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第8話 真実はひとつ!(とは限らない)

 上杉の帰った後の部屋は、まるで通夜のように静まり返っていた。 俺は、あの刑事の言ったことを裕樹に否定して欲しかった、全ては嘘だ、と。 だが、裕樹は俺と目を合わせようとせず、「疲れたから寝る」と部屋を去ろうとする。 「おい、待てよ!何か言うこと、あるだろう?!」 「別に。さっき言ったとおりじゃん。」 「ふざけるなっ!」 俺は思わず声を荒げる。 「お前、そんな目にあわされて、なんでそんなこと黙ってたんだよ?!」 「言ったからって、何か変わるわけじゃないだろ。それにもう過去のことだよ。」 「弟がそんな目にあわされて、黙ってられるわけないだろう!」 裕樹はぐっと俺を睨み付ける。 「今さら兄貴ヅラするなよ、俺は洋介のこと、兄貴だなんて思ったことねーよ!」 その言葉に俺はカッと頭に血が昇る。 「ふざけんな、もう一回言ってみろよ!」 俺は裕樹の頬を力いっぱい張り飛ばした。 「好きなだけ殴ればいいだろ!洋介なんて本当は俺のことなんてどうでもいい癖に。どうせ会社の犬なんだから!俺や隆之さんの気持ちなんかこれっぽっちも知らないで、仕事仕事って…」 隆之、という名前に思わず反応する。 「お前、よく何年間も隆之に自分の罪を擦り付けたまま平気な顏していられたよな。その神経、信じらんねえよ。」 裕樹の目が見る見るうちに涙でいっぱいになる。 俺は最低の人間だ。 裕樹が傷つく言葉をわざと選んで投げ付けたのだ。 裕樹は平気で他人を陥れることのできるような人間ではない。 聞かなくとも分かる、隆之が裕樹を庇ったのだ。 隆之はそういう男だ、優しくて侠気があって、弱いものを放っておけない。 傷ついた裕樹に、俺は気づきもしなかった。 自分の全てを犠牲にして、本来ならば俺がやらなければならないことを、隆之が代わりにしたのだ。 同情などでできることじゃない、もっと別の感情がそこにあったのではないか。 そう思うとやり切れなかった。 自分の身勝手さ、裕樹の傷、隆之の思い、隆之と裕樹の結びつき、何もかもから目を逸らしたかった。 自分一人だけが疎外されたような、裕樹にも隆之にも見放され裏切られたような気持ちだった。 だが、実際は裕樹の言う通りなのだ。 俺は自分の仕事のことでいっぱいで、裕樹や隆之と自分との距離が少しずつ開いてゆくことにすら気づいていなかったのだ。 裕樹はソファに鎮座していたプーさんのぬいぐるみを抱き上げると、俺の顔をめがけて力一杯投げ付けた。 そのまま泣きながら自室に駆け込む。 裕樹の泣き顔に、ふいに数年前のある日のことが甦った。 『さっさと起きろ、遅刻するぞ。』 いつまでも起きようとしない裕樹に痺れを切らしながら、布団に声をかける。 裕樹が半泣きで首を振る。 『具合が悪い、今日は休む。』 『勝手にしろ。』 いつものワガママ病だ、つき合っていられない、と俺は出かける準備をする。 『洋介…具合が悪いんだ、今日は家にいて、会社に行かないでよ。』 俺は盛大なため息をつく。 『裕樹、お前いくつだ?ガキじゃないんだから、一人で寝てろ。』 入社したての俺は、とにかく仕事について行くのに必死で、家庭のことをかなり犠牲にしていた。 『洋介、お願いだから。大事な話もあるんだ…。』 『忙しいんだよ、帰ったらちゃんと聞いてやるから。』 俺は泣きべそをかいた裕樹を鬱陶しく思いながら出社した。 だが、その後話を聞いてやった記憶はない。 ちょうどその頃ではなかっただろうか、隆之の傷害事件があったのは。 そして、ほどなく裕樹は学校に行くのをやめてしまった。  ドア越しに、くぐもった嗚咽が聞こえる。 裕樹が子どものように声を上げて泣いているのだ。 「裕樹、ごめん、俺が悪かった、ごめん、裕樹。」 「うるさいっ、お前なんか大嫌いだ、あっちに行け!もう二度と顔なんか見たくないっ!!行かないなら俺がこの家、出ていく!!今すぐ出ていく!!