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ありえない告白
「ボクのバッグどこ⁈」
円は裸のままガバッと起き上がり、辺りを見回した。
見たことのない場所だ。
壁にかかっている時計は朝6時をさしている。
天井には白い電球がついたダウンライトに、黄ばんだエアコン。
壁にはスポーツ選手のポスターに、マンガがたくさん入った本棚。
床には黒一色の絨毯が敷かれていて、その上には物が乱雑に置かれたローテーブルが鎮座している。
その他には30インチのテレビ、使い古した座椅子、少し離れた場所には狭い2口キッチンが見える。
──ここ、どこ?
「あ、あの、富永さんのバッグ…ここです。」
聞き覚えのある声がして、それに反応するように振り返ると、すまなさそうな顔をした大木がバッグを差し出した。
「ああ…ありがとう。」
円はバッグを受け取ると、その中をガサゴソ漁ってピルケースを出した。
「ごめん、水ある?薬飲みたいんだけど…」
「あ…そうですね、すぐ持ってきます。」
大木は床に落ちていた服を着込むと、あわてた様子でキッチンに向かった。
よく見ると、脱ぎ散らかした服があちこちに散らばっている。
円はその中から自分の服を探し出し、大木に倣うようにして服を着込んだ。
「ど、どうぞ…」
大木が水の入ったグラスを持ってきてくれた。
グラスを受け取って避妊薬を流し込むと、グラスを返して、もう一度辺りを見回した。
どこかのワンルームマンションのようだ。
スポーツ選手のポスターや本棚いっぱいの少年マンガ、アニメフィギュアなんかが置いてあるせいか、子ども部屋のような雰囲気を醸し出している。
「ここは?」
「あ…俺の部屋です…」
グラスを元の位置に戻した大木が、しどろもどろに言葉を紡いだ。
「ねえ、昨夜は何があったの?」
話を聞いてみると、大木は発情が抑えられなくなった円をどうすればいいのかわからず、やむなく自宅まで円を引きずって行ったらしい。
そういうときは普通、病院に連れて行くか119に連絡するかだろう。
しかし、フェロモンにあてられた頭では正常な判断などできるわけもない。
言動でいったら、円の方が酷かった。
その場で暴行されてもおかしくないところ、なんとか理性を保って部屋まで連れて行くのは相当な難儀であったはずだ。
むしろ、大木に感謝してもいいだろう。
「すみません、富永さん。俺…富永さんがオメガだって知らなくて……あの…」
うつむいた大木の顔は青ざめていた。
無理もない、いくらフェロモンに酔っていたとはいえ、強姦は犯罪だ。
円が告発すれば、大木はただではすまないだろう。
「大丈夫だよ。どこにも誰にも言わないから」
「え?」
大木が顔を上げた。
「抑制剤を飲まなかったボクにも非はあるし、何より、避妊薬ちゃんと飲んだから、問題ないよ。ていうか、君、アルファだったんだね」
「ええ、まあ…」
大木がおずおずと相槌を打つ。
「ボク、帰るね」
円は床に落ちていたマスクとメガネを拾って装着し、バッグを肩にかけた。
いつまでもここにいても仕方ないし、しばらくすれば避妊薬の副作用で気分が悪くなるのは明確だ。
さっさと家に帰って、ゆっくり休みたかった。
「あ、あの、すみません!よかったら…朝ごはん、食べていきませんか?」
「え?」
突然の申し出に、円はぐるんっと勢いよく大木の方へ向き直った。
「あー…嫌ですか?」
おそらく、せめてもの罪滅ぼしのような気持ちでこんなことを言い出したのだろう。
「嫌じゃないよ。うん…じゃあ、もらっていい?」
食費が浮くし、このまま親切を蹴って帰るのも後味が悪いから、お言葉に甘えることにした。
大木は事後とは思えないくらいに身軽な動作でトースト、ヨーグルト、コーヒー、ハム、サラダを出してくれて、事あるごとにアレルギーはないか、嫌いなものはないか、おかわりはいるかなどと尋ねてきた。
「じゃあ、もう帰るね。」
出してくれたものを全て食べ終えると、円は身支度を始めた。
「富永さん、あの…」
「なに?」
この期に及んで、まだ何か用があるのか。
あるとしたら一体何なのだろう。
「こんなタイミングでこんなこと言うの、本当にどうかと思うんですけど…」
「うん?だから?なに?」
円の体にはまだ、事後の気怠さが残っていた。
そのせいで眠いから、つい詰め寄るような口調になってしまう。
用があるなら早く言って欲しい。
大木はそんな円に気を悪くした素振りも見せず、真剣な眼差しでこちらを見据えて言った。
「好きです、付き合ってください」
「え?なに?」
驚いたのではなく、何を言われたのかもう一度確認するために発した言葉だった。
「以前からずっと、好きでした。付き合ってください!」
大木はさっきよりもはきはきと、大きな声を出してまっすぐ円を見つめた。
その目つきから、単なる冷やかしではないことが嫌でもわかる。
しかし、今は眠いし、これから襲ってくるであろう避妊薬の副作用を考えると、大木の気持ちに応えるどころではない。
