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傷跡
最近、漢三の様子がおかしい。
いつも通りと言えばいつも通りなのだが、しきりに夜を一緒に過ごしたがる。
しかしそのくせ、何もせずにただ隣で寝るだけの日が多い。前は隙あらば抱くくらいの気概であったのに、そんな素振りも見せずに寝てしまう事が多くなった。
(…別にええんやけど…なんか…寂しいのぅ)
すう、と隣で寝息をたてる漢三の頬を撫でた。
「篠崎」
「ん?」
ぽり、朝ご飯の沢庵をかじって返事をする。
「…あのさ…これからお前ん家で一緒に住んでもいいか?」
「え?」
「嫌かな」
「や、嫌…ではないけど…なんで?」
「あ…えっと…もうほとんど毎日泊まってるし…俺…仕事辞めるから…家賃浮かせたくて」
「え、仕事辞めるん?」
「あ、うん」
「なんで…?こないだ昇進したって言うとったばっかやん」
「あ…ちょっと、な」
苦笑いをした漢三を訝しむ。
「…なんかあったん?」
「いや、なんもないよ」
ごちそうさま。と漢三は立ち上がって皿を片付ける。
仕事へ行く支度をして、「考えておいてくれよ」と一言言って家を出て行ってしまった。
(考えておいてくれよ…たって…別に…拒む理由も無いしなぁ…)
ズズ、と味噌汁を啜って曖昧に考えた。
(まあ、ええか)
「朝食(あさばみ)くんおはよう。次の会議の件なんだが、どうやら坂田くんが書類ミスをしたらしくてね、ちょっと喝を入れといてやってくれないかな」
「おはようございます部長。坂田ですか?今日は休みですよ」
「おっと…間に合うかなあ…」
「空いてる人に手を回させましょうか?」
「ありがたいな。よろしくね」
「いえ。おーい田村、今手空いてるか?」
「空いてます!なんですか?次長」
「坂田の穴埋めやって欲しいんだ。部長から直々のお願いだぞ」
「えっ!光栄です…!頑張ります!」
「よろしくな」
ふ、と微笑んで田村の肩に手を置いた。
はい!と元気よく返事をした田村を部長が連れて行く。
さて自分の仕事に取り掛かろう、と椅子に座ろうとして、左足に力が入らずバランスを崩した。
ガタタッ!と大きな音を立てて椅子がひっくり返り書類を散らす。
「大丈夫ですか!?」
周りの部下達が慌てて声をかけてくる。
「あ…大丈夫、大丈夫だ」
自分でもびっくりした。手を差し伸べてくる部下に「大丈夫」と断りを入れて立ち上がる。
ピリ、と傷跡が痛んだ。
昼休み。
「辞めるって本当かい?」
「あ…ええ、はい」
例の如く部長に昼ごはんを誘われた漢三は洋食屋に居た。
「…ついこの間次長になったばかりだと言うのに。」
「すみません…」
「…いや、いいんだよ。君が決めた事だろう?…でも君のような人が居なくなるのは惜しいよ」
「はは…ありがとうございます」
「そういえば…あの人とはどうかね。何か進展はあったのかな?」
「あの人…?」
「心に決めた人がいると言っていたじゃないか。どうなったのかな、と…あ、いや、野暮だね、ごめん」
「あ…あぁ…いいですよ。進展は…まぁ、それなりに。」
ピアスを気にしてそっと手を添えた。
「そうかい?…僕は応援しているからね」
「…ありがとうございます」
部長の言葉を噛み締めた。
ぴり、ぴり、と左足の痛みが持続している。
「すまん、今日は早退する。皆無理はしないでくれな」
部下からの心配の声を受けながら帰路についた。
自宅に帰って玄関先で倒れ込む。
痛い。ズキン、ズキン、と血流に乗って傷跡が痛む。
「…っ」
膝を抱え込んで耐えた。
「…遅いなぁ…」
今日も泊まるのだろうと思って晩ご飯を用意して待っているのだが漢三は一向に帰ってこない。
もしかして今日は泊まらんつもりやったんやろか?そんなら先に言うとってくれんと分からんやないかい
不服をひとりごちながら冷めた塩鯖を温め直し、白米をよそって味噌汁を入れる。
もそもそと一人で咀嚼して飲み込む。あんまり美味しく無いなぁ、とため息をついた。
「…ぐ…っ」
痛みで目を覚ました。玄関先で耐えている内にそのまま寝てしまったらしい。汗だくで蹲ったまま考える。
(篠崎に何も言ってない…荷物を取りに来ただけだったのに…クソッ)
立ち上がろうとするが動くのも怠い。ぐらぐらと視界が揺れる。頭まで痛くなってきて、ふっと意識が途絶えた。
ジリリリ、ジリリリと電話の鳴る音で目を覚ます。
(やべ!今何時だ!?)
