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金平糖の降るところ Ⅰ

「亜子ちゃんあれちょうだい」 鮎原が急にそう言いながら回転椅子をいつものように転がして、パソコンの前に座っている亜子のところまでやって来た。亜子は鮎原が言う、『あれ』がなんなのか聞き返さなくてもわかったので、机の一番下の引き出しを開けて、自分のかばんの中から黒のポーチを取り出した。それを開くと中からビニール袋が出てきた。それをそのまま亜子の背もたれに顔をくっつけるようにしている鮎原に渡す。 「やったー!ありがと。疲れたときには甘いものだよね、やっぱ」 鮎原は大袈裟なくらい大声でそう言いながら、ビニール袋から金平糖を2、3粒取り出してそのまま口に放り込んだ。それを遠くから見ていた笹塚が、亜子に聞こえるか聞こえないかくらいの小さな声でボソッと呟いた。 「へー、そんな女みたいなもん、持ってんだな」 亜子はもちろん笹塚の嫌味は耳に入っていたが、聞こえていない振りをして鮎原から返ってきたビニール袋を一度ポーチの中に入れようとしたけれど、自分もそこに手を突っ込んで、中から適当に一粒取り出すとそれは淡いピンク色をしていた。昔、亜子がまだ小さかった頃、公園でお気に入りのウサギのぬいぐるみと遊んでいたら、男の子たちにそれを奪われてどろどろにされてしまったことがあった。その時それを取り返してくれた昴琉がそれでも泣き止まない亜子のために、どこからか、まぁおそらく家なのだろうけれど、持ってきた代物で、亜子はあれから何年経った今でもそれを、お守りのように大事に持っていたりするのだ。亜子は取り出した金平糖を口の中に放り込んで、奥歯で軽く噛んだ。しゃりと心地よい歯触りがしてそれが形を変えるのが分かった。あれから何年も経って、変わったこともあれば変わらないものもあった。 「あれ、亜子ちゃんもう帰るの?」 ポーチを鞄に仕舞って立ち上がる亜子に向かって、鮎原は目敏くそう声をかけてきた。奥で笹塚が振り返ったのが気配だけでわかる。亜子は着ていた白衣を脱いで自分の椅子の背もたれにかけると、鞄を肩にかけた。 「えぇ。迎えが来たからもう帰るわ。また明日」 「うん、また明日ー」 鮎原はにこにこして、研究室から出ていく亜子に愛想よく手を振った。亜子が研究室から姿を消すやいなや、奥の方にいたはずの笹塚がすっ飛んできて、鮎原の椅子の背もたれをガシッと握った。 「おい、向かえってなんだよ」 「あれ?笹塚知らないの?たぶん彼氏だよ。亜子ちゃんあんまり詳しく教えてくれないけどねー」 「はぁ?彼氏いるなんて聞いてねぇんだけど」 小声で言いながら眉間にシワを寄せる笹塚の気配を背中に感じながら、鮎原は声をだして笑った。 「好きならはやく告白しなきゃじゃん」 「はぁ?違ぇし」 「てっきり逢坂くんが好きだと思ったのに、ざんねん」 「なんでお前が残念がってんだよ」 笹塚のツッコミはもっともだと思いながら、鮎原はまた声をだして笑った。 正門は目立つから止めてと以前伝えたはずだったが、その時届いたメールには『正門の前で待ってる』と書いてあったので、亜子は自分にしか分からないくらいの小さな溜め息をつく羽目になった。正門の前には最近牧瀬が気に入って乗っている黒のベンツが止まっていて、すぐにそれだと思ったけれど、見えた途端にそこに近づくのが億劫になるのはどうしてなのだろう。亜子にも分からなかった。しかし、ずっとそこで足踏みをしている訳にもいかないので、仕方なくそこに近づいていくと、まるでそれを察知するみたいに助手席の窓が自動で開いた。 「おう、遅かったな」 そして奥の運転席から牧瀬の声がして、亜子は黙って扉を開けて車に乗り込んだ。