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狼
あの日。漢三が死んだ。
朝起きたら腕の上に冷たくて、硬い塊がいて。
ゴワゴワになってしまった毛を掻き分けて名を呼んだ。いくら呼んでも、撫でても、いっそ叩いても何も反応がなくて。
だらしなくあいた口からだらりと垂れた舌。
カチカチになった冷たい身体。
虚な目。
どれを取ったって、行き着く答えは一つだった。
堪えきれない気持ちが濁流のように目から流れて、いつかは来るかもしれないと思っていた現実が目の前にあることが信じられなくて…信じたくなくて。
漢三、漢三、と抱きしめて請うた。
どれだけ泣いても帰ってこない。妖とは不死ではなかったのか。これからもずっと、一緒にいると思っていたのに。
しゃくりあげてもしゃくりあげても、空気が肺に入らなくて咽せた。ひきつった呼吸だけが部屋に木霊して、目一杯吸い込んだ息を全部吐き出すように声を上げて叫んだ。
どうしてこんな事になった?何が悪い?誰のせいだ?
…分からない。どうして、どうして。自分は生きているのに。漢三はなんで死んでしまった?何が違う。
考えても考えても答えが出なくて、それならばいっそと考える事を放棄した。
「…お茶でも淹れるかね。漢三、何飲む?」
聞いても当然ながら返事は帰ってこない。
「…緑茶にしようか。だいぶ前に買ったけど、羊羹があるからそれ食べよう」
階段を降りて湯を沸かす。一際丁寧に火加減を調整して、殊更に丁寧に茶を淹れる。
棚から羊羹をとりだして、乾いたところを切り落とす。
盆に乗せて寝室まで運び、ベッドの上で漢三の亡骸と最後のお茶会をした。
「乾杯」
コツ、と湯呑みを合わせて熱い茶を啜る。ふう、と一息ついて、狼の毛並みを整えた。
「漢三、今までありがとぉな。おまんのおかげで…色々助かっとったよ」
「…おまんにはようさん迷惑かけたなぁ。喧嘩も…ウチのせいで傷つけてばっかやったな」
「よくこんなんを好きでおれたな。アホちゃうん?」
「でも…嬉しかった。ありがとぉ」
羊羹の最後の一欠片を口に含み、ぐい、と茶を煽る。ごくりと飲み干して、漢三の鼻にキスを落とす。
盆ごとベッド横のチェストに置いて、狼の上に覆い被さった。
そっと、頭に、耳に、体へとキスをしていく。
死後硬直が解け、柔らかくなった体をそっと撫でてやりながら、篠崎は自身のそれを触って勃たせた。
「最後やからな…」
狼の股にそれを押しつけて扱く。ぎゅ、と狼を抱きしめて腰を振る。
「漢三…っ」
冷たい体に熱を戻すように肌を寄せる。垂れた舌を舐めて吸って、鼻にキスをして、瞼にもキスをして。
「は…っ漢三…っ」
冷たい身体が自分の熱ですこし温まる。
「漢三、かんぞ…っ…くっ」
それに擦り付けながら、もう一年以上前になる漢三との行為を思い出した。
「ぁ、かんぞぉ…っ!」
ビク!と身体が震えて、狼の腹に白濁が飛び散る。
「んぅ…っ」
久しぶりにイッたからかまだ出る。し、勃ってる。
「は…っ」
狼の耳を舐めて毛繕いしながら腰を降り、二度目の射精をした。
「重…っ」
白濁まみれになった狼を風呂に入れてやるために、持ち上げて風呂場まで来た。ゆっくりとおろしてやる。
ふう、と一息ついて、いつものようにシャワーを浴びせ、シャンプーをしてリンスする。
一通り流し終わって抱き抱えてタオルの上に降ろし、拭き始めた。
…いつもはブルブルと水を切ってくれる漢三だったが、今は動かないので水気が多い。何枚も何枚もタオルを使って水を拭き取り、そして、滅多に使わないドライヤーをつけた。
