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美しい庭は終わった Ⅰ
何でもない日の休日だった。その日堂嶋は朝早くから前から決まっていた休日出勤のために出かけていて、鹿野目はひとりで早朝ランニングの後、慌ただしく出て行く堂嶋を見送ってから、溜まっていた洗濯物を洗濯機に押し込み、片っ端から片付けていたところだった。静かな部屋に洗濯機の回る音だけが規則的に響いていて、鹿野目は洗面所の床に座ってその振動をただ感じていた。堂嶋はまた性懲りもなく柴田と組まされていたから、きっと今日も帰ってくるのが遅いに違いない。もうしばらく堂嶋にはそういう意味で触れていないし、自分的にも限界が来ていることを自覚しているけれど、完全な疲弊を連れて帰ってくる堂嶋相手に、まさかそんなことを言うこともできなくて鹿野目は物わかりのいいふりをして黙っている。時々、堂嶋は自分のことをただのルームシェアしている同居人だと思っているのではないかと思うけれど、鹿野目には勿論いつだってそこに性欲があった。ないわけがなかった。昨日だって今日のことがあるからと少し早くに帰ってきた堂嶋は、お風呂から上がるとベッドに入って早々に眠ってしまった。鹿野目がその横顔をどんな気持ちで眺めているかも知らないで。
(さとりさんは、ずるい)
思いながら爪を噛む。もう他に噛むものがなくて、体の中に溜まった熱を逃がすみたいなやり方で、鹿野目はひっそりと爪を噛む。そういえば、高校の時に少しだけ関係を持っていた矢代も度々爪を噛んでいた。嫌なことを思い出してしまって、鹿野目はゆっくり立ち上がった。水でも飲もうと洗面所を出たところで、急にインターフォンが鳴って鹿野目は足を止めた。この家に来るのは亜子か宅急便くらいだったので、予測を立てるのは簡単だった。鹿野目は少し早足に廊下を歩いて、そのまま扉を開けた。
「こんにちは」
扉を開けた向こうにひどく無防備に立っていたのは、堂嶋の兄の翔だった。鹿野目は翔の顔を見て、しっかり視界におさめてからそれから何度か瞬きをしてみたけれど、翔はにこにこ笑っているだけで、鹿野目には状況を理解することはできなかった。堂嶋の実家に堂嶋に半強制的に連れていかれたのが、ついこの間のことだった。翔は堂嶋の兄であり、人当たりの良い優しい人だった、というのが鹿野目の印象だった。尤も堂嶋家の人たちは皆、ゲイである鹿野目にも優しくしてくれたけれど。
「こ・・・ん、にちは」
言いながら声がかすれるのが分かった。翔はただにこにこしていて、緊張している鹿野目にも沢山話しかけてくれて、場を和ませてくれようとしているのは、流石の鹿野目にも理解できた。そして弟をやけに溺愛していて、嫌がる堂嶋を捕まえては、何かちょっかいをかけていた。その兄がどうしてここにいるのだろう、堂嶋は部屋にはいないのに。鹿野目は考えながら、そこではじめてはっとした。
「あ、さとりさん・・・ですか。すみません、今日休日出勤でいなくて・・・」
「ふーん、そうなんだ」
「あ、すいません。どうぞ、入ってください」
それが正しいのか分からなかったが、鹿野目には珍しく慌ててまくし立てるみたいに、早口でそう言うと、扉を大きく開いて翔の通る道を作った。部屋の中には大体亜子が来た時にしか使わないスリッパがあって、鹿野目は片手でそれを素早く準備する。翔がここを訪ねてくる用事なんて、考えてみれば一つしかないに決まっていた。堂嶋に会いに来たに決まっていた。一瞬何故、翔がここにいるのか分からなかったが、理由なんて初めからそれしかない。翔はにこにこしたままありがとうと小さくお礼を言うと、鹿野目が用意したスリッパに足を通している。それにしても失敗したなと、その丸い後頭部、堂嶋とよく似たそれを見ながら、鹿野目は考えた。着ている服も完全に部屋着だったし、もう少し翔の前ではちゃんとしているところを見せて、せめて安心してもらわないとと考えながら、一方でそんなことを考えるのは無意味だと無気力な自分が囁く。
「奥、どうぞ、すみません」
「いや、ごめんね、俺こそ急に押しかけちゃって、連絡しておけばよかったなぁ」
「・・・いえ」
その後何と言えばいいのか、鹿野目には分らなかった。扉の向こうに翔が立っていて、背筋がゾッとしたことを、鹿野目は無視できないと思った。堂嶋が実家に連れて行ってくれたことは嬉しかった。堂嶋の家族が自分のことを、拒絶しないで受け入れてくれたことも、鹿野目にとっては奇跡みたいなことだと分かっている。だからこそ、もうそのままにしておいてほしかった。これからこの家族と自分の間に起こりうることが、自分にとって良くないことしか想像できないことを、鹿野目は無視できない。いつか後ろから背中をトントンと叩かれて、あんなのは全部嘘だよと笑って言われそうで怖い。そんなことを考えているなんてことを、まさか堂嶋には言えないし、目の前でにこにこ微笑んでいる翔にも勿論言えない。鹿野目はやはりいつも通り、来るかもしれないけれど来ないかもしれない未来に打ち震えて、ただ膝を抱えていることしかできない。
「すみません、ここ座ってください」
