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第30話

パティスリーの前には行列ができていた。そこにひとりで並んでいると、確かに周りのお客さんは女性ばかりで、そういうことを恥ずかしいと堂嶋が思うことも、別段不思議なことではないような気がした。鹿野目はコートのポケットから文庫本を取り出して、それを熱心に読んでいるふりをした。休日の穏やかな、春になりかけの風がさぁっと頭の上を過ぎていって、鹿野目は少しだけ視線を上げる。 「鹿野くん」 着ていたコートが後ろから引っ張られて、振り返るとそこに堂嶋が立っていた。持っていた文庫本をぱたんと閉じて、それをコートのポケットに直す。堂嶋はここまで走ってきたのか、少しだけ息が切れていて、暑そうにマフラーを首から外した。 「お疲れ様です、さとりさん」 「ごめんね、遅れて。事務所出る時に柴さんに捕まっちゃってさぁ」 言いながら堂嶋は眉尻を下げて笑った。堂嶋がケーキ会に出向いた時、少し拗ねたように抗議をすると、行きたいところがあるなら行こうと堂嶋が言ってくれたことを、鹿野目はよく覚えていた。それでなにもない週末に、堂嶋がそのケーキ会で藤本たちと行ったというパティスリーに行きたいと鹿野目が言うと、堂嶋は目を丸くして驚いたようにしていた。 「でも鹿野くん、よかったのここで」 「はい、俺も来てみたかったので」 「ほんとに?だって君は甘いもの好きじゃないだろう?」 言いながら、なぜか堂嶋はおかしそうに笑った。けれど何にもないはずの週末は、堂嶋が休日出勤をしなければならないことが、その週の頭にはもう鬼上司柴田の采配により決まってしまった。延期しようかとふたりで話もしたけれど、堂嶋の仕事が昼にはどうも終わりそうな目途がついていたので、それなら昼から一緒に行こうということになっていた。結局予定していた時刻に堂嶋は事務所を出ることができず、鹿野目はひとりで女性客ばかりのパティスリーの列に並ぶ羽目になったのだが。 「でも、さとりさんが好きなものを、俺も理解したいので」 「・・・ふーん」 「好きなものは共有できたほうがいいでしょう」 そういうところは鹿野目らしいと思う。堂嶋は目を細めて、鹿野目を見上げながら思った。 「じゃあ今度は鹿野くんの趣味に付き合うよ、何しようか」 「・・・ジョギング・・・」 「あ、それは俺できない」 言いながらまた堂嶋はおかしそうに笑って、列が進むのに合わせて少しだけ前に進む。ひとりでパティスリーの列に並んでいる時は、居心地が悪くて仕方がなかったけれど、ふたりでいると幾らかはマシに思えた。もっとも、傍目から見ると男二人でパティスリーに並んでいることも異様かもしれないが。お客は大体女性で、男もいないこともないが、そのうちの大半がカップルだった。客層を観察しながら、堂嶋の側で無防備に揺れている白い手を握りたいなとふと鹿野目は思った。目の前のカップルが仲睦まじく肩を寄せ合って、手を握り合って楽しそうに話をしていたからかもしれない。 「あ、そうだ、この間母さんから電話がかかってきたよ」 「・・・はぁ」 実家には行くには行ったし、堂嶋家の皆は温かく鹿野目を迎い入れてくれはしたものの、まだその話をされるのは鹿野目にとっては後ろめたいことも多かったし、心臓の裏がひやっとして落ち着かなかった。考えながら自分の口から気のない相槌が漏れたことに、少しだけ申し訳なく思う。ただ堂嶋の表情は変わりなく、そんな鹿野目の様子は気になってはいないようだった。 「またおいでだって」 「・・・また」 「鹿野くん、朝ごはんの片づけ手伝ったんだって?」 「え?・・・あぁ、ちょっと洗い物手伝っただけですけど」 堂嶋と兄の翔がなんだったか朝どこかに行ってしまって、ひとりで座っているのに耐えられなくなったので、鹿野目にとっては何か動いていたほうが、気が紛れると思っただけのことだったが。そもそも堂嶋があそこで鹿野目をひとりにしなければいいだけの話なのだが、堂嶋は鹿野目がガチガチに緊張しているのを知っているくせに、そういう気の回し方はなぜかしてくれなかった。 「母さん喜んでたよ、俺も翔くんもそういうこと一度もしたことないからさ」 「・・・あぁ」 そういうところはもしかしたら堂嶋が『お坊ちゃん』と揶揄して言われるようなことの一部なのかなと、鹿野目は鹿野目なりに少し憶測を働かせて思った。堂嶋も家事を少しはしてみようという気だけはあるのだけれど、いかんせん何をやらしてもうまく仕上がった試しがなかった。たぶん、堂嶋はそんなことをしなくても今まで十分生きてこられたのだろう。だからそういう技術が備わっていないのだ。 「ね、また帰ろうよ。もう一回行ったから大丈夫でしょ?」 「・・・はい、まぁ・・・」 堂嶋は振り返って、曖昧な返事をする鹿野目を見ながらはははと笑った。堂嶋は自分が困っているのが分かっていて、そういうことを提案してきているのだろうということは、鹿野目にも分かったけれど、堂嶋がそんな風に笑うから、鹿野目にはもう反論のしようがなかった。 「お次のお客様ご案内いたします、何名様ですか?」 「あ、ふたりで」 「かしこまりました、奥のお席どうぞ」 いつの間にか列の先頭になっていた。堂嶋が赤い髪の店員に案内されて奥の席に迷いなく進むのに、ぼんやりしながら鹿野目は後を追いかける。奥の席は窓際で、窓から外の穏やかな光が沢山入ってきて、屋内なのに外にいるみたいに明るかった。もうすぐ春が来る。鹿野目が真中に無理を言って頼んで、堂嶋の班に移してもらってから、もう一年が経とうとしている。 「鹿野くん、なに頼む?」 はっとして正面を見ると、堂嶋はメニューを開いてにこにこと笑っていた。あの時、確かに見ているだけでいいと思った堂嶋は、なぜか休日に女性客ばかりのパティスリーで鹿野目と向かい合って、鹿野目の反応を確かめるように面白がるように、にこにこと笑っている。 「ここ、アップルパイがお勧めなんだって、志麻ちゃんが言ってた」 「じゃあ、俺はそれで」 「そう?俺はそうだなぁ、季節のフルーツタルトにしようかなぁ・・・」 「・・・―――」 堂嶋は目を伏せて、メニューを真剣に見ながら、あぁでもないこうでもないとひとりで呟いている。鹿野目はそれを見ながら、少しだけ目を細めた。 まぶしい季節はもうすぐ。 Fin.

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