ブォオ、と温風が漢三の毛を揺らす。ワシワシとかいて中の毛まですっかり乾かす。
すると、風呂に入れさせてくれなくてゴワゴワになってしまっていた毛並みは、前ほどとは言わないがふわふわになった。
「ふふ、漢三、気持ちええなぁ」
ぎゅ、と抱きついて微笑んだ。
…気持ちの整理がついた。
ガチャ、と受話器を取ってダイヤルを回す。
「ハイ、どちらさまデ?」
「あ、鼬瓏(ユウロン)?ウチや。…あんな、ごめんな、漢三がな…」
篠崎の妙に落ち着いた声に鼬瓏は察した。
「…漢三サンに何かありましたネ?」
「………うん」
漢三の事は鼬瓏にずっと相談していた。鼬瓏は犬が苦手なのに、その時その時、できることを全部やってくれたのだ。本当に感謝している。
「篠崎サン…?」
「………あんな、漢三…死んだよ」
「…っ…そうですカ…篠崎サン、今行きますカラ、待っててくださイ」
チン、と切られた電話を抱えるようにしてしゃがみ込む。
受話器も戻さず、ぼうっと虚空を見つめる。
しばらくすると、ノックが響いて鼬瓏とマーガレットが来た。
「あぁ…!」
二人を寝室に案内すると、マーガレットはベッドの上の漢三を抱きしめながらワッと泣き出してしまった。
そんなマーガレットの隣に座り、優しく撫でながらあやす篠崎を見て、鼬瓏は苦虫を噛み潰したような顔をした。
「どうして早く言ってくれなかったんですカ」
「ん…最期くらい二人でおりたいやん」
「だからって…」
鼻のいい鼬瓏は分かっていた。羊羹と茶葉の香り。栗の花と汗の香り。そしてそれをかき消すようなシャンプーと…強い香水の香り。
「…みんなを呼びますカ?」
咎めたい気持ちを押し込めて鼬瓏は問いかける。
「そうやね…笹間と市乃ちゃんと…明臣…ううん、明臣は呼ばんでええ。…笹間達呼ぶわ」
「えっ…?」
笹間の龍進が経営する龍堂茶屋に電話をかけたところ、看板娘の市乃が出た。彼女も今までは漢三を交えてお茶会をしていた仲である。
「そう…ですか」
「うん、ごめんな仕事中に」
電話口から龍進の声がする。市乃ちゃんどうしたん?電話代わろか?と遠くから話しかけているようだ。
「あ…龍進さんに代わりますね、お待ちくださいね」
「ありがとぉな市乃ちゃん!はい龍堂茶屋です!」
「あ、龍進?」
「そーたんやん!どうしたん、電話なんて珍しいなぁ」
「うん、あんな…」
それを告げると龍進は「は?」とだけ残して電話を切った。
ツー、ツー、という音を聞きながら受話器を置き、寝室に戻る。泣き疲れたらしいマーガレットが目を腫らして漢三を撫でていた。
「どうでしタ?」
「ん…怒らせたみたいや」
あは、と笑う篠崎。鼬瓏はベッド横の椅子に腰掛けてマーガレット達を見守っている。
しばらく沈黙が流れたと思うと、ドタバタとそれをぶち壊す者たちが来た。
バタン!と寝室のドアが開き、龍進、龍源、そして市乃がなだれ込んでくる。
「漢三はん!漢三はん…!」
龍進と龍源は一目散に漢三の元へ向かいその体に触れた。
「っ嘘やろ…」
沈黙した冷たいそれの感触にゾッとしてすぐ手を引っ込め、床にへたり込んだ。
「…っ」
市乃は目を伏せて顔を背けた。
「こんなん…嘘や、嘘やろ?なあそーたん…趣味の悪い冗談やわ…こんな…死体まで用意して…た、タチ悪すぎやで…」
震える声で龍進は篠崎を責めた。
「…冗談やないよ」
「だってこんな!傷もない!事故でもないのに漢三はんが死ぬわけないやん!」
「…そうやね」
「もしかしてなんかの病気でもしとったんか…?」
「…分からん」
片腕を抱いてふいと顔を背けた篠崎にわなわなと震えた龍進は鼬瓏に振り向いた。
