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美しい庭は終わった Ⅱ
「部屋、綺麗にしてるね」
「え?」
ふと翔がそう言って、鹿野目は現実に戻ってくる。ソファーに座っている翔に視線をやると、やはりにこにこ顔のままで、翔はそこに座ったまま鹿野目のことを見ていた。
「掃除、は、さとりはしないだろう?実家の部屋もいつも汚かったからなぁ」
「・・・時間があれば、時々は、さとりさんもやってくれることがあります、よ」
ここに堂嶋がやってきてから、そんなことは数えるほどしかなかったけれど、鹿野目は逃げ道を探すみたいにぼそぼそとそう呟いていない堂嶋のことをフォローするしかなかった。
「ごはんはどうしてるの?買って食べてる?外で食べるの?」
「・・・あー・・・そういうこともあるんですけど、できるだけ自炊してます。栄養が偏ってしまうので」
「ふーん、鹿野目くん料理できるんだ?さとりはしないだろう」
「さとりさんも時々作ってくれますよ」
実家で堂嶋の父親から堂嶋が小さいころ体が弱かったという話を聞いてから、鹿野目はより一層堂嶋の食生活には気を配るようにしていて、堂嶋も時々呆れたみたいに、何かあったのかと聞いてくることがあるほどだった。今は元気そうに見えるし、多分実際体のどこも悪くはないのだろうけれど、ただ鹿野目は自分の安心のために、料理本を捲る回数を増やしただけだ。
「・・・ふーん、まぁ大体予想してきたけど、さとりはなんにもしてないんだなぁ、鹿野目くんに全部やらせて」
「え?いや、別にそういうわけじゃ」
「鹿野目くんだって仕事してるわけだから別に、忙しくないわけじゃないだろう。それなのにさとりばっかり楽していていいのかな」
言いながら翔はにっこり笑って、翔の表情はずっと変わらないでいるのに、鹿野目はなぜだかそれがひどく、怖いように感じた。
「いいです、別にそんなこと。暇なほうがやればいいので。俺のほうが暇だから、時間があるのでできるだけで」
「そう?ならいいけど。さとりは自分じゃしっかりしてると思ってるかもしれないけど、無意識にひとに甘える癖があるからなぁ、鹿野目くんも何か嫌なことがあったら、我慢せずにはっきり言ったほうがいいよ」
「あ、・・・はい」
翔のそれに返事をしながら、鹿野目は一体この人が何を言っているのか、よく分からないでいた。翔は鹿野目の曖昧な返事を聞くと、にっこり笑って持っていたお茶の入ったグラスをローテーブルに置いて、ふとソファーから立ち上がった。
「・・・翔さん?」
「鹿野目くん。弟はさ、君がそんな風に手放しで愛してくれるほど、いい男じゃないと思うけど、まぁよろしくお願いするよ、兄として心配なところもあるしさ」
ひらひらと軽やかに手を振って、翔はそういってやはりにこりと笑った。鹿野目はそこで何となく、この人が連絡もせずに急に訪ねてきた意味が分かったような気がした。
訪ねて行った時にはひどく迷惑そうな表情を、なんというか鹿野目という男は表情が変わりにくいので、翔にはその微細な違いは分からなかったけれど、何となく漏れ出す迷惑そうな雰囲気を、それこそ隠しきれていなかったけれど、帰ると言うと、今度は慌てたように引き留めたりして面白いなぁと、ただ単純に思った。鹿野目は翔が弟に会いに来たと思っていたようだが、実はそうではなく、鹿野目が一人でいることは、弟にスケジュールを聞いていたので予測済みだった。そう、翔は鹿野目が一人でいる時を見計らって、わざと今日訪ねたのである。理由は明確で、ただ面白くなかったからである。
弟からの電話は彼らが実家に戻ってくる少し前にあり、そこで鹿野目のことを聞かされた。父も母もおっとりしすぎるほどおっとりしているので、ふたりとも流石に驚いてはいたけれど、多分鹿野目が男であることに対して、拒否感は思ったよりはなさそうだった。それが弟を尊重する姿勢なのだと言われれば、多分翔はそれに頷くしかない。両親は兎角、弟にはいつも少し甘かった。弟が無意識に他人を頼るようになったのも、多分この両親のせいだろうと翔はひとりで考えている。だからと言って別段、長男である自分に対しても、両親は決してプレッシャーをかけるようなことはしない人たちだった。根がおっとりしているので、方法は違えど、自分もそれ相応には甘やかされて育っていると思う。だからこの年になってろくに仕事もせずゴルフして女の子と飲みに行っても、時々母親が小さく小言を言うくらいなのだ。まぁそれも自分のことながらどうかと思うが。
