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昇進が決まって
「知成くん…」
円は自分の目の前まで近づいてきた大木を見上げた。
──改めて見ても、やっぱり大きいなあ
「円さん、体は大丈夫なんですか?あの…きのうは、逃げだしたりしてすみません…」
急に神妙な顔になって、大木は昨日の失態を謝罪した。
「別にいいんだよ。体には何の異常も無いし」
「ホントですか?無理しないでください。あの、俺…」
「大丈夫だから!ほら、仕事に戻ろう。納期ギリギリなんだから」
大木の言葉を遮るようにして、円は持ち場に向かった。
大木はまだ何か言いたそうにしていたが、それを半ば無視するような形で、円は早歩きして持ち場に向かった。
「お待たせしました」
持ち場に戻ると、日並さんや知智さん、小市さんやケミーちゃんもこっちを向いた。
「おかえり、トミーくん。人事部の部長から先に聞いてたんだけど、昇進決まったのよね?」
知智さんが作業の手を止めて、話しかけてきた。
「正確には本社への異動です」
「えー、同じじゃないですかあ。センパイすごーい」
ケミーちゃんも寄ってきた。
「私も一度本社に異動してから係長になったわけだしね。富永くん、仕事できるし、すぐに出世するよ。ぼく、追い抜かされちゃうかもなあ」
日並さんが苦笑いしながら頭を掻く。
この会社では、各地にある支社で何年か経験を積んでから本社に異動し、そこでまた何年か経験積んだ後、元の支社での地位を上げて行く、というのが決まった出世コースなのだ。
「いやー、まだまだですよ。日並さん、部長になるし、知智さんは係長になるんでしょ?」
「ええ、そうよ。頑張った甲斐あったわ」
知智さんが首をひねり回して、軽くのびをした。
「うーん、まあ…家のローンと息子の学費も要るから…昇進せざるを得ないってカンジなんだよね…カミさんも頑張ってくれてるだけに、昇進しないと示しがつかないんだよ」
日並さんが苦笑いしてため息を吐く。
「3人とも、おめでとうございます。俺も頑張りますね!」
大木が元気よく、祝いの言葉をかけた。
さっきまでの神妙さはどこへやら、すっかりいつもの明るい調子を取り戻していた。
「ねえ、昇進が嬉しいのはわかりますけど、もう仕事始めましょ。納期急いでるんですから」
小市さんが遠くから呼びかけてきた。
「ああ、いけない、そうだね。みんな仕事始めよう!」
日並さんの指示を受けて、全員がそれぞれの持ち場に戻った。
昼休みになり、いつものように知智さんとケミーちゃん、大木と円の4人で食事を摂ろうとしたところを、知智さんに呼び止められた。
「2人とも、先に行ってて。トミーくんと話したいことがあるの」
「わかりましたあ」
「先に食堂行きますね」
知智さんの頼みに従って、大木とケミーちゃんは食堂に向かって行った。
「トミーくん、こっち来て」
知智さんについて行くと、食堂から少し離れた廊下の片隅で立ち止まった。
「話したいことって何ですか?」
「ねえ、トミーくん。突然なんだけど、その首のキズ…」
知智さんが円の首を指差した。
「ああ、気づいてたんですね。そうです、番ができたんですよ。知智さん、ボクがオメガだって知ってびっくりしたでしょ?」
円はキズがよく見えるように首元をはだけさせた。
「……いや、実はね、私、常務があんなこと言い出す前から、トミーくんがオメガなんじゃないかってうすうす気づいてたの」
「そうなんですか…」
知智さんの言葉に円は驚いたが、少し納得もしていた。
知智さんはカンが鋭いというのか、体調が悪い人がいれば一番早く気づくし、データ入力や搬出、搬入の際にも、異常に気づくのはいつも知智さんだ。
そんな彼女だから、なんらかのきっかけで円がオメガであることを悟っても不思議ではない。
「トミーくん、いつも首にタオル巻いてるでしょ?自分がオメガだってことを知られたくない人って首を隠すことが多いって聞いたことあるし、ちょっと前にトミーくんが首のタオル巻き直したときに、チラッと拘束具が見えたの。それで、ああトミーくんはオメガなんだーって思ったの」
「知られてたんですね…」
「うん、まあね。ていうか、まあ、私だけじゃないわ。何人かは「富永さんってオメガなんじゃないの?」って思ってたみたい」
「そうだったんですか…」
周りには隠しきれていると思っていただけに、円は少し驚いた。
「そうみたいよ。まあ、わざわざ面と向かって「あなた、オメガなの?」なーんて聞く理由もないじゃない?そんなの品がないし、トミーくんがオメガだとわかったところで何も変わらないし。ところで、今日は首隠してないけど、オメガだってこと、もう周りには公言するの?」
「ええ、もう隠しようもないし…これからは隠さず暮らしていくつもりです」
「そうなの…あ、もう食堂行きましょ。ごはん食べ損ねちゃうわ」
「そうですね」
話を終えた2人は、急ぎ足で食堂へ向かって行った。
その途中で円はふと、自分が軽井沢に言ったことを思い出した。
「他人は自分が思うほどバカではない」
他人をバカにしたような軽井沢の態度に怒りを覚えていたが、他人をバカにしていたのは自分のほうだったと気がついた。
