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第9話 負け犬の末路
「なんだ、酷い顔だな。」
早朝の、人のまばらなオフィスでどんよりとした気持ちのまま仕事をしていると、真壁さんに声をかけられた。
「……おはようございます…」
条件反射で挨拶をしたものの、まるで『うらめしや〜』とでもいうような陰うつな声しか出ない。
誰が聞いても朝の挨拶とは思えないだろう。
真壁さんは眉根を寄せると、俺の手を取ってロッカールームへと連れ込んだ。
俺は抵抗する気力もなく、ずるずると引きずられていった。
「ここは一応会社なんだから、最低限の身だしなみは整えなきゃダメだよ。」
ロッカーからネクタイとポーチを取り出し、俺に押し付ける。
ぼんやりと見つめ返すと、
「家に帰らないにしても、髭ぐらい剃れよ。」と言われた。
そう言えば顔さえ洗ってない。
咄嗟に隆之の部屋に身を寄せたものの、そこは俺の居て良い場所ではなかった。
逃げるように部屋を出て、そのまま駅で一晩を明かし、始発で会社へ来たのだ。
寂しかった。
家と隆之の部屋意外に、俺の居場所なんてどこにもない。
迷子のような気分だった。
鏡を覗き込むと、落ち窪んだ眼の奥から、赤く充血した瞳が見つめ返していた。
確かに酷い。
トイレの洗面台でとりあえず洗顔を済ませ髭を剃り、借り物のネクタイを絞めた。
多少すっきりはしたものの、どんよりとした気持ちは腹の底にこびり着いたままだった。
「ありがとうございます。」
とりあえずポーチを返しながらお礼を言う。
「随分用意がいいんですね。」
真壁さんはちょっとだけ笑った。
「『備えあれば憂いなし』っていうだろう?いつ出張が入ってもいいように、一通りの物はロッカーに入れてある。礼服でもなんでも、急に必要になったら言ってくれよ。貸してやるよ。」
「ありがとうございます。」
俺は陰気くさく頭を下げた。
午後になると、江口麗子が俺の許にやってきた。
「ね、後藤、ちょっと今いいかな?」
江口は俺の手を取ると給湯室へと連れ込んだ。
またもや俺は抵抗する気力もなく、ずるずると引きずられていった。
「ね、部長に何か言われた?」
江口はいつになく真剣に尋ねてきた。
「別に。」
「人事のことで噂とか聞いてる?」
「別に。」
俺には関係ない、もうだって良いという投げやりさで俺は答えた。
「総務の堀田さん、分かるでしょ?」
5年連続『お嫁さんにしたい女子社員№1』の記録を樹立した、我が社のマドンナだ。
ちなみに彼女の記録は5年目で終わった。今時お嫁さんにしたい女子社員を投票するなんて、女子社員をあまりにも馬鹿にした時代遅れの風潮だと江口が一刀両断にしたのである。
堀田さんは江口のように人の先頭に立ってバリバリ仕事するタイプではないが、早くて丁寧な仕事には定評がある。
それで美人で社会性・協調性も伴うとなれば、男にモテないはずがない。
(余談だが、江口も一応美人の部類には入るのだが、気の毒なことに堀田さんのようにはモテない。170cmとモデル並みに背が高い上に、態度もでかいからだ。周囲から女扱いされないことに、本人は『臨む所よ』と豪語しているが…)
江口はさておき、モテることが必ずしも本人にとっては幸運をもたらすとは限らない。
堀田さんは入社直後から当時の上司にストーカー的につきまとわれて苦労していた。
江口は「セクハラ対策委員会」を自治組織として立ち上げ、ストーカー男の決定的な証拠と仕事怠慢による社への損失を社長に直訴し、見事に解決したのであった。
思えばあれが江口の評価を揺るぎないものにした。
社としては役立たず社員をリストラする立派な口実ができたし、女子社員は不快な思いをしても泣き寝入りをせずに済むようになった。
その後セクハラ対策委員会は『コンプライアンス委員会』に名前を変え、職場環境を改善すべく、様々な研修を行ったりガイドラインを作って提示したりしてきた。
それをどこで嗅ぎ付けたのか、とある女性誌が『女性が活躍する職場』とやらに取り上げ、リクルート関連誌では『就職したい会社ベスト10』にランクインするまでに至った。
「堀田さんがどうかした?」
「彼女の情報なんだけど、人事部が近いうちに異動を通達するらしいの。実情は左遷とリストラらしいんだけど。」
堀田さんは江口にものすごい恩義を感じて彼女のために何かと便宜を図っているし、事実彼女のコミュニケーション力の高さと人脈に、江口の洞察力と統率力をかけ合わせれば、手に入らない情報はないような気がする。
「ふーん。」
「ふーん、って呑気に言ってる場合じゃないのよ、あんたの名前が入ってるんだから。」
やっぱりそうか。
「どうだっていいよ。」
会社で成功するのに夢中のあまり、たった一人の家族さえ守れずに『会社の犬』になっていた俺だ。
ふさわしい天罰じゃないか。
今さら大事な人間を犠牲にしてまで、会社にしがみつきたいとは思わない。
「ちょっと後藤、しっかりしてよ、そんな圧力に負けちゃダメだ。」
江口が真剣な面持ちで俺を諭す。
だが、そんなふうに気を使われるのが苦痛だった。
さっさとクビになって、しがらみを断ってしまいたい。
いっそ修行僧にでもなって俗世間とかかわりを断ってしまおうか。
「とにかくあたしが何とかするから、自棄にならないで。ね?!」
だからどうだっていいって。
そんな俺の気持ちをお構いなしに、江口は自分の言いたいことを言い終えると、ばたばたと忙しげに去っていった。
クビになるのだろうか、それとも「ウラジオストク支社」とか「ケープタウン支社」とかに配属になるんだろうか?
今となっては、何もかもがどうでもよかった。
俺は投げやりな気持ちでデスクに戻った。
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