腕時計を見ると正午を過ぎていた。遅刻どころの騒ぎでは無い。
慌てて立ち上がり電話を取る。足の痛みは少し引いていた。
電話は事務さんからで、経緯を説明すると「しばらくお待ちください」と言われて部長が電話に出た。
「申し訳ありません…今から行きます」
「こら。無理をするなと他人には言うくせに自分は無理をするのかね君は。今日は休みなさい。きちんと医者に行きなさいね」
「…すみません」
チン、と電話が切れて座り込む。
「やらかした…」
悔やんでも仕方ない。幸い痛みは軽くなっているので思考はきちんと出来た。
(とりあえず篠崎に一言伝えておかないと…)
ジ…ジ…とダイヤルを回して篠崎に電話をかけた。
「はいもしもし?」
「篠崎、俺だ。」
「漢三!昨日はどこいっとったんや!来んなら来んで言うてくれんと困…」
「ごめん、ちょっと体調悪くて」
「…大丈夫かや?」
「ああ、今は大丈夫」
「医者は?」
「行ってない」
「今家か?待っとりぃや、すぐ行く」
「え」
ガチャン!と電話が切られてしまった。
仕方なく篠崎を待つことにした。風呂に入りたいがそんな時間はない。濡らした手拭いで身体を拭いて、新しく着物を着た。
「漢三!」
ガラリと不躾に戸を開けられる。
「うわっ」
突然現れた篠崎に驚いた。
「大丈夫かや?どうしたんや?何かあったんかや、どっか痛いんか?」
「し、質問攻めだな。大丈夫だよ」
「ホンマに大丈夫なんか…?」
「ああ、ちょっと傷が痛んだだけだ」
「…そか」
まだ心配そうな篠崎を見かねてぽん、と頭を撫でた。
「ありがとな、心配してくれて」
「…ん」
困ったように、にこ、と微笑んだ篠崎が愛しくてそっと抱きしめた。
「昨日はごめんな、行けなくて」
「ううん、ええんよ。…さ、医者行こうや」
「…行かなきゃだめか?」
「行かなかん。」
「くそー…」
街の病院に併設された小さな宿屋。その一室をノックして声をかける。
「マーガレットちゃーん」
「あら!篠崎さん!」
たたっと走り寄り篠崎に抱きついた女性。真っ黒なゴツいベルトのロングブーツと真っ黒なフリルの洋服に身を包み、小さなハットとまん丸な眼鏡に、篠崎よりもたくさんのピアスをつけたイギリスの薬剤師、エリノア・マーガレット・バックリー。
篠崎は彼女を抱きしめて頭を撫で、頬にキスを交わして挨拶する。
「…」
漢三は部屋に入らず外でその光景をジトリと見ていた。
「ン?お客さン?」
部屋の奥から白髪を束ねた耳の長い糸目の男が出てきた。中国から来ている彼はなんでも売っているやり手の薬屋である。細身の体に真っ白な中華服を身につけ、彼にはやや大きく思える羽織をかけていた。
「鼬瓏(ユウロン)〜!また世話になりにきたわぁ」
「篠崎サン!来るなら言ってくださればいいのに。お茶くらい出しますヨ」
「んにゃ、今日は遊びに来たんとちゃうねん」
「と言いますト?」
「薬と診察をしてもらいに来てんよ。な?漢三」
「…」
不機嫌そうな顔で腕組みをした漢三がまだ部屋の外に居る。
「そんなとこ居らんと入ってきぃや。ほら」
ぽすぽす、といつのまにかソファに座った篠崎が隣に誘う。
「…」
漢三は鼬瓏を見ると更に嫌そうな素振りを見せた。
「漢三サン、お医者が怖いンですカ?大人にもなって情けないネ」
クスクスと鼬瓏が袖で口元を隠して笑った。
ビキ、と漢三のこめかみに青筋が張り、腕組みを解いてズンズンと歩を進め、そして篠崎の隣にボスッと座った。
「…薬がもらえたらそれでいい。余計なことはするんじゃねえぞ」
「ふふ、漢三さんってば私達に会う時いっつも不機嫌なのね。もしかして嫌われてるのかしら?」
ニコリと微笑んだマーガレットが漢三の顔を覗き込む。
チッと舌打ちをして漢三は彼女を睨んだ。
「こら!女の子に向かって舌打ちなんてしたらあかん!」
ポカ、と篠崎が漢三の頭を叩く。
「さテ?足の傷、見せてみなさいヨ」
鼬瓏がクイ、と診察台を示して促す。
「薬がもらえればそれでいいって言ったろ」
「見ないと分からないデショ、そんな事も分からないんですカ?」
「はいはい分かったよ。見せりゃいいんだろ」