周囲の目をしっかり欺いて、この先も自分がオメガであること隠し通せるものと思っていた。
しかし、気づいていた人がいたし、その上で見て見ぬフリをしてくれていたのだ。
さらに、常務の迂闊な一言が原因で、円がオメガだと知っても普段と変わらずに接してくれていた。
気づかわしげに接してくる者もいたが、番はどこの誰か、オメガとはどんなものなのか、いちいち詮索してくることはしなかった。
この会社の人間は、オメガに対する偏見や差別意識を多少なりとも持っているのかもしれないが、少なくともそれを言葉に出すほど下世話ではないのだろう。
──こんなんじゃ、軽井沢くんのことを笑えないな…
円は自分で自分に呆れてしまった。
完全に他人に依存するつもりでいるような軽井沢をバカにしていたのに、自分は他人の親切に甘えていたことに、まるで気がつけなかったのだ。
その日の仕事が終わった後、大木に呼び止められた。
「円さん、今日の夜、時間ありますか?」
「あるけど、何?」
「よかったら、食事行きませんか?近くの店で」
おそらく、フェロモンにあてられて、うっかり円を番にしてしまったことを詫びたいのだろう。
真面目な彼のことだ。
相手を番にしておいて、そのまま放り出すなんてことはできなさそうだ。
きっと、責任を取るなどと言い出すのだろう。
「うん、いいよ」
大木の誘いを、円はすぐに了承した。
円にとってもちょうどいい機会だ。
責任は取らなくて良い、このままで構わないし、別れを告げられても文句は言わないと伝えるいい機会だと考えた。
職場近くの安いイタリアンレストラン。
大木と円は向かい合って座っていた。
「話ってなあに?」
「きのうのことです。フェロモンのせいとはいえ、ホントに…すみませんでした」
──ああ、やっぱり
悪いのは大木の制止を無視して事に及んだ自分なのだ。
大木が謝るのはおかしい。
「別に、気にしないでいいんだよ。実を言うとね、アレはわざとなんだよ」
「わざと?」
「うん、まあ、愛情うんぬんを抜きにして、誰かに番にしてもらえば、もう発情期に苦しむことは無くなるからね。それこそ、アルファの人にお金払って番にしてくれって頼み込む人もいるらしいよ」
「…だから、抑制剤も飲まなかったんですか?」
「うん、怒った?」
「怒りませんよ、そんなことで…」
これを「そんなこと」と言ってのけるあたり、本当にどこまでも優しいのだろう。
「そうそう、これだけはちゃんと言っとくね。あのね、番にしたからって責任取って結婚するだとか、そんなことしなくてもいいから。このままボクのこと捨てても、ボクは文句言わないよ」
「そんな悲しいこと言わないでください!」
大木が声を荒らげた。
何がどう悲しいことなんだろう。
それが円には理解できなかった。
責任からは解放されるのだから、むしろ大木にとってはありがたいことのような気がするし、これを言ったらホッとするだろうと思っていたから、予想外の反応に円は心底驚いた。
「えっと、ごめん…」
いつもは従順で優しい大木に怒られて、円はとりあえず謝罪した。
自分でも何に謝罪しているのかわからない。
「前々から聞こうと思ってたんですけど、円さん、結婚とか考えてるんですか?子どもは欲しいって思いますか?」
「ううん、結婚したいと思わないし、子どもも欲しくないし、できることなら関係はこのままでいいかな」
「……そうですか。でも、責任取って欲しいって言うんだったら、俺はきっちり取るつもりですから」
大木がまっすぐ円を見つめてくる。
告白の答えを聞かせて欲しいと言ったときと同じ、曇りのないキレイな目だ。
「そう…」
大木の勢いに、円はたじろいだ。
相変わらず、この目で見つめられるのは苦手だ。
「…もう、この話は終わりにして、何か食べましょう。昇進祝いってことで、何か奢らせてください。まあ、やっすいファミレスですけど」
大木がテーブルの端に立てかけられているメニューに手を伸ばした。
「いや、奢ってくれるの嬉しいよ。それにしてもさ、ボクが昇進するなんて思わなかったな。知成くんが先に出世すると思ってた」
気まずい空気を早くかき消けしてしまおうと、円は話題を昇進についてのことに移した。
テーブルに置いてあったお冷を何気なく一口飲むと、手がべったり湿った。
結構長い間放置していたからか、グラスが結露して濡れていたのだ。
「いやー、俺なんて、まだ入ったばっかじゃないですか」
大木がメニュー表のピザが載っているページから顔を上げる。
さっきまでの真剣さは薄れて、いつもの明るく優しい大木が戻ってきていた。
「うーん、まあでも、知成くんアルファだし。ていうか、ボクが昇進できたの、本社の専務が進言してくれたかららしいんだよ。わざわざ聞き取りまでしたんだって。何でだろうね?こんな末端の部署の末端の社員に…」
円もメニューを取って、ページをめくり始めた。
「あー、それなんですけど…それ、俺がちょっと口利きしたんですよ」
大木がページをめくる手を止めて、頬を指で掻いた。
「どういうこと?」
「本社の専務って、俺の親父なんですよ…」
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