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アルファの懊悩、オメガの苦悩
「あ、あの、富永さんのバッグ…ここです」
「ああ…ありがとう」
大木が円のバッグを拾い上げて差し出すと、それを受け取った円は軽く礼を言って、中をゴソゴソ漁り出した。
円がバッグから取り出したのは、かなり傷んだピルケースだった。
円が薬を飲むために水が欲しいと言ってきたので、大木は急いで服を着込むと、キッチンに置いてあったグラスに水を入れた。
その間、円は部屋中を見回して自分の服を見つけ出すと、大木と同じように服を着込んだ。
「ど…どうぞ」
水の入ったグラスを渡すと、円がピルケースから取り出した薬と一緒に水を飲み干す。
喉が渇いていたのか、グラスの水が減るのが異様に早い。
円は空のグラスを返すと、ここはどこか、昨夜は何があったのか、と尋ねてきた。
大木は昨夜から今に至るまでの一部始終を包み隠さず話した。
背中に歯形や赤い跡をつけられているのに、「何もなかった」と言っても通用しないだろうし、ここは正直に話した方がいいだろう。
問題はその後だ。
「すみません、富永さん。俺…富永さんがオメガだって知らなくて……あの…」
大木は今後の自分を想像して、声を震わせた。
この事態が発覚すれば、刑務所行きは免れないだろう。
強姦は重罪だ。
しかし意外にも円は、どこにも誰にも言わない、抑制剤を飲まなかった自分も悪い、と言ってきた。
怒鳴られるだとか、通報されるだとか考えていただけに、肩透かしを食らった気分だった。
円は大木を少しも咎めることなく、「ボク、帰るね」と言って、さっさと身支度を始めた。
「あ、あの、すみません!よかったら…朝ごはん、食べていきませんか?」
「え?」
円はあからさまに驚いた様子で大木を見た。
当たり前だ。
自分が暴行した相手を食事に誘うなんて、誰の目から見てもおかしい。
大木自身、どうしてこんなことを言ってしまったのか、自分で自分が理解できなかった。
「あー…嫌ですか?」
大木の言葉に円は怪訝な顔をしたが、しばらく黙り込んだ後で結局は了承してくれた。
「嫌に決まってるだろ」と返答されることを考えていたので、これまた意外だった。
円に座椅子に座ってもらうと、大木は冷蔵庫や食器棚を忙しなく開け閉めし、出せる限りのものを出した。
ローテーブルに隙間なく食器とカトラリーを並べていき、「どうぞ」と促すと、円が両手をぴったり合わせる。
「いただきます」
こんな状況でも行儀作法を崩さず、しっかり食前の挨拶をするあたり、結構にしつけの行き届いた家庭で育ったのではないか。
食べ方だってキレイだし、食べ終わった後もしっかり「ごちそうさま」と告げた。
どこか品の良い円の姿に、大木はますます円のことを知りたくなった。
何人家族なのか、兄弟姉妹はいるのか、いるとするならどんな人なのか、休みの日は何をしているのか、好きな食べ物は、好きな色は。
あと、好きな人はいるのか…
いろいろ聞こうとしたが、円は大木が出した朝食を全てたいらげてしまうと、手早く帰り支度を始めた。
「富永さん、あの…」
まだここにいて欲しい気持ちがあって、大木は思わず円を呼び止めた。
「なに?」
円が不機嫌そうに顔を歪める。
──ああ、どうしよう
「こんなタイミングでこんなこと言うの、本当にどうかと思うんですけど…」
──えっと、何て言えばいいんだろう。
えっと、えっと……
「うん?だから?なに?」
円の語気が強くなる。
「好きです、付き合ってください」
「え?なに?」
確認するような語調で、円が詰め寄ってきた。
「以前からずっと、好きでした。付き合ってください!」
こうなったらヤケだと言わんばかりに、まっすぐ円を見つめて、大きな声で再度告白してみせた。
「……ちょっと考えさせて」
そう言って円がドアを開けると朝日が差し込んできて、玄関の土間を照らした。
そして、ドアがパタンと閉まると同時に、玄関はシーンと静まりかえって、いつもの薄暗さを取り戻した。
「まいったなあ……」
休み明け、どんな顔をして彼の顔を見ればいいのだろう。
大木はその場にへたり込んだまま文字通り頭を抱えて、ガシガシ掻きむしった。
6畳の狭い部屋の中、円はくたびれた布団にくるまって避妊薬の副作用に耐えていた。
──ああ、吐き気がする。
気持ち悪い、起きたくない。
それと、告白の返答をどうするか迷っていた。
いろいろ考えてはみたが、吐き気やめまいで頭が上手く回らないこともあって、いい答えは浮かばない。
大木の告白を断れば、これから会社で顔を合わせたときに気まずくなる。
真面目な彼のことだ、一度思い悩めば、落ちるところまで落ち込んでしまうだろう。
色恋沙汰に対する不安や悲しみがそのまま仕事に影響して、大木に何かあれば円の責任になる可能性もある。
そのはずみで自分がオメガだとバレてしまうことも考えられた。
「はい」と答えて彼と付き合うとなれば、ゆくゆくは番になるか結婚するかの話に発展するかもしれない。
結婚に対してあまり良いイメージがない円にとって、それが一番避けるべき難儀だった。
──結婚なんか絶対したくない、番も欲しくない
『でも、番を持てば発情期が来なくなるし、楽になれるよ?それに、番になったからといって結婚しなきゃいけないわけじゃないし』
母の声が聞こえた気がした。
──それで、あの人たちみたいになったらどうするわけ?