翔を部屋のソファーに案内して、翔がそこに座ったのを見て、鹿野目はまずかったなと思った。そのソファーは堂嶋をはじめてここに連れ込んだ時に、鹿野目が堂嶋を無理矢理に犯した場所だった。そこに何も知らない兄が座っているなんて言う事実を、鹿野目は視覚的に理解させられながら、自分の選択を悔やんでいた。それは鹿野目が黙っていたらこの兄は何も知らないのだから、そんなに怯える必要はないのかもしれないが、鹿野目はまるで翔にはそんなことまでも分かってしまいそうで怖かった。
「お茶出しますね」
「ありがとう」
鹿野目の頭の悪い想像をいい意味で裏切る形で、翔は鹿野目の記憶通りにこにこしていて、鹿野目の優しくて穏やかな日常を叩き壊したりはしなかった。鹿野目はキッチンに逃げ込みながら、手が震えているのにはじめて気づいた。あの時、何度も自分にこんなこと長く続かないから、堂嶋がいなくなっても一人で生きていかなければと、呪文みたいに繰り返して、自分もそれで納得しているつもりだったのに、どうして今頃こんな当然みたいなことが、自分の日常から堂嶋が奪われてしまうかもしれないということが、怖くてたまらないのだろう。こんなこと思う権利なんてないと思いながら、そんなことを無意識に考えてしまう自分に嫌気が差した。
(大丈夫、さとりさんは、いなくならないから)
こういう時は堂嶋の言葉を繰り返して、怖がる自分を慰める方法しか、鹿野目は知らない。冷蔵庫を開けて、緑茶のペットボトルを開けて、透明なグラスに注いだ。今日は少し外の日が暖かったから、冷たい飲み物のほうがいいような気がした。
「お待たせしました」
鹿野目がキッチンから出てくると翔はただそこに座っていて、さっき鹿野目の視界から外れたままの姿だった。鹿野目は震える指先のまま、ローテーブルにお茶を出した。
「ありがとう」
「・・・すみません、さとり、さんなんですけど、今日は多分、帰りがかなり遅くなりそうなんですが」
「そうなんだ、休日なのにさとりも大変だね」
言いながら翔はお茶を一口飲んで、鹿野目はそれを見ながら、ちゃんと会話ができていると頭の中で繰り返して思う。鹿野目にとってはただのこんな世間話でさえも、うまくできないことはこれまで何度もあったし、それが堂嶋の兄ならうまくいかなくて当然と思っている自分もいる。これは逃げだろうか。それとも他の名前を付けてもいいだろうか。その行為自体が逃げのような気もするけれど。
「さとりさんが帰ってくるの、待たれますか?」
「・・・んー、何その質問。俺に帰ってほしいみたい」
翔はあははと笑いながら、そう言ってもう一度グラスに口をつけた。
「すいません、あの、別にそういうつもりじゃ・・・」
「分かってるよ、うそうそ」
にこにこ笑った顔のまま、翔は楽しそうにそう言うとソファーに深く凭れて、慌てた鹿野目がテーブルに乗り出しかけた体を元の位置に戻すのを黙って見ていた。ふっと会話が途切れて、部屋の中が静かになった時、洗濯機から作業がすべて終わったことを知らせるピーピーという高い電子音が響いて、鹿野目ははっとして思わず洗面所があるほうを振り替えて見てしまった。
「鹿野目くん、今の何の音?」
「あ、洗濯が終わった音です、すいません」
「・・・君さっきから何でも謝るねぇ、謝んなくていいよ。洗濯してたの?」
「あ、すいません、あ」
「はは」
翔がまた笑ってその体を揺らした。翔は堂嶋とは違って恵まれた体躯をしていたし、輪郭や体のつくりもどことなくシャープな印象のする男だったけれど、その顔のつくりだったり所作だったりはどことなく堂嶋を思わせるところもあって、なんとなくふたりが同じ環境で生きてきたことを、鹿野目はゆっくり悟ることになる。もしかしたら自分と亜子だって堂嶋の目にはそんな風に見えているのかもしれないが、妹とは似ていない自覚のある鹿野目はそれを堂嶋から指摘されたことはなかった。
「ふーん、洗濯は鹿野目くんがしてるんだぁ」
「あ、はい。まぁ、俺のほうが仕事も忙しくない、ので。さとりさんは管理職でいつも帰りが遅くて」
「へー、大変だなぁ、さとりもそんな無理して仕事する必要なんてないのにな」
何でもないことのように翔がそう言って、鹿野目はふと実家で堂嶋が言っていたことを思い出した。いずれ自分は実家を兄とともに継ぐことになるから、事務所はいつか辞めるだろうと、堂嶋は何でもないことのように言っていたけれど、事務所からの通勤の便のみを考えて鹿野目が借りたこのマンションから、堂嶋が1時間以上かかる自分の実家に通うことはおそらくないだろうし、だからこそきっと堂嶋は「離れても大丈夫だよ」と鹿野目に囁いたのだろう、そんなことは分かっている。でも鹿野目は黙っていたけれど、一緒に住んでいてもこんなに満たされていないのに、「離れても大丈夫」だなんてとてもではないが思えなかった。思えなかったけれど、それを堂嶋相手に言うこともできなかった。堂嶋がどんな反応をするのか、鹿野目は多分少しだけ分かっていたからだ。
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