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第4話 哀愁の企業戦士

 誰もいないオフィスに、カチャカチャとキーボードを叩く音だけがさみしく響く。 一つ目の報告書を仕上げ、次の企画書のアウトラインを作り、集約したリサーチ結果やクレームリストを確認していると、背後で人の気配がした。 「よお、頑張ってるな。」 「真壁さん。休日出勤ですか?」 真壁さんは隣のデスクの係長だ。 席が近いので良く顔を合わせる、気のいい先輩である。 「お前も大変だよな、部長のおかんむりで苦情処理の仕事まで全部やらされて。お前が処理し切れないの分かってて、仕事全部押し付けて潰すハラだぜ、ありゃ。」 やっぱりみんなそう思ってるのか。 しかしそう聞いた日にはますます負けたくない。 全部完璧にこなして、部長をぎゃふんと言わせてやりたくなるのが俺の性格なのだ。 「とにかくできるところまでやるしかないっすよ。」 強気で言い放つ。 「ま、僕に手伝えることがあったら、何か言ってくれよ。」 「ありがとうございます、でも大丈夫です。自分に至らないところがあってこうなったわけですし、自分のケツは自分で拭きます。」 煙草を片手に、真壁さんがふう、と息を吐く。 「お前ってさー、ホント取りつく島がないって言うか…」 「え?」 その時勢いよくオフィスのドアが開いた。 「あ、やっぱりいたいた、後藤。」 「江口…」 「今日こそは来ると思ってたんだ。もう尻に火がついてる状態だもんねー。」 この女、他人事だと思って楽しそうに言いやがって。 「ほっといてくれ。」 「あ〜、なに、その言い種。せっかくいいもの持ってきてやったのに。」 俺の机に次々とファイルや紙の束を放って寄越す。 「ほら、これはS社の見積もり。こっちは去年T社が契約取った時の極秘資料。手に入れるの、苦労したのよ。これは一昨年の入札記録ね。それからここ数年のS社の動き、まとめてみた。当てにならないかもしれないけど、あたしの分析と考察もメモっておいたから。」 「すごいな、江口さんは…」 横から覗き込んだ真壁さんが感嘆の声をあげる。 確かにすごい。 部長に押し付けられた厄介ごとの8割は、いま江口がくれた資料で片付きそうだ。 「後藤に倒れられると困るのよ。あたしの大事な片腕だからね。」 江口麗子は俺の同期の中では一番の出世頭で、バリバリのやり手だ。 豪胆で謙虚さの欠片もないが、とびきりの美人で有能で、誰も逆らうことができない。 相当な自信家だが、それを裏打ちするだけの実力を兼ね添えているので、向かう所敵無しの女王様だ。 目下の悩みは、自分が昇進した時に使えそうな部下がいないことだ、と嘆いている。 仕事もできない癖にプライドばかり高くて『女の下でなんか働いてられっか』という企業戦士だらけでいやになっちゃう、とたまにぽつりと漏らしてくるが、それ以外で仕事に関して弱音を吐いたことは一度もない。 彼女が俺の上司となるのも時間の問題だろう。 本来であれば、同期の、それも女に先を越され、その下で使われるというのはプライドの傷つくことなのかもしれない。 だが、実際江口はその辺の社員よりも遥かに仕事ができ、格段に頭が良いので、俺は特にどうとも思わない。 江口の下でなら、くだらないことに頭を悩ませることなくやりがいのある仕事に打ち込めるだろう。 契約社員を雑用としてしか見なさないマウンティング社員や、権利ばかり主張しながら目を放すとスマホ片手にサボっている口ばかり社員にはすこぶる不評で陰口を叩かれているが、全く意に介さない。 『文句あるなら仕事をしてから言いな。』が決め台詞だ。 「どうやら僕の出る幕はなさそうだから、コーヒーでも入れてるよ。」 真壁さんが頭をぽりぽりと掻きながら席を立つ。 もしかして江口も真壁さんも俺の仕事を手伝うためにわざわざ休日出社してきたのだろうか? 「わ、やったあ。真壁さんの煎れるコーヒーって美味しいから大好き。」 