だからそんな両親の代わりに、この問題については自分がしっかりしなければいけないと、珍しく翔は思って、一応鹿野目のことは注意深く観察していたつもりだった。愛想は悪いが腰の低い男は、コミュニケーション能力が低い分誠実に見えた。父親は「鹿野目くんは静かだけど優しい子だね」と笑っていたし、洗い物など手伝ったことがない兄弟を育てた母は感激して「またすぐにでも来てもらいたいわ」と話していた。こんなはずではなかったのに、なぜこんな風にすべてが上手くいくのだろうと、ひとりで不機嫌になって思った。日本酒の瓶を片手に、深夜にこっそり弟と鹿野目の部屋を訪ねたのも、何か悪い情報を得られればと思っただけのことだった。
「いやだ、俺もう一生、さとりさんのことを離さない!」
そう叫ぶように言った彼の背中のことを、翔は今でもよく覚えているし、鮮明に思い出せる。弟はあんな風に手離しにこの得体のしれない男に愛されているのだと思った、それもこんなにも分かり易いやり方で。そう思ったらなんだか、よく分からないけれど、腕から力が抜けて、そっと障子を閉めることしかできなかった。こんな兄でも弟のことは可愛かったし、だからこそ弟には幸せになってもらいたかった。でも多分、弟の幸せはきっと、それは弟が決めることなのだろうと思った。
「え?翔くん?なんで」
ここから家までは1時間近くかかる。電車に乗るのも面倒くさかったから、駅前でタクシーでも捕まえて帰ろうと思っていると、後ろから声がして振り返ると、そこには堂嶋が青い顔をして立っていた。鹿野目の話では帰宅は夜になるようだったけれど、まだ昼過ぎだったし、こんなに早く堂嶋が帰ってくるなんて、翔には予想外のことだったし多分この先のマンションで待つ鹿野目にとっても予想外のことに違いない。
「あ、さとり帰ってきたの、お帰りー。早かったね」
「帰ってきた?え?なんで翔くんここにいるの?」
言いながら翔が逃げるとでも思っているのか、バタバタと早足で近寄ってくる堂嶋の表情は、激務のせいなのかそれとも驚きのせいなのか優れない。それを無言で観察しながら、翔は怪訝な顔をして見上げる弟に向かってせめてもにっこりして見せた。
「べっつにー、ちょっと鹿野目くんに挨拶しただけ、もう帰るところ」
「え?なんで?俺がいないのに?鹿野くんに何か変なこと言ったんじゃないだろうね」
捲くし立てて堂嶋が逃げられないようにと思っているのか、翔の袖を掴む。信用ないなぁと思いながら、そんな風に必死になる堂嶋の頬がどんどん蒸気していくさまを翔は黙って見ている。
「言ってないよー、ちゃんと弟をよろしくって言ってきたよ」
「なにそれ、そんなの言わなくていいよ。ほんともう、来るときは言ってよ」
「ごめーん」
言いながら笑うと、堂嶋はやっと安心したのか納得したのか分からないが、シャツを握っていた手を離した。鹿野目があんな風に手離しに弟を愛しているみたいに多分、弟も鹿野目のことはそれ相応に大切に思っているのだとしたら、そこに外野の自分たちがあれこれ言う必要なんてないと、鹿野目が実家にやってくる前に父親はただ静かにそう言っていた。自分たちが外野なはずがないだろう、家族なのに、と思いながら翔は、それには何も言わないで、賛成しているふりをした。女の子とだってあんまりうまくいかないでいるのだ、男なんてきっとすぐうまくいかなくなるし、弟はまたよく知っている弟に戻ってくれると信じていた。それが一体弟にとってどういう意味があるのか考えもせずに。それが最良の選択だと思っていた。
「鹿野くん、お茶出してくれたよ」
「は?いや、お茶くらい出すでしょ、普通に」
堂嶋は何を言っているのか分からないといった風に、眉を寄せてそう言った。翔はそれを見ながら、なんだか吹き出してしまいそうだと思った。
「いい子だね、仲良くしなよ」
最良の選択はきっと弟が決めるし、そういう時にこの男は迷ったりしないのだ。それを翔はよく知っている。
Fin
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