仕方なく診察台に上がり着物を捲って足を見せる。
「マーガレット、針くださいナ」
「はいどーぞっ」
「ありがとネ」
くるくる、と長い針を指で回した鼬瓏が漢三の足に狙いを定める。トッ、と傷痕の近くに針を刺した。
「…ッ」
びく、と漢三が体を硬らせる。
「これは相当痛かったデショ。よく我慢してましたネ」
「…るせぇ」
詰めた息を吐く。未だ残っていた痛みが引いた。
「ちょっとだけ楽になるようにしますから、そのままジッとしててくださいネ」
器具を取ろうと鼬瓏が振り向くと、マーガレットが全て準備して待っていた。
にこ!と微笑んだマーガレットをよしよし、と撫でてやりながら褒める。
「えらいネ。良い子、良い子」
「うふふ」
「…おい。早くしてくれねえか」
「フフ、急かすならいつもの仕返しでもしてやりましょうかネ」
「何するつもりだよ」
「いや?ちょっと、ネ」
トッと今度は足の裏に針を刺す。
「あ?」
すとん、と体中の力が抜けて診察台に倒れ伏した。
「大人しくそうやって寝ていなさイ」
「ぐ…!クッソ…!」
一発殴ってやりたいが全く体がいうことを聞かない。
「くそッ!テメェ鼬瓏!覚えてろよ!!」
声だけを張り上げて怒鳴るが体はべったりと診察台に張り付いたままだ。
「かーんぞっ」
篠崎がこちらに来て視線を合わせてしゃがんだ。
「あ…どうした?」
「んーん?…んふふ。きゃんきゃんと仔犬みたいやなあ」
「ぅぐ…っ」
「ほらほら、治療しますヨ」
篠崎との間を割るように鼬瓏が立つ。
篠崎はニヤニヤと笑って漢三の額を小突くと、ソファに戻った。
「頼んだで鼬瓏〜」
ヒラヒラと篠崎が手を振っている。鼬瓏の向こうに手だけが見える。くそ、邪魔だ篠崎を見せろ。
ぐぬぬ、と歯軋りしていると鼬瓏に肩を掴んで仰向けにさせられた。
「どこ見てるんですカ?この変態」
は、と気がつく。目線の位置が完全に鼬瓏の股間だった。
「テメェなんかには毛ほども興味ねェんだよ!!黙ってやれ!!」
「あらあら、篠崎さんにしか興味ないんですって♡妬いちゃうわね」
マーガレットが篠崎の隣に腰掛けた。
「んふ、妬いてくれるんやったら漢三が居らん間にウチとイイコトする?」
すい、と篠崎は彼女の顎を持ち上げて頬にキスをした。
「あら!この間したばかりじゃないの。時間を置いた方が楽しいプレイもあるのよ?」
「そんならいつがええんや〜」
「そうねえ来週くらいなら…」
漢三は我慢できなかった。
「〜ッそういうのは他所でやってくれ!!!俺に聞こえるところで話すな!!」
「おぉ怖、漢三がキレた!」
「やだぁ漢三さんこわぁい」
キャッキャッとイチャイチャしだしたマーガレットと篠崎から目を逸らして固く瞑る。
「鼬瓏、さっさと終わらせろ」
「命令しないでくださいナ」
すちゃ、と鼬瓏が片手に三本針を持つ。
「少し痛いですヨ」
一言告げて、トトトッと針が打たれる。
「ぐ…ッ」
「もう一回」
また三本。
「…ッ」
「特に意味はないですがもう三本やっときましょうカ?」
「意味がねえならやめろ!」
「冗談はさておき、針に薬が塗ってありますからこれで痛んでも少しは痛みが軽くなるデショ」
「あ、おう」
「無茶はしちゃダメヨ?」
ずい、と顔を近づけて鼬瓏が凄んだ。
「う…」
「ハイ、は?」
「…わ、分かったよ」
「よくできましタ!あとは飲み薬ネ。マーガレッ…」
鼬瓏が振り返るとマーガレットは篠崎の足にちょこんと座り、愛玩動物のように抱き抱えられていた。
「ほんにかわええ…」
すーーーーっと篠崎がマーガレットのつむじを吸う。
「篠崎さんってばそんなとこ嗅がないで!」
「んん〜いややぁ、離しとぅない〜」
「こほん。マーガレット?お薬作ってくれませんかネ?」
「あっ!ごめんなさい鼬瓏、忘れてたわ!」
「忘れるな!!!患者だぞ俺は!」
「ああもう!うるさいネ!」
「ヴッ」
首に針を刺されて漢三は静かになった。
「それじゃ、作ってくるから待っててね」
「はいな〜」
ニコニコと手を振る篠崎の隣に鼬瓏がとす、と座る。
「ときに篠崎サン、マーガレットとどこまでいったんですカ?」