江口が無邪気に笑った。 「ふう、ここまでやればなんとかなるだろ。」 日がとっぷり暮れる頃、ようやく仕事の目処がついた。 「真壁さん、それに江口もどうもありがとう。本当に助かりました。」 俺は深々と頭を下げた。 「いや、どうってことないって。」 「あーあ、せっかくのデートの予定が台なしだわ。」 「江口、デートする相手なんていたの?」 「うるさいわね、手伝ってやった相手に言うセリフ?」 3人で声を上げて笑う。 先週の、オフィスでのいたたまれない空気が嘘のようだ。 明日からも仕事を頑張れそうな意欲が沸いてくる。 「お腹空いたよね、何か食べに行かない?もちろん後藤のおごり。ね、真壁さん、行きましょ。」 「俺のおごりって、お前、勝手に決めるなよ。」 いや、正直言えばちょっとやそっとのものおごる程度ではすまないほどの恩義だ。 もっとちゃんとしたものでお返ししなくては、江口にも、真壁さんにも。 しかし情けないことに、財布には持ち合わせがほとんどない。 「いや、僕は江口さんと違って何もしてないし…」 「ラーメン。あたし、花月亭のラーメンがいいなあ。」 俺の懐具合と、真壁さんの遠慮を考慮しながら、江口がその場を仕切っていく。 江口が真壁さんを追い抜いて出世する日もそう遠くはないかもしれない。  行列ができるほどうまいラーメンやで腹ごしらえをすると、俺たちは赤ちょうちんで一杯やった。 「真壁さんも、江口も何も聞かないんだな。」 程よく酔いが回り、俺はぽつりと呟いた。 「勝手な憶測や噂で振り回されるほどガキじゃないよ、僕たちは。」 落ち着いた大人の言動の真壁さんとは対象的に、 「『噂はホントなんですかー、真相を聞かせてください~』って言って欲しい?」 江口は芸能リポーターのように割り箸を俺の顔に向け(マイクの代わりか?)、ふざけてみせる。 「ま、あたしはホッとしてるよ、リカさんが仕事やめてくれて。その理由が寿退社だろうが男に振られたからだろうが関係ないね。」 「リカちゃん、そんな悪い子じゃなかったろ?」 真壁さんがたしなめるように言う。 「悪気がなくても、仕事がちーっともできなくて困ったよ。言ったことは覚えないし、どんな緊急でも残業は絶対やってくれないし。部長もさ、コネで入社させるのは勝手だけど、配属先を考えろっつーの。お守させられる身にもなって欲しいわ。」 江口は仕事のできない人間に対してものすごく辛辣だ。 「姪の顔に泥を塗られたって息巻いて、私情交えて後藤を潰そうとするのだって納得いかない。会社の自分の立場考えて仕事しろよって言いたくなるね。あんたなんでリカさんとつき合ってたの?別に部長の姪だから逆玉狙ったわけでもないでしょ。」 真壁さんは江口と違って何も言わなかったが、口を挟まず聞こえないふりをしているところを見ると、やはり江口とさほど違わない評価をリカに対して持っていたようだ。 リカを好きだったのかーそう言えば誰かにも同じことを聞かれたような気がする。 俺は家族が欲しかった。寂しかったのだ。リカは俺のお嫁さんになりたい、と言った。俺の子供をたくさん産みたい、と。 わがままで無邪気で奔放なリカは、グレる前の裕樹によく似ていた。 俺を時々困らせたが、俺しか頼る相手がいない、という表情で甘えられると、とても愛おしく思えた。 そうか、と今さらながらに納得する。 裕樹に寂しい思いをさせてしまった罪悪感を、 裕樹が手許から離れていった寂しさを、俺はリカで繕おうとしていたのだ。 「やっぱりこうなったのは、リカのせいでも部長のせいでもない。俺自信の責任だ。江口は部長たちにいろんな不満があると思うけどね。俺、とにかく失くした信用を取り戻せるように仕事で頑張るよ。真壁さんも、江口も、今日は本当にありがとう。この借りはいつか仕事で返すから。」 俺はすっきりとした気持ちで、裕樹の待つ家へと帰っていった。

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