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第29話
「どうだった、お兄さんの実家」
「・・・いいひとだった。皆。俺にも優しくしてくれた。そういう形で受け入れられるなんて思ってなかったから、怖かったけど、嬉しかったよ」
「ふーん・・・よかったな」
そんな風に穏やかな顔をする鹿野目のことを、牧瀬はしばらく見ていないような気がした。亜子が泣きそうな声で「堂嶋さんはお兄ちゃんの特別なのよ」と時々漏らすのを、牧瀬は側で聞きながら堂嶋と相対するまでは、特別とは一体なんだと思っていた。たったひとりの妹で、もはや鹿野目にとってはたったひとりの家族である亜子だって鹿野目の特別だし、鹿野目の人生の中でひとりしかいない友達の自分も特別なはずだった。それを差し置いて、急に出てきた素性のよく分からない男の一体何が特別なのか、牧瀬は鹿野目の特別のひとりとして、多分それをずっと心配していたのだと、その時改めて思った。またどうせ傷つくに決まっていた。恋をすればいつも傷ついていたのが鹿野目だったから。どうせ傷つくのだから、弱った時を見計らってまた慰めに行けばと、なぜかいつも以上に必死になる亜子に向かって助言をしたつもりだったが、亜子のほうが何故かひどく焦った顔をして、「堂嶋さんはお兄ちゃんの特別なのよ」と確かその時も呟いていたように思う。そしてことの顛末がこれで、牧瀬は自分がそれに納得しているのだと思った。亜子が認めているのと同じように。
「まぁ、せいぜい幸せにしてもらえよ」
「何なんだ、その言い方」
「あはは」
言いながら肩を叩くと鹿野目は眉間にしわを寄せて、しかめっ面をしたのでなんとなく面白くなって、牧瀬は声を上げて笑った。
「亜子のことは俺に任せとけ!」
「・・・お前ら本当に付き合ってるのか」
「疑いすぎだっつーの。そのうち付き合うから、まぁ待ってろって」
「ということは、今は付き合ってないのか」
「揚げ足を取るな、今は準備中なんだよ。そのうちびしっと付き合って、ちゃんと責任とって結婚するから!」
「お前、ほんとにそれ、ずっと言ってるよな。ある意味一途なんだな」
「ある意味ってなんだ、一途だろうが」
心外そうな顔を浮かべても鹿野目にはあまり効果がなくて、星のない空に向かって煙を吐き出されただけだった。高校くらいからずっと、遊びの延長みたいに繰り返した言葉は、今でも少しも現実味を帯びていなくて、その元凶を鹿野目が握っているのに、自分も亜子もそれをひとつも本人には言えないなんて馬鹿みたいだと思ったけれど、もしかしたら鹿野目だって少しくらいは、亜子のそのひた隠しにした気持ちに気付いていたりするのだろうかと、牧瀬は度々思うことがあった。鹿野目に直接確かめたことはないけれど。分かっていて黙っているなんて、鹿野目らしくないと思いながら、牧瀬はそれを口には出せない。
「結婚式にはお前とお兄さんも呼んでやるからな」
「俺が出席したら両親はきっと出ないから、そんなの亜子が可哀想だ。両親を呼んでやれよ、ちゃんと」
「・・・あ、そう」
ほとんど冗談みたいなそれに、馬鹿正直にそうやって答える鹿野目のほうがずっと可哀想な気がしたけれど、牧瀬はそれになんと言えばいいのか分からなくて、曖昧な言葉が口から洩れる。堂嶋の家族が鹿野目を拒絶しないで受け入れてくれたことについては、堂嶋がどんなふうに手を回したか分からないが、それにしても奇跡みたいなことだったのだろうと思う。だけど一方で、そうやって受け入れてもらえる家族があることを知った鹿野目はどうだったのだろう。受け入れられなかった過去の自分も、自分の家族も、一層恨んだり憎んだりすることになるのではないかと、牧瀬は思ったけれど、鹿野目は自分の家族に罪悪感こそ抱いていても、受け入れられなかったことに対する恨みや憎しみなんてひとつも滲ませたことがない。そういうことを考えてもよさそうなものなのに、そういうことを考える回路が鹿野目にないことを、牧瀬は何となく不憫に思ったりしてしまう。