「鼬瓏はなんか知っとったんか…?なぁ、なんか相談受けとらんかったんか…?」
ぼろ、と涙を溢す龍進と、龍源は縋るように鼬瓏を見つめた。
「…篠崎サン、話していいですカ?」
「…構わんよ」
ふぅと大きく一息ついて、鼬瓏は話し出した。ある日漢三が人に化けられなくなったこと、話せなくなったこと、日に日に弱っていって、まるで老犬のようだったこと。
「そうか…そっか…そっか…」
無理矢理納得させようとする龍進。兄の龍源はその背中を撫でながら唇を噛み締めた。
市乃がマーガレットの隣に座り、マーガレットの頬の涙を拭く。
「…寂しくなりますね」
一言市乃が呟くと、マーガレットは市乃に抱きついてその胸で泣いた。
「なぁ、明臣はまだつかへんのか?このメンツなら居らなおかしいやろ」
龍源が篠崎に聞いた。
「…あいつは来んよ」
「え、なんで」
「呼んどらへん」
「は?…はァ?…お、おかしいやろ、こんな事態なんやぞ!アンタら三人仲よかったやないか!!」
「それでもや。呼ばん」
それを聞いた龍源が篠崎の胸ぐらに掴みかかる。
「おま…っふざけんなよ!!友達が死んだのに呼ばへんって意味わからんわ!なぁ龍進!お前からもなんか言ってやれ!」
「源兄…落ち着いてよ、らしくないよ。…そーたん、なんで呼ばへんの?」
「お前等明臣が何の妖か忘れてんか?」
「…」
笹間兄弟は知らなかった。彼らは明臣と同じく、妖力が弱くて相手の正体を見破れないのだった。
「…すまん、知らんのや。明臣がなんの妖か」
「…そ…か。それは悪いことしたな。…明臣はな、兎や」
「うさ、ぎ…?」
ペタ、と龍源は座り込んだ。龍進は膝を抱えて丸くなる。
「…ごめんそーたん。俺等が悪かった」
「そっか…兎か…そっか…しゃーないな」
「…龍源、龍進…二人ともごめんな」
「…いや、いいよ。仕方ない。俺らも漢三はんから聞いてなければ漢三はんが狼やって事も分からんかったんや、明臣もきっとそうなんやろ…?」
「ん…そう、かもしれん…けど、そうじゃないかもしれん。でも、知らなかったときに怖がらせたくはないんよ…」
この棒切れのような精神状態で、明臣が漢三の事を受け入れられなかった場合、それはぽっきりと折れてしまうだろう。それくらいは、篠崎にも分かる。龍進にも、龍源にも分かった。
「…このこと明臣になんて言うん?」
「あは…どうしようか」
困ったように篠崎が笑った。しばらく考えて、答えを出した。
「病気で死んだけど、里親の所で家族だけの葬式になったからもう会えない…って言っとこうかの」
「そ、か…そうやな、それがいい。俺らもそれで合わせるわ」
「そうネ、私たちも合わせますヨ」
「うん、ありがとぉな」
それともう一つお願いがあるんやけど…と篠崎がそれを口にした。
「…毛皮をコートに?」
「うん」
「正気か…?そーたん、漢三はんやねんで?」
「うん。漢三やもんで、やりたいんよ」
「…」
龍源と龍進は顔を見合わせる。困ったような、止めるべきか、否かと迷う複雑な顔をして目くばせした後、二人で大きなため息をついた。
「…わかった。…そーたんの好きにしたらええよ」
「漢三はんなら、良いって言うやろうしな」
「ん、ありがとぉ」
にこ、と嬉しそうに笑った篠崎は鼬瓏に声をかけた。
「鼬瓏、皮剥ぐの、やり方教えてくれんかや」
「…っ…ハイ。分かりましタ。教えましょウ」
「篠崎さん…本当にやるの…?」
「マーガレットちゃん…。うん、やるよ。…埋めてしもうたら漢三はそこから動けんようになってしまうからな」
「そう…」
市乃が静かに聞いた。
「篠崎さんが決めた事なら受け入れます。…でも、耐えられるんですか?途中でやめるなんて…できませんよ」