シートベルトを閉めると、開いたままだった窓がまた自動で閉まっていく。牧瀬は一週間に1回程度は必ず連絡を寄越して、こうして亜子に会いに来た。暢気な学生の自分とは違って、一応忙しくしているはずだったが、亜子の前ではそんなそぶりは一度も見せたことがないので、オーナーというのは結構暇な商売なのかもしれないと亜子は誰にも言わずに一人で考えている。 「帰る前に寄りたいところあんだけどいい?」 「別にいいけど」 「可愛いワンピース見つけたから取り置きしてあんの、きっと亜子に似合うと思って」 こういう時に一体どんな顔をしたらいいのか、どんな返事がふさわしいのか、亜子は今まで正解がわからず、そうではないと分かっていても黙っているしかなかった。他の人の普通が分からないから、自分と比べるしかないけれど、それを差し置いても牧瀬はきっと生まれたときから恵まれた人生を送っているはずだった。それなのにどうして未だに自分なんかに固執しているのか、訳が分からない。ちらりと運転席に座る牧瀬の横顔を盗み見ると、亜子の視線に気づいたのか牧瀬がすっと横目で亜子のことを見た。 「なに?」 「・・・別に」 他に言うことがあったと思うけれどその時亜子が言えたのは、それだけだった。 馴染みの店は、入り口に扉を開けるだけの役割の人間が立っている。そういう高級店の雰囲気に、ひとりではきっと萎縮して入ることもできなかったと思うけれど、牧瀬と一緒にいるとたちまち常連客のようになるから不思議だった。証拠に牧瀬の顔を見つけると、奥から白い手袋をしたぱりっとしたスーツを着た店員が、急ぎ足で近くまでやって来た。 「お待ちしていました、牧瀬様」 「頼んどいたワンピースある?」 「勿論でございます。奥へどうぞ」 紳士的な振る舞いに隙のない店員の後を、気取らない調子で牧瀬がついていくのに亜子は体を小さくして、できるだけ誰にも見られたくないと思っていた。店内にいる僅かな客が、明らかに一般客とは違う扱いをされている牧瀬に、一体誰なのかといぶかしがるような視線を送っていることを、亜子だけは分かっていた。店の奥の扉を店員が開けると、牧瀬はまるでそこが自分の家かのような自然な振る舞いで中に入っていった。 「いかかでしょうか、牧瀬様」 「思った通り、すげぇいい」 牧瀬の選んだワンピースを着て、いつ誰が持ってきたのか分からない、ふかふかな椅子に座る牧瀬の前に立っている亜子は、何度もこんなことをしているけれど、毎回死にたい気分になるのは何故だろうと思った。ちらりと牧瀬の側にたつ隙のない店員に視線を移す。彼の目に自分はどう写っているのだろうか、等と考えると背筋が寒くて悲しくなる。 「ねぇ昴琉、もう脱いでもいい?」 「ピンクもいいけど、イエローも悪くないな」 「ブルーもきっとお似合いですよ、色違いでご用意させてもらっています」 「用意がいいな、亜子、ブルーも着てみろ」 「そんなに要らないんだけど・・・」 ここではそれを着るはずの亜子の意見が一番採用されない。溜め息をついていると、昴琉がそれを目敏く見つけてさっと立ち上がった。 「分かった、全色もらう。後表のウインドウにパンプスがあっただろ、黒の。あれ持ってきてくれ」 「承知いたしました」 「何枚もいらないって、どうするのよ。こんなの、どこに着ていくの」 「学校に着ていけばいいだろ、嫌なら部屋で着とけ」 学校にはこんな服は着ていけないと思ったけれど、これ以上反論しても牧瀬が意見を曲げないのはわかっていたので、亜子はなにか言うのは止めにして、店員が持ってきたやけにヒールの高いパンプスを履くことに専念した。

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