「じゃあお前らのために披露宴を余分でやろう。亜子もいっぱいドレスが着られて嬉しいだろうし」
「・・・それなら別にいいけど」
「亜子もお前に晴れ姿を見てもらいたいよ、きっと」
笑うと鹿野目はふっと黙って、牧瀬から視線を反らした。見てもらいたいのは多分、自分のほうだと牧瀬はその横顔を見ながら思った。兄のことをまるで意地みたいに好きでいる亜子を、邪険にしながら多分どこかで鹿野目は自分を裏切らない存在として甘えているのだろうと思う。それがいずれ誰かのものになる瞬間を見せたいなんて、残酷かもしれないけれど、それこそが牧瀬がこのきょうだいの側に居続けて、不用意に傷つけられ続けた代償なのだと言ったら多分、鹿野目はそれに簡単に頷いたりするのだろう。鹿野目はそういう男だった。可哀想なくらい不器用で、可哀想なくらい率直な男だった。
「男と女はいいよな、結婚なんかできて」
「・・・お前らもしたらいいじゃん」
「馬鹿か。できたらしてる」
「・・・できたらしてるんだ・・・」
これは一応冗談の類だと分かるんだなと思いながら、牧瀬は鹿野目の横顔を見ていた。堂嶋が聞いたら卒倒しそうな話だなと思いつつ、またそれであの面白いひとをからかって遊ぶのも楽しそうだと思って、笑いそうになった奥歯を噛んだ。
「俺はいいよ、今のままで。さとりさんが側に居てくれたら、それだけで十分だし」
「珍しく前向きだな、旬」
「だろ?自分でもびっくりしてる。さとりさんのおかげだな」
「・・・うーん、信者感増してんな・・・」
「しんじゃ?」
首を傾げる鹿野目に、笑って何でもないと手を振った。多分心配するなと言われても、今までのことがあるから結局勝手に心配してしまうに決まっているし、鹿野目に別の特別ができたからって、自分も亜子も特別でなくなるわけがないと牧瀬はちゃんと分かっていた。亜子は二者択一みたいに、堂嶋が特別なのだったら自分はもういらないのかもしれないと青い顔をして怯えていたりしているのだが。それを慰めるのは今度は自分の仕事で、鹿野目は知らなくていいことだ。鹿野目のことは亜子が慰めて、亜子のことは自分が慰めて、自分は一体誰に慰められればいいのだろうと、それこそ牧瀬だって考えないことはないのだけれど。
「つーか、もう中戻らねぇ?さみいわ、外は」
「お前が煙草を吸いたいって・・・あ、煙草は吸わないから・・・」
「もういいわそれ、話終わったし中戻ろうぜ」
言いながら牧瀬はガラスの扉に手をかけてそれを引こうとしたが、それが全く動かなくて一旦手を放す。部屋の中を見ると、音が聞こえたのか、奥のダイニングテーブルに座っている堂嶋が、こちらを向いてにやにや笑っていた。きっと堂嶋が閉めた時に内鍵をかけたのだ。
「ちょ、お兄さん!亜子でもいい!開けろ!寒い!」
「・・・さとりさん笑ってる」
「お前も助けを呼べ!凍死するぞ!」
「しないだろ、この気温じゃ」
「冷静な返しやめろ!俺はお前より体が薄っぺらいから寒いの苦手なんだよ!」
ガラスの扉を眉尻を下げた情けない顔をして牧瀬がどんどんと叩くのを見ながら、暖かい部屋の中で堂嶋は可笑しそうに声を上げて笑っている。それをずっと仏頂面で眺めていた亜子も、不意に吹き出して、ふたりして体を折り曲げるようにして大笑いしている。そう言えば、そんな顔を見るのは久しぶりだったなと、牧瀬は思って、にやけた顔を隠すみたいにまたガラスを叩いた。
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