「ん……うん…やめんよ。どんだけしんどくても、最後まで、ちゃんとやるから」
「…わかりました。…そしたら…何か手伝いましょうか?」
「ううん、ウチ一人でやりたい。皆は明臣に悟られんように普通に過ごしとってくれんかや?」
「…うまくやれるかは分からんけど…わかった」
「あは、龍源ったら何年人間やっとるんや。人を欺くのは慣れとるやろ。ウチらは妖なんやから」
「でも明臣は人じゃないよ。妖なんだ」
「うん…出来るだけ、丁寧に騙してやってくれな」
「分かった」
「じゃあ、またね、そーたん」
「うん」
「頑張ってな」
「あは、お互いにな」
「うん。じゃあ、また今度」
鼬瓏と篠崎を残して龍源達は解散した。
「…さて」
鼬瓏の方に振り向く篠崎。
「どうしたら綺麗にできるかの?」
「…そもそもやり方ハ知ってるんですカ?」
「ん…や…知らんな」
「普通は知りませんよネ。いいでしょウ、教えますカラ、紙に書いておいてくださイ」
「ありがとぉ」
にこ、と嬉しそうに笑った。
「それでは必要なものを揃えましょウ。切れ味の良いナイフ2種類と、桶またはバケツ、そして樟脳と塩とミョウバンに大量の水、それを入れる大きな入れ物に、木の板と釘…あとは追々言いますネ」
「うん」
渡り歩いたらその日のうちに全て揃えることが出来た。
そして篠崎はメモを見ながら漢三を捌き始める。
「ええと…まずは血抜きして…」
「手伝いますカ?」
「いや、一人でやる」
この為に買った鋭い刃のナイフを手に取り、風呂場に寝かせた狼の喉元に刃を入れた。肉が厚くて力がいる。震える手に力を込めてグ、と沈め、ずぱ、と一閃入れた。
途端にその喉元からドボドボと血液が溢れ出る。濃すぎて赤黒い血が足を濡らす。力の入らない腕でその体を持ち上げ、逆さまにして固定ししばらく放置して血抜きする。
ドロドロと流れ出る血を見つめながら、篠崎は手の震えが止まらなかった。カタカタと歯が鳴り、背筋には悪寒が走る。血に汚れた手で、ぎゅ、と自分の肩を抱き締めた。
鼬瓏は篠崎に触れることなくそれを見守った。
どれだけ経っただろうか。震えがおさまる頃には漢三の喉からは血が滴る程度になっていて、血が固まらないうちにシャワーでそれを全部流した。
「次は…ナイフで腹を開く…そのまま皮を肉から剥がす」
ナイフを手に取り、ゴクリと唾を飲む。意を決して狼の喉元から股まで、正中線を一筋切った。ガバリと開いた腹の皮を引っ張りながら中に手を入れて、皮下脂肪や膜から皮を切り剥がしていく。
皮を剥ぐと同時に、内臓や肉を切り分ける。
そしてその肉を口へと運んだ。元々狐だから生色を普通にする篠崎が、生の心臓にかぶりついた。鼬瓏は目を逸らし、部屋の外へと出た。
歯を立てる度に沈む肉から血が滲む。鉄臭い臭いが口の中に広がる。じわりと涙が出た。気持ちが溢れないようにと口に肉を詰め込む。噛んで、飲む。ゴクリ。
咀嚼して。嚥下して。飲み下して。腹に入れて。詰めて、詰めて…
「お゛ぇ゛…ッ」
ビチャビチャ!と吐き戻した。堰を切ったように流れる涙と嗚咽が止まらなくて、吐瀉されてグチャグチャになった狼の肉を握りしめた。
「ゔ、ゔ…ッ」
それをまた口に戻す。嫌悪感でまた吐いて、食べて、吐いて、また食べて…
「もうやめなさイ」
鼬瓏にそっと背中を撫でて宥められる。
「い、いやだ、やだ…ッ」
「…きちんと料理して食べまショ?その方がいいですヨ」
「…っ…うん…」
残った綺麗な肉を皿に乗せ、冷蔵庫へと仕舞う。
「…ごめんな漢三」
吐き戻した肉と内臓は、庭で燃やすことにした。
