で緊張でドキドキしながら毎日を過ごしていた。 『ネット発表は10時』 修作からそう聞いていた七海は、9時50分から始まった二限の数学の授業をスマホ片手に受けていて、もちろん、黒板の数式なんて全く頭に入ってこず、何度も画面に視線を落として修作から連絡がくるのを待っていた。 (もし落ちてたらどうしよう‥) と、今更になってそんなネガティブ思考が頭を過るが、手の中でスマホが短く振動した瞬間、七海は考える間もなくラインの通知欄をタップしていた。時刻は10時19分。 『第一志望合格!!』 (やっ‥‥) 「たーーーーーーーー!!!!」 スマホを握りしめたまま両手を振り上げ、ガタンと勢いよく椅子から立ち上がって数秒。シーンと静まり返った教室と自分に向けられている痛いほどの視線で、七海は今が授業中であるということをやっと思い出した。 「‥一ノ瀬、よっぽどこの問題を解きたいみたいだな」 「え、あっ、違います!わかりません!」 「即答するな、ちょっとは考えろ」 「うー‥えーと‥‥‥‥分かりません!!」 「本当ちょっとだな、お前」 そのやり取りを見て、教室中はすっかり爆笑の渦に飲まれ、唯一その理由を知っている穂輔は、呆れながらもその目は優しく七海に向けられていた。 数学教師にこっぴどく怒られ、メッセージを読んでから2分後。 『おめでとう!!!!ございます!!!!!!!!!!!!!!』 七海はありったけの喜びの気持ちをびっくりマークに込めて、急いで修作に返事を送った。程なくして修作から返事がくる。 『担任に報告しに行くから、今日学校行く。放課後会える?いつものとこ』 『もちろん!HR終わったらすぐに行く!』 やっと、やっと会える‥ 今の七海の頭の中はその思いでいっぱい。‥何かとても大事なことがあった気がするけれど。 “受験が終わったら告白する” 七海がそのことに気がついたのは、昼休みが終わる直前だった。 * 15時45分。HRの終わりを告げるチャイムが鳴り、七海は深く息を吐くとゆっくりと席を立って約束の場所へと向かう。午後の授業はうわの空で、教師に怒られるたびにクラスメイトから笑われたが、それすら気にする余裕はなかった。空き教室が近づくにつれて緊張感が高まり、ドアの前についた時にはガラにもなく手足が少しだけ震えていた。   ガラス窓から中を覗くと窓の外を眺めている修作のうしろ姿が目に入り、七海は震える手で静かにドアを開ける。その音に気づいて振り返った修作が少しだけ伸びた髪のせいで何だかとても大人っぽく見えて、「久しぶり」と声を掛けられると七海は思わず 「お久しぶりです」と敬語で返事をしてしまった。 「あ!あの、合格おめでとう、ございます」 「ありがと。お前の神頼みが効いたわ」 「でしょー!初詣でも自分のこと言わずに先輩のことばっかお願いしたもん!」 「まじかよ」 そう話をしながら修作が窓際に置かれた椅子に座ると、七海も鞄を置いて修作と向かい合うように椅子に座った。 それから七海は、修作と会わなかった間の出来事を少しだけ話した。今日メッセージをもらった時のことを話すと、修作は嬉しそうに笑っていた。2人とも笑顔ではあるけれど、そのどこかぎこちない態度がお互いの緊張を煽る。それはこれから何を言うか、言われるか分かっているから。 「‥‥‥」 「‥‥‥」 「‥‥先輩、」 「うん、あの、ちょっと待って」 「ふふ、うん」 徐々に言葉数が減って短い沈黙ができると、七海はたまらず修作の名前を呼ぶ。その口から、その声で、その気持ちを早く聞きたくて。修作は何度も何度も深呼吸をして最後に大きく息を吐くと、いよいよ意を決した眼差しで七海を見据えてゆっくりと口を開いた。 「えっと‥‥。あ、あのさ。俺、春から関西だし‥‥、遠距離だけど‥‥」 「うん」 「‥‥や、待って!順番間違えた!」 言いかけた言葉を途中で止めて髪をグシャグシャと掻きむしる修作を見て、七海は思わず声を出して笑ってしまう。急に大人っぽくなった修作に少し落ち着かなかったのだが、その慌てっぷりを見てフッと力が抜けた。 (もー、肝心なとこで決まんないなぁ) 久しぶりに会ってもやっぱり修作は修作で‥七海にはそれがとても嬉しい。 「先輩、がんばって」 大きくて優しくて大好きな修作の手を握り、七海は笑顔でエールを送る。冷たかった手がじんわりと温かくなって、力強く握り返してくれた掌からその決意が七海にも伝わってくる。再び目が合い、紫色の瞳にまっすぐ見つめられると身体中が熱くなった。‥そして修作はゆっくりと言葉を紡ぐ。 「俺、い、一ノ瀬のこと、好き、です。春から関西で、遠距離だけど、俺がんばるから‥‥っ。だから、俺と、‥‥付き合って下さい‥‥‥っ」 ずっと待っていた言葉。最後まで逸らされることのなかった真っ直ぐな視線が嬉しくて嬉しくて‥七海は涙が出そうになるのを必死で堪えて笑顔を作る。答えはもう、とっくの昔に出ていた。ずっとずっと伝えたかった想い。 「‥‥‥はい!よろしくお願いします!」 その返事を聞いた途端、修作は座っていた椅子から崩れ落ちて床に座り込んでしまい、驚いた七海は慌てて修作の元に駆け寄る。 「先輩大丈夫?!」 「死ぬかと思った‥‥」 「緊張した?」 「口から心臓出そう」 微妙に噛み合っていない会話がなんだか可笑しくて、七海はまた声を出して笑った。優しい空気に包まれて幸せを感じ、そして心から満たされていく。その存在を、その温かさを確かめるように、七海は目の前にいる修作をそっと抱きしめて奇跡のような出来事にただただ感謝した。 「先輩、オレのこと好きになってくれてありがと」 「‥‥別に、こっちの台詞だし‥‥」 修作にそう言われてまた嬉しさが込み上げる。 「あっ!」 そう声を上げてパッと体を離した七海は、大きな目を更にまん丸くさせて修作の顔を覗き込んだ。 「ねえねえ、先輩!」 「なに?」 以前だったら咄嗟に避けられていたその距離も、今はこうして見つめ合える。それもまた奇跡だと感じる。 七海はにっと無邪気な笑顔を向けて修作に尋ねる。 「もうキス解禁?」 「え?!」 「好きな人とじゃなきゃって言ってたじゃん」 「あぁ‥‥。お前が爆笑しやがったやつな」 「それはごめんって!」 「ほんとに思ってんのかよ‥‥」 七海が両手を伸ばしてそっと修作の頬を包み込むと、次第に二人の距離が縮まっていく。ゆっくり目を閉じると、間もなくして柔らかくて温かい感触が唇に伝わってきた。 それはずっとずっと触れたかった場所。 唇が離れて目を開けると、不意に修作の顔が近づいてきて、ニ度目のキスをされた。軽く触れるだけだったのに、目と目が合ってしまい一気に顔が熱くなる。 「‥‥‥ムリ。なにこれ」 「は?」 「意味分かんない!照れる!死にそう!どうしよう!!心臓でる!!」 好き合っている人とするキスがこんなに恥ずかしいなんて思いもしなかった。耳まで真っ赤になった七海は慌てて修作から離れようとするが、修作はそんな七海を笑ってつかまえていた。 幸せだ。どうしようもないくらい。 この溢れる気持ちを伝えたい。 「ねえねえ、先輩!」 「今度はなに?」 修作の元からふわりと離れ、七海は改めて修作と向き合うように立つ。大きな瑠璃色の瞳はキラキラと輝いて、真っ直ぐに愛しい人を見つめる。 冬の空に消えてしまったあの時の言葉を、今なら自信を持って言える。 「大好きだよ、修作先輩」 真っ赤になって後ずさる修作を、今度は七海が笑ってつかまえにいった。 今日も空き教室は薄暗くて埃っぽい。窓から差し込める夕焼けも、相変わらず寂しげに教室をオレンジ色に染めている。 だけど今そのどれもが懐かしくて幸せに感じるのは、大好きな人と一緒に過ごしてきたものだから。 もう絶対、泣かせたりしないからね。 だからずっと‥この先ずっと あなたと一緒にいられますように。 そして2人の歩んでいく道が たくさんの幸せで溢れますように。 おわり

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