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金平糖の降るところ Ⅱ

結局牧瀬はパンプスも色違いでオーダーしていて、亜子はもう黙っていることしかできなかった。低層マンションの一角を占める牧瀬の現在の部屋、最近高層マンションは耐震が不安だからとかなんとか言って、たいして住んでいないくせに引っ越したばかりだった、その中には、何故か牧瀬がそこに引っ越した当初からずっと、当然みたいに亜子の部屋も用意されていた。そうして外堀を上手に埋めたつもりで、この男は満足しているのだと亜子は青白い顔をして思ったものだった。亜子は生活用品は準備されていたが、自分に必要なものは何もない、そのだたっぴろい部屋に備え付けの、現在の亜子の部屋と同じくらいの大きさのウォークインクローゼットを開けて溜め息をついた。そこは牧瀬が選んで買ってきた高級ブランドの服や靴、バックなどが丁寧に並べられていた。 その昔、兄のことを諦めたら付き合ってもいいと牧瀬に言ったのは亜子の方だった。兄のことを自分はきっと諦めることはできないだろうし、もし万が一にも諦めることがあるのだとしたら、諦めた後の自分のことなんて興味がなかったから、どうでも良くてそんな返事をしたのだろうと思う。牧瀬が未だにそんな昔の約束にすがっているなんて、バカみたいだと思っていたし、同時にらしくないとも思っていた。これは多分愛情なんかじゃなくて、ただの意地なのだろうと、亜子は分かっているつもりだった。それは未だに兄の背中を追いかけ続けている自分みたいで、そんな牧瀬を見ながら、バカらしいからもう止めろと言えずにただ黙っている。黙っていることで容認しているみたいに、こうして事態は段々悪くなっているのかもしれないと、亜子はそれでも分かっているつもりだった。ただ、どうしたらいいのかは分からなかったけれど。 「亜子」 部屋から出てきたところで、キッチンにいる牧瀬に呼ばれて顔をあげる。牧瀬はいつの間にかジャケットを脱いでいて、シャツだけのラフな格好になっていた。そしてキッチンで湯気の上がるカップを持っていて、立ったままそれを飲んでいた。中身は多分コーヒーだろう。 「お前もなんか飲むか」 牧瀬のそれはいつもより少しぶっきらぼうに聞こえた。牧瀬はそとでは流暢に喋り、明るく振る舞っているけれど、本来は物静かでひとりのほうが好きなことを、亜子は知っていた。そういう牧瀬だからこそ、多分兄の理解者でいられたのだろう。切れ長の目や尖った顎、単調な口調の兄が持つ直線の印象と違って、牧瀬は美しいアーモンド型の瞳や緩やかにウェーブした髪を持ち、どちらかと言えば中性的な魅力のある、曲線の多い男だった。兄と比べても、亜子が知っている他の誰と比べても、牧瀬は人間の扱いがうまくて、どこにいても誰といても牧瀬がいるところこそが世界の中心みたいに輝いていた。その側に兄はずっといたはずだったのに、兄はそれを羨んだり疎ましがったりしなかったのだろうか、自分だったら絶対、そこまで考えて、亜子はまた自分と兄との境界が曖昧になっていることに気がついた。 「いらない」 「あ、そ」 キッチンにいる牧瀬に辛うじてそう返事をして、亜子は意識的に息を吸い込んで呼吸を整えた。自分は兄ではないのに、時々兄になったみたいに、兄の振りをして、多分兄が考えないようなことを考えては、それに振り回されている。亜子は兄のことが好きでいるのか、兄のようになっている自分がかわいそうで見捨てられないと思っているだけなのか、分からなくなる。そしてそんな訳の分からないところで勝手に苦しんでもがいている自分のことを、好きだなんて曖昧なことをいう牧瀬のことも信じられないでいる、結局。 「最近、旬には連絡してんのかよ。あいつ俺には何にも言ってこないんだけど」 「昨日電話したけど元気そうだったわ」 「なに?あいつなんか言ってた?」 「・・・別になにも」 昨日電話をしたのは嘘ではなかったけれど、元気かどうか確認をして亜子はすぐに電話を切ってしまった。兄を尾行したあの日から、兄に申し訳ないような、今まではそんなこと考えたこともなかったのに不思議だ、気がして何を話せば良いのか分からないので、電話をしてもすぐに切ってしまっていた。自分が心配しなくても、堂嶋が一緒にいるのだから死にはしないと思っているのだろうか。今までそんなことは考えたこともなかった。自分だけが兄の生死を確認できる唯一の手段を持っていると信じていたけれど、もうそれも必要ないと堂嶋に言われているみたいで苦しかった。 「何だよ、何もってことはないだろ」 牧瀬はそう言って静かに笑った。 「堂嶋さんがいるからもういいの」 「・・・何だよそれ」 自棄になって呟いたら、牧瀬がまた笑ったから、牧瀬はそれをなんとも思ってないのかもしれないと思った。牧瀬を堂嶋に会わせたのは、牧瀬の意見も聞きたかったからだったが、亜子はそれを牧瀬から直接聞くのが怖くて、まだ言葉にできていない。牧瀬からも見ても堂嶋は特別だっただろうか、そんな主観が何の役に立ってくれるか分からないが、それでも亜子はそれを聞いて安心したいような、現実を分からせて欲しいような、不思議な気分がしている。本当はもう、そんな言葉じゃなくても分かっているのだ、とっくの昔に。 「いい加減旬のことは諦めたってこと?」 はっとして亜子が顔をあげると、キッチンにいる牧瀬はそこから亜子のことをじっと見ていた。 「・・・そんなことあり得ないでしょ」 反射的に呟く。牧瀬が意地になっているのは分かっているから、だとしたらこっちもずっと意地を張り続けるしかなかった。それ以外の返事を、亜子はこれから何が起こったとしても、できる気がしないのに、牧瀬は時々思い出したように、冗談ではなさそうな調子でまっすぐ亜子を見ると、そんな風に聞いてくるから堪らなかった。絶対に覆らないと信じていたけれど、本当は誰かにそんなものはないのだと言って分からせてほしかったような気もする。だけど牧瀬はそういう時、決まって少し肩をすくめる程度でそれ以上のことは何も言ってこない。なんと言われればうなずく準備ができているかなんて、亜子には分からなかったが、それができるのが牧瀬だけであることは分かっていた。 「机の、それ。母さんがまた送ってきたやつだから、適当に持っていって」 ダイニングテーブルに無造作に置かれた箱は、老舗の和菓子屋が作っている金平糖の箱だった。亜子は椅子に座って、それを丁寧に開いた。中はビニールの小袋と、瓶に入っているものもあった。はじめに牧瀬がこれを亜子に差し出した日のことを牧瀬は覚えているだろうか。後になってあれは牧瀬の母親が、誰かにプレゼントするために家に置いてあったものだと分かって、それを勝手に持ち出した牧瀬はひどく怒られたと聞いた。ただ、その後牧瀬の母親は亜子がそれを気に入ったと牧瀬から聞いたのか、時々亜子にそれを渡してくれて、それは今まではこんな形で続いている。亜子は瓶に入った金平糖を持ち上げて、ライトにかざしてみた。ほんのり透けるような色をした金平糖は、瓶の中で仄かに発光しているようにも見えた。 (昴琉は本当に、私の欲しいものを、何にも分かってない) あの時、泥々になったうさぎを抱えながら泣きじゃくる亜子に向かって、牧瀬が必死の思いで差し出したものを彼はまだ覚えているのだろうか。 (こんなに近くにあっても、分からないんだわ) でもそれが牧瀬らしい気がした。 Fin.

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