結局皮を剥ぐだけで丸一日使ってしまった。途中鼬瓏が食事にしようと誘ったが、篠崎はそれを断って黙々と作業を続けた。吐瀉した後はしばらく泣いていた篠崎だったが、後半になると疲れたのか、只管に死んだ目でナイフを入れるようになった。
「お疲れサマ、篠崎サン」
「ん…」
全てを剥ぎ取りクタクタになった篠崎を見かねて鼬瓏が声をかける。
背中や腹はさほどだったが、顔や脚や尻尾が細かくて難しかった。
「綺麗に出来ましたネ」
「…うん」
力なく微笑んだ。
「今日は休みますカ?」
「…ん…そうしようかの」
血だらけの手で煙草を一巻き取り出して、口に咥えたそれに火をつける。マッチを勢いよく擦ると、シュッと音を立てて明るくなる。そっと口元まで持って行き、大きく吸ってゆっくりと吐き出し、手にもったマッチを振って火を消した。
鼬瓏もいる?と聞くと、火だけ貰いましょうかネ。とマッチを取った。同じようにして自前の煙草に火をつけて吸う。ふぅ、と吐き出して、鼬瓏は口を開いた。
「どうしてコートになんかしようと思ったんですカ?」
篠崎は隣に座る鼬瓏をチラリと見た後視線を前に向けて言った。
「旅に出ようと思ってん」
「え?旅?」
突拍子もない返事に驚いて聞き返す。
「うん、旅にな、出ようと思ってんよ。この街にはもう帰らんくらい長い旅や。そしたら冬場寒ぅて敵わんやろ?漢三も一人にしとうないし、一石二鳥やん?」
鼬瓏に向いてにこりと笑った。
「…篠崎サン…本当に、嫌な人ネ」
「…うん」
一服吸い終わって立ち上がる。鼬瓏に言われた通り、毛皮をなるべく小さく畳んで冷凍庫に押し込めた。
「あとは一人で出来るで、鼬瓏は明日はもう来んでええよ」
「…そうですカ…分からないことあったら電話してくださいネ」
「ん、ありがとぉ」
次の日。あまり眠れなかった目を擦り篠崎は顔を洗う。風呂場に積んだままの骨とぐちゃぐちゃになった肉を見て、燃やすか。と思い立った。
パチパチ、と立ち登る火の粉を見つめる。庭中を香ばしい香りが包んでひくひくと鼻を動かした。しゃがみこんでじっと見た後しばらくして、よっこいしょと立ち上がった。
「やるかの」
冷凍庫から毛皮を取り出した。表面はカチカチだったが、中までは凍っていなくて柔らかい。
風呂場に持っていって流水で溶かす間に、要らない着物を探してきた。ハサミを入れて切り開く。これは後で使う。
毛皮が解凍されたのを確認して、汚れを落とすために浴槽に水を溜め、その中に毛皮を入れ、更にシャンプーをこれでもかと入れて、足で踏んでもみ洗いをした。すぐに水が汚くなって、水を入れ替えてまた洗う。
何度も繰り返して水が汚れなくなってきたら、今度はシャンプーが残らないように何度も流す。
そうしてやっと綺麗になった毛皮を、今度はぎゅっと固く絞る。
そして、風呂場に先程の着物だったものを広げた。
これから除脂を始めるのである。
バケツに毛皮を裏返しに被せて浴槽に腰掛け、両腿でそれを固定した。用意するのは昨日使ったナイフとは別の、除脂用のスキンナイフを三本。ニ本は予備だ。それを手に取り、毛皮の裏に残っている薄ピンクの皮下脂肪を削ぎ落としていく。力加減によっては脂が残ってしまい、なかなか難しい。
バケツを自分側に少し傾けるようにして、ナイフの刃を斜め上から引くように当てていく。見えてくる黒い点は毛穴だ。毛穴が見えていないということは、皮下脂肪が残っているということ。削いだつもりで削げていないところを見つけて何度も削ぎなおした。
意外と強く削いでも皮が破けない事に気づいてからはジョリジョリと音がするところまで一気に削ぎ落とすようになり、それに慣れてからはスピードが速くなる。