アンタたち、どれだけ揉めたか忘れたの?
『でも、いつまでもそのままではいられないでしょう?診察料や抑制剤を買うお金を惜しんで、マッチングアプリに頼る必要も無くなるよ?』
──ボクはアルファに依存するような生き方はごめんだよ
そうなったら待ってるのは性奴隷扱いか借り腹扱いじゃないか
『依存なんてしてないよ。現に、私はちゃんと自力で生きてるし』
──元は父さんの金でね
『それの何が問題?父さんのお金と私の努力があって、それでお前も私も今まで生きてこれたんだよ?』
──死んだ人もいるよね?
円は布団の中でゲホゲホと咳き込んだ。
部屋のところどころに汚れが溜まっているし、空気も埃っぽいから喉をやられてしまっているのだ。
今日は一日がかりで洗濯と部屋の掃除をするつもりでいたのに、予定が大幅に狂ってしまった。
外は日が燦々と照っていて、絶好の洗濯日和だが、今の円にはそれが邪魔にしか感じられなかった。
カーテンの隙間から漏れ出す日の光が、ただただ目に痛い。
避妊薬の副作用に悩まされるのはこれが初めてではない。
マッチングアプリで会う約束をした人の大半は親切だが、中には横着して避妊具を使わずに胎内で射精した者もいた。
最初に使った日のことなど、思い出したくもない。
──大木くんと番になれば、こんな思いしなくて済むのかな?
ふと、そんな考えがよぎる。
確かに発情期は来なくなるし、そうなれば乱暴される心配も無いから避妊薬も必要ないだろう。
しかし、番になった後でわけのわからないトラブルに巻き込まれる可能性もある。
あのときだって大変だったのだ。
数年前のケミーちゃんと知智さんとの会話を思い出した。
まだ軽井沢も大木もいなかった頃の、何気ない昼食中の会話だ。
そのときは、ずっと前に流行ったドラマの話をしていた。
アルファの男とオメガの女の身分違いの恋を描いた、よくあるラブストーリーだった。
「私もオメガだったらよかったのになあ。運命の番とか、すごーくロマンチック!」
言いながらケミーちゃんが弁当袋を開いた。
いかにも若い女性が使うような、フリル付きのピンクの弁当袋だ。
「ケミーちゃん、あんなのおとぎ話だよ」
円は値引きシールが貼られたパンをかじった。
「それはそうですけどお、いいじゃないですか夢ぐらい見ても。シンデレラとか白雪姫みたいな恋ってステキじゃないですか?口に出すだけならタダだし。いただきまーす!」
ケミーちゃんが食前の挨拶をして、ウサギの絵がプリントされた箸箱から箸を取り出す。
「現実は厳しいもんよ。3ヶ月に1回は動けなくなるし、それを薬でどうにかしようとすると、副作用やアレルギーに悩まされる人もいるみたいだし。私はまっぴらだわ。ベータとして平凡に生きてる方が幸せよ」
知智さんがトレーの上に置かれたカレーをスプーンですくった。
この場合、知智さんの言うことの方が正しいだろう。
シンデレラや白雪姫はハッピーエンドの典型として今日まで語り継がれているけれど、結婚した後はどうだったか、わかったものではない。
王子様が浮気したかもしれないし、世継ぎを産めとうるさく言われたかもしれない。
そもそも、シンデレラや白雪姫が不美人だったり、自分よりずっと歳上だったら、王子様は見向きもしなかったのではないか。
「平凡に生きてる方が幸せ」という知智さんの言葉は、円の心に深くつき刺さった。
──ボクもベータなら良かったのに…
どこにも届かない願いを胸にしまい込んで、円は目を閉じた。
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