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第19話

「点数にならないって……ジャンプ、何度も成功させてただろ、」 「同じ種類のジャンプは本当は何度も跳んじゃいけないんだ。得点どころか減点対象になる…」 にわかには信じられなかった。 あれが、あんなにも心揺さぶられたものが評価されないなんて。 「っ、でも最後のジャンプなんてあんなに綺麗に、」 「……どんなに高く長く綺麗に跳べても、あのジャンプは半回転しか跳んでないから。失敗、扱いなんだ。」 「、」 言葉が出ない。 膝から崩れ落ちそうなほどの脱力感に襲われる。 なんでだ。なんで。どうして。 もやもやと胸の中で燻る感情は怒りに近いのかもしれない。だって納得なんて出来るはずないじゃないか。 規定って何だ。表現に制約なんて…… ――制約のある中で表現するって、苦しくない? そういう、ことか。 そうだ。俺よりも苦しいのは、目の前で眉間に皺を寄せ、泣きながら笑うこいつだ。 その白い頬に指をのばし、伝い落ちる涙を拭ってやる。 驚いて瞬いたその亜麻色を、俺は真っ直ぐに見つめた。 「ゆっくりでいい。お前の抱えているもの、全部聞かせてくれないか?」 「……うん。」 それから俺達は先程のベンチに移動して、しばらく互いに無言でいた。 先程売店で多めに買っていたスポーツドリンクのペットボトルを美鳥に渡して、ありがとうと美鳥が受け取って。それきりずっと会話はない。 何から話せばいいのか。どう伝えればいいのか。乱れた呼吸を整えながら、美鳥は考えてくれているようだった。 俺は無人のリンクをぼんやりと眺めながら、じっとその時を待つ。 「……初めは、嬉しかったんだ。難しい技が出来るようになって、パーソナルベストを更新していって。努力を評価してもらえてるって思った。」 ぽつりと、独り言のように漏らされた言葉に、俺は頷いた。 「でも、試合に出れば出るほど何か違うんじゃないかって思い始めて……」 そうして、美鳥は時折言葉をつまらせながらも話してくれた。 競技ごとに要素(エレメンツ)の種類と回数が決められていること。 要素(エレメンツ)をこなすための構成を組んで、それに合う曲を探す事。 ……それはつまり、得点を取るための表現なのではないかと思ってしまった事。 「……僕の心に響いた曲を、僕のやり方で表現して誰かの心に響かせたい。そういうスケートを僕はしたい。」 俯いて、けれどはっきりと告げたその横顔を視界の隅に捉えながら、俺の視線はリンクに向けたままだった。 目の前に広がるこの場所は、美鳥にとっては競技場じゃない。ステージなんだ。 ようやくわかった。こいつの抱えるものの根本が。 美鳥飛鳥は競技者(アスリート)じゃない、表現者(アーティスト)なんだ。 「四回転(クワドラプル)ジャンプより半回転(スリー)ジャンプの方が人の胸を打つ事もあるかもしれない。……でもそれは、そう思う事は、今まで僕を育ててくれた人達を裏切る事だ。」 膝の上にのせられた拳が、ぎゅっと握りしめられる。 昔、コンクールに出ろと言われた時、俺は断れなかった。周りの期待と、今まで手をかけてもらった恩義と、この先どうしたいのか決めきれていなかった自分の弱さと。 今美鳥が抱えているものは、きっと俺が背負っていたものとは比べ物にならないほど重い。 「ジュニアに留まっていれば、下から登ってこようとしている子達の芽を摘むことになる。去年、15歳になって資格を得て、すぐにシニアに転向すべきだって言われて……僕は逃げたんだ。」 シニアで大会に出ることがどういう事なのかくらい俺にだってわかる。 世界選手権、オリンピック、それは国を背負った戦いだ。一度背負ってしまえば、途中で降りることは今以上に難しくなるだろう。 それでも、美鳥はバレエをやめてフランスから戻ってきた。 「……好き、なんだ。スケートが。スケートじゃなきゃ駄目なんだ。」 悲痛な叫びが胸に突き刺さる。 何てものを抱えてたんだ。 今まで、たった一人で。この細い身体に背負ってたっていうのか。 誰にも悟らせまいとして、僕のわがままだって、笑って。 ぽたりと膝の上に零れ落ちるものを見た時、俺はもう限界だった。 胸の内を叩いていた衝動を抑えられずに美鳥を思いっきり抱き寄せる。 驚きで息を詰め、身を固くしたのにもかまわず、俺は回した腕に力を込めた。 「さ、くらい、く…」 「もう一つのMidoriを作ったって事は、本当はもう決めてるんだろ?」 ぴくりと跳ねた身体は、やがて俺の肩口で小さく頷いた。 「……次の大会を最後にする。だから、最後は僕のスケートを滑りたい。……でも、でも、…」 耳元で聞こえた声は震えていた。 「………………怖い、」 ようやく聴けた心の内に、俺の視界は滲んだ。 それは、全てを裏切る行為だ。 全てを失うことになるかもしれない。 わかっていて、それでも美鳥はMidoriを滑ろうとしている。 たった一人で氷上に立とうとしている。 スケートが好きだから。 ただ好きだから。それだけなんだ。そんな純粋な想いが、どうしてこんなにもこいつを苦しめる。 どうしたら、心から笑えるようにしてやれる。 「……そばにいる。何があっても、俺は最後までお前の味方でいる。」 「…………うん。」 今は、これくらいしか出来ないけど。それでも、美鳥は強く抱き締めたその耳元で、確かに頷いてくれた。そろそろと遠慮がちに伸ばされた手が、俺の背中に回される。 大丈夫だ。そんな確証の無い言葉は口にはできなかったけど、代わりに震えるその背中をゆっくりと撫ぜる。 互いの心音を聴きながら、俺達は長い時間そうして抱き合っていた。

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