それでも毛皮の大きさのおかげで時間がかかる。篠崎は汗だくになってもそれをやめず、延々とナイフを動かし続け、また、丸一日経ってしまった。
結局3日と半日ほどかかって全ての除脂を終えた。最終日には鼬瓏が様子を見にきて、顔周りの除脂のためにメスを貸してくれた。鼻の除脂が特に細かくて大変だったのだ。
「悪い、メス使いもんにならんようにしてしまった」
「いいですヨ、元々そのつもりで持ってきたんですカラ」
「…ありがとぉな」
「それより篠崎サン、食事はキチンと摂ってるんですカ?顔色悪いですヨ」
「あ…そういや忘れとったな」
「はぁ…いつから食べて無いんですカ」
「ん…っと…分からん」
「仕方ないですネ、粥でも作りまショ」
「ん、分かった。野菜でも買うて…」
「貴方は休んでなさイ」
ピシャリと言われて、立ち上がりかけた篠崎は座り直した。
トントン、くつくつと台所から音がする。体を綺麗にした篠崎がそっと顔を覗かせると、鼬瓏が振り向かずに「こっち来なさイ」と呼んだ。
鼬瓏が来る途中に買ってきていたらしい野菜達が鍋の中で粥と一緒に揺れている。
「味見してくださいイ」
「ん…」
小皿を受け取ろうとした瞬間に漢三との記憶がフラッシュバックした。
「…っ」
思わず手を引っ込める。
「篠崎サン?」
「…あ、いや、なんでもない。ちょっと熱かっただけや」
小皿を受け取り粥を啜る。
「うん、うまい」
「そうですカ、じゃあこれで完成ですネ。食べまショ」
「うん」
かちゃ、カタ、と匙が皿と当たる音。そして湯呑みが机に置かれる音だけがコトリと響く。
「…ごちそうさま」
「お粗末様デシタ」
「美味かったよ」
「それは良かっタ」
にこ、と笑った鼬瓏が皿を片す。
玄関先で帰り際に鼬瓏が声をかけた。
「あとは、なめし液につけた後乾かすだけですネ」
「うん、ありがとぉな」
「コート、完成したら見せてくださいネ」
「うん」
ばいばい、と見送った。
鼬瓏が帰った後、浴槽に水を張り、樟脳と塩、そしてミョウバンを溶かす。その中に毛皮を沈めて放置する。
10日以上放置して触ってみると、毛皮は手で握った後が残るほど柔らかくなった。
それを取り出し木の板に釘で打ち付け、出来るだけ引っ張って固定する。日陰で乾かさないとパリパリになってしまうらしいので、いつでも必ず日陰になっている場所に置いて乾かした。
そうして乾いた毛皮を触ってみると、薄くて硬い。でも毛の部分はふわふわで、触っていると暖かかった。
「よし、作ろ」
なめし液につけている間に服屋で寸法を測ってもらい、頼み込んで設計図を作ってもらった。この通りに作ればコートができる。
しかしそんなに一発で上手くいくわけもなく、途中で縫い直しになることが多々あった。その度に糸を解いて、やり直す。革が硬いから力を入れて縫うたびに指を刺したりもした。そしてようやく、完成した。
「できた…!」
鏡の前で篠崎はくるりと回ってみた。うん、良い。服屋に設計図を頼んだ甲斐があった。フードの部分に顔が来ていて、被ると狼に見える。
「準備しよ」
篠崎はコートを椅子に掛けると、財布と煙草と、漢三から取り外しておいたピアスを取り出した。
「…イテ」
つぷりとニードルで左耳の付け根に穴を開ける。右耳に自分の分と、左耳に漢三の分。一対のピアスを両耳につけた。
「一応消毒も持ってくかね」
消毒類と財布と煙草を小さなポーチに詰め込んで、コートを着る。
「よし」
その日から、街で篠崎の姿を見かける人はいなくなった。
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