にこ…と微笑んだ鼬瓏が片手を隠して聞いてくる。
「ヒッ!」
「酷いことしてませんよネ?」
「し、してない!してない!ただちょっと夜を一緒に過ごしただけや!」
「ふぅん…」
キラリ、針を見せられた。
「嘘ですごめんなさいヤりました」
「…最初からそう言えばいいのニ」
ふう、と鼬瓏がため息を吐いて針を仕舞う。
「あの子、相手がいるんですヨ?」
「…知っとるよ」
「じゃあなんで」
「…あないな顔で迫られたらしゃあないやろ」
少し淋しそうな顔をした篠崎が困ったように言った。
マーガレットにはイギリスに残してきたカインという男がいる。彼はマーガレットが4歳の頃からずっと一緒にいるのだ。鼬瓏はそれを知っているから、篠崎のその顔を見てマーガレットの気持ちを察した。
「そうですカ…」
「あんな…あんな悪魔のような顔して迫られたら断れへんよ…」
よよよ、と泣き崩れた篠崎が鼬瓏の膝に倒れ込む。
「エッ」
「うう…可愛い子やからってホイホイ着いていったウチが悪いんは分かっとんのやけどあの夜にいくつ初めてを奪われたか…〇〇と□□と△△とあとそれから…」
「ちょ、ちょ、ちょっとちょっと!貴方が奪われた側なんですカ!?」
「…そうやけど?」
ぐす、と鼻を啜る篠崎が潤んだ目で見つめてくる。
「…スミマセン…うちの子が…」
「ほんとやて。まあ可愛い子とエッチなこと出来たからええけどな」
篠崎はスン、と体を起こした。
「それ…漢三サンは知ってるんですカ?」
「関係なかろ」
「…本当に関係ないと思ってるんですカ?」
「……はー…言っとらんよ。でも気づいとるやろ。そんな事も分からんような男やない」
「篠崎サン、嫌な人ネ」
「はは、そうやね」
困った顔をして微笑んだ篠崎から目を逸らすとマーガレットが裏から出てきたところだった。
「おまたせ!飲み薬と、あと塗り薬よ。飲み方は…っと、漢三さん起こしてくれる?鼬瓏」
「ああハイハイ、ちょっと待ってくださいネ」
ス、と足と首から針を全て取り除いてやる。
「…ぁ?」
「よく寝てましたネ。良い子ですヨ」
「ッテメェのせいだろ!この野郎!」
胸ぐらを掴もうとした漢三の腕をヒョイと篠崎が掴んだ。
「あーこら!漢三!やめんさい!」
「…っ…くそ…」
「フフ、篠崎サンには歯が立たないのネ」
「可愛かろ?」
よしよし、と漢三を抱きしめて頭を撫でてやる。
「ぐ…っ」
漢三はぷるぷると震え顔を赤くしながらも、篠崎にされるがままだった。
「さ、マーガレット。お薬の説明してあげてくださいナ」
「はーい!漢三さん、これは朝と夜に飲むお薬よ。食後にお水で飲んでくださいね。それとこれは塗り薬。傷跡が痛むようならよく塗り込んでね」
「…」
漢三は無言で薬を受け取った。
「よーしよし、良い子やねえ」
「し、篠崎…そろそろやめてくれないか…」
「ん〜?ちゃんと二人にありがとぉが言えたらやめちゃる」
「………と」
「聞こえませんネ」
「…ッありがとうございました!!!これでいいだろ!」
「良い子!」
ギュッと篠崎が一際強く抱きしめて体を離した。
「漢三サン、また様子を見て調子悪そうなら来てくださいネ」
「二度と来たくないね」
「篠崎さん!また遊びましょうね♡」
「うん!またな〜♡」
ニコニコと手を振る二人を後にして、篠崎と漢三は帰路についた。
「篠崎…」
「ん〜?」
ぷか、と煙草の煙を吐き出しながら篠崎が返事をする。
「あの女だけはやめとけって俺言ったよな」
「…ん」
「あの女からは俺と同じ臭いがプンプンすんだよ」
「漢三もマーガレットちゃんと一緒に遊んだんか?」
「ちげーよ!!…だから…あいつの近くには狼が居るんだって」
「ふーん…」
「おい、聞いてんのか」
「ウチには関係のない事やしなぁ」
ふぅ、と煙を吐き出す。
「あのなぁ…!」
ぴと、と漢三の唇に指を当てた。
「漢三にも、関係あらへんやろ」
「…っ」
「さ、はよ帰ろ。今日は鼬瓏にもろた薬膳粥でも食べようや」
「…ああ」
日は沈みかけている。今宵の帷は長そうだった。
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