洋介となんか口も聞きたくないっ!」 俺はいたたまれなくなる。 「裕樹、頼むから泣き止んでくれ。俺がいなくなるから。お前が許してくれるまでこの家には帰らないから、な。」 俺は着の身着のまま通勤鞄だけを抱えると、逃げるように家を出た。 無意識にとぼとぼと歩いて辿り着いた先は、隆之のアパートだった。 合鍵を取り出して、部屋を開ける。 隆之の匂いがした。 俺は殺風景な部屋のまん中にぐったりと座り込んだ。 上杉と名乗る刑事が家に来てから、もうわけの分からないことだらけで、俺は嵐に遭った難破船のように思考の海を漂うことしかできなかった。 裕樹の拒絶は当然だ。 何より、俺がまず裕樹を見捨てたのだから。 裕樹が一番辛い時、俺はあいつの手を振払ったのだ。 たった一人で、どれほど心細かったことだろう、と思いかけ、ふと裕樹が一人ではなかったことを思い出す。 そうだ、隆之がいたのだ。 加害者を刺した裕樹は、俺に見切りをつけて隆之に縋った。 そのことが無性に寂しかった。 そして、裕樹から連絡を受けた隆之は、俺を飛び越えて裕樹を庇った。 そのことが腹立たしく、同時にやり切れなかった。 なぜ隆之はひとこと俺に言ってくれなかったのだろう。 そうすれば隆之が罪を被るまでもなく、俺が裕樹を庇っていた。 そういう大事なことこそ、きちんと伝えてくれるのが親友というものではないのか。 だが、もとはと言えば自分の腑甲斐無さの招いた結果である。 隆之にとって俺は、その程度の人間だったのだ。 たかが友達の弟を、自分の人生を引き換えにしてまで庇うだろうか? 隆之をそこまで駆り立て、ずっと沈黙を守らせ続けたものがなんなのか考えると、思い当たることは一つしかなかった。 つまり、それは…  俺の思考の筋道を地雷で吹き飛ばすがごとく、唐突にスマホの着信音が鳴った。 発信相手は隆之だ。 俺はどうしていいか分からなかった。 隆之の声を聴きたい気持ちと、隆之に何を言い出すか分からない自分がいた。 隆之の声を聞いたら、最後の糸がぷつりと切れて、自分の理性が跡形もなく崩れ去るような気がした。 スマホは辛抱強く鳴り続けたが、やがて諦めたように沈黙した。 やがて小さな振動とともに、画面にメッセージの文字が浮かんだ。 『すまん、帰ったらきちんと話す』 今夜の出来事が裕樹から伝えられたのだろう。 話すことなんて何もない。 隆之の口から真実が聞きたい。 相反する感情がせめぎ合う。 本当は怖いのだ。 愚かでおめでたい俺がずっと気づかずにいた真実を突き付けられるのが。 裕樹と隆之の間に、俺なんて人間は存在していないのだ。 あの二人にはおそらく、『兄弟』や『友人』を超えた愛情が通い合っていたのだ。 今にして思えば、裕樹が家を出ていた間、いつも様子を教えてくれていたのも隆之だった。 様々なことが符合する。 隆之が服役し、裕樹がオカマになり、二人の間にも紆余曲折があったのかもしれない。 二人の関係が今でも続いているのかは分からなかった。 だが、理由ありの裕樹を普通の男が幸せにできるべくもなく、隆之ならば安心して任せられるような気がする。 裕樹は多少わがままな所はあるけれど、可愛いし優しいし、本物の女ではないけれど隆之のいい奥さんになれそうな気がした。  隆之の傷害事件を巡る一連の謎は解けた。 俺は一瞬だけ少年漫画の名探偵気分を味わったが、真実が解っても気分はちっともスッキリしなかった。 むしろ、裕樹と隆之のことを考えるにつけ、胸のもやもやは一層増えていくばかりだった。 なぜ隆之は俺にアパートの鍵なんて渡したのだろう。 ここは俺のいるべき場所ではない。 ここにいていいのは……。 よく泣きよく笑う、バービー人形のような愛くるしい顔立ちが脳裏を過る。 俺は隆之のアパートを後にした。 途中、通りかかった橋の上から、澱んだ河に向かって合鍵を力一杯投げ捨てた。 行く当てもなく、俺は夜の街をふらふらと彷徨い歩いた。

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