「……ちょっと考えさせて」
そう言って大木に背を向けると、円は上がり框に腰かけて、狭い靴置き場に放ってあった自分のスニーカーを足にはめた。
「じゃあね」
円は大木に一瞥もせず別れの挨拶を告げると、ドアノブに手をかけた。
ドアを開けた途端、オレンジ色の強い朝日が目を刺してくる。
それをうっとおしく感じつつ、円はフラフラ歩きながら家路を急いだ。
首周りがスースーして涼しい。
外出時や仕事中はずっとスカーフやタオルを首に巻いていたから、こんな感覚は久しぶりだ。
スカーフは千切られて紛失してしまったし、拘束具が見える状態のまま歩くのは抵抗があった。
「自分はオメガである」と宣言しながら歩くようなものだ。
そんなの冗談じゃない。
出すものを出したばかりだから、次の発情期はまだ先だろうし、家に帰るまではずしていても問題ないと考えて、円は首を晒したままにした。
恋焦がれてきた相手の小さな背中を見送ると、大木はその場にへたり込んだ。
「まいったなあ…」
人生、思い通りにはいかないし、思わぬ落とし穴にハマることもある。
大学を卒業し、就職して2ヶ月で会社が潰れてしまうことなど誰が考えるだろう。
その旨を父に伝えたところ、その父の口利きで、縁故採用にも近い形で別業種の会社に勤めることになった。
「アルファだってこと、周りの人には言わないようにしとけ。自分の力で出世しても、アイツはアルファだから優遇されてるんだとか、変なやっかみに遭うかもしれないから」
入社前、父にそう釘を刺された。
通常、アルファは両親もしくは親のどちらかがアルファというケースがほとんどなのに対して、大木はベータの夫婦から突然変異的に生まれたアルファだった。
教育熱心な母の努力の甲斐もあって、3歳で読み書きや九九をマスターし、スポーツにおいても他の子より遥かに抜きん出た実力をみせていたし、15歳のときにアルファであるとの診断が出たとき、周囲は満場一致で「そうだと思った」と告げた。
周りは大木がアルファだと知るや、これでもかというほど持て囃したが、母は違った。
「いい?アンタは人よりできることがたくさんあるわ。でも、たまたまそう生まれついただけなの。できない人をバカにしたり、自分は特別なんだって勘違いするなんて、1番やってはいけないことよ。アルファであることを誇ったり、心の支えにするような人には、絶対になったらダメ」
「わかったよ、母さん」
そもそも、自分がここまでできたのは母の教育の賜物だ。
両親ともに普通の会社員で、家計に余裕があるわけではないのに、本や参考書なんかの教材を惜しみなく買い与えた父にも感謝すべきだと、大木は思っている。
2人の努力のおかげで、高校も大学も日本有数の難関校に入れた。
更には、父は知り合いの会社に自分を紹介して、仕事先の面倒まで見てくれたのだ。
そうなれば、その恩に報いるため、できることをとことんやるだけだ。
新しい職場に対して不安はあったものの、存外やりやすい職場だったし、周りの人はすぐに自分を気に入ってくれた。
大木も職場の人のことが大好きになったし、中でも教育係の富永円には、職場の先輩としてもアルファとしても惹かれるものがあった。
円は大木の6つ歳上の先輩で、常に大きな黒縁メガネとマスクをつけ、首にはタオルを巻いている。
説明は丁寧でわかりやすく、仕事もできるから、周囲からの評価も高い。
先輩の小市さんは彼を陰気だとか無愛想だとか言って苦手意識を感じているようだが、大木はそこにミステリアスでアンニュイな魅力を感じた。
少なくとも、媚びるような態度を取る女性社員や、オメガの軽井沢よりは好感が持てる。
小市さん曰く、彼が首にタオルを巻いているのは、首を痛めないようにするためのサポーター代わりだそうだ。
マスクをしている理由は小市さんも知らないらしい。
──どんな顔してるんだろう?
大木は10代の頃から、マスクをした人に惹かれる傾向があった。
顔の大半が隠れている人は、みんな美しく見えた。
マスクの下にどんな顔が隠れているのか、なぜマスクをしているのか、それを知りたいという好奇心が湧いてくるのだ。
それこそ、食事時にマスクをはずしたときに露わになった円の顔は、今まで会った人の中で一番美しかった。
ふっくらした唇、細い鼻梁、シミひとつないすべすべした頬。
あまりに美しかったから、ついほーっと見つめてしまった。
「ねえ、ボクの顔になんかついてる?」
見つめ過ぎて、少し機嫌を損ねてしまったらしい。
顔にコンプレックスを感じている人は、マスクをして顔を隠す傾向があるようだが、あれほど美しい顔で何を気にすることがあるのだろう。
「いえ…その、キレイな顔されてるなーって。その、なんでマスクしてるんですか?」
疑問に思って聞こうとすると、世話焼きな女性社員たちに会話を遮られてしまって、結局のところ、マスクをしている理由はわからずじまいだった。
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