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閑話 二人の知らない二人の話

「ねぇ、木崎ちゃんてフルネームどう書くんだっけ?」 「あ?」 放課後の数学準備室。僕は定期的に行っている準備室の片付けに勤しんでいた。 コーヒー代というわけではないけど、いつも入り浸っているこの場所を快適に保つため、要するに八割がた自分の為に時々こうやって勝手に断捨離させてもらってる。 今日は……まぁ、他にも理由があるんだけど。 先生はいつもの事と僕の行動には口出しせず小テストの採点中。突然の僕の問いかけにテスト用紙から顔を上げる。 「なんだ、いきなり。」 「これに必要なの。」 ある程度部屋を片付け終えて、僕は今書類整理の真っ最中。 積み上げられた書類の中から発掘した講習会の出欠用紙をヒラヒラと振って見せれば、あー、と先生は一言呟いてまた視線をテスト用紙に落とす。 「総士だよ、総合の『総』に武士の『士』で木崎総士(きざきそうし)。」 「オッケー。これ、欠席でいいよね?」 「面倒な事は極力やりたくねぇからな。」 一応確認をとってから僕は書類を全て埋めていく。普段ならある程度分類して記入が必要なものはまとめて渡す程度の事しかしていないのだけど、今日は特別大サービス。 サインが必要な書類全てに記入をして、僕はそれら複数枚をまとめて先生の机に提出した。 「はい。あと印鑑お願いしまーす。提出期限今日のやつもあったから、早急にね。」 「マジか。」 「マジだよ。提出BOXが職員室にあったはずだから、帰りに出しといてあげるよ。」 そんなわけで、と僕は準備室を片付けながら発掘していた印鑑と朱肉を先生に差し出す。 なんの疑いもなくそれらを受け取った先生は、採点作業を中断して書類に押印しはじめた。 今日提出の書類が忘れ去られているのを発見したのが一昨日の事。少しでも焦る事で確率が上がるのではと計画の遂行を今日にしてみた。 予想通り、大して中身も確認せずにひたすら印を押していく先生に、僕は気づかれないように息を飲む。 そのまま最後まで気づかれませんように。密かに願いながら僕は先生の隣で押印作業が終わるのを待っていたのだけれど、 「…………なんだ、これ。」 印鑑片手に、先生がピタリと動きを止める。 書類から顔を上げ、僕に突き刺さる視線。僕は逃げるように顔を逸らせた。 うーん、やっぱり甘かったか。 「なんのことかなぁ。」 シラを切ったところでどうにもならない。 先生は押印途中の書類全てに目を通しなおし、視線を泳がせる僕に二枚の書類を突きつけてきた。 「藍原くん?しっかりお前の名前が入ってるんだが?」 「そこは何も考えず押しとこ。」 「押せるか!……またか。また厄介事押し付ける気か。」 ガタンっ、と席を立ち上がり迫り来る書類と先生。 その圧に押されて思わず半歩後ずさってしまったけど、そこは僕だって譲れない。 「その櫻井色(やっかいごと)からの頼まれ事なんだよ。」 「はぁ?」 「美鳥君。何とかしてやりたいんだって。」 僕は突きつけられた書類を先生から奪い取って、逆に突きつけ返してやる。 「話は聞いた!僕も協力するって決めたの!」 ずいっ、と鼻先に書類を押し付ければ、今度は先生が半歩後ろに下がった。 「協力って、お前これなんの関係が……」 「とりあえず資金の確保と色々根回ししやすいようにね。こういうのは僕の仕事っしょ?」 「だからって、俺を巻き込むな!」 書類を突きつけた手を払うように下に落とされ、ずいっと先生の不機嫌な顔が近づく。 「いいか。俺は面倒な事はごめんなんだよ。もう前回みたいに脅されてやらねえからな。」 口をへの字に曲げ、眉間には深ーい皺。 前回は屋上で喫煙なんて素敵な写真を撮らせてもらったからしぶしぶ動いてくれたけど、今回は断固として拒否するつもりらしい。 諦めろと迫るその瞳が如実に語っていたけれど、 甘い。甘すぎる。 残念ながら、僕は勝算のない勝負はしない主義だ。最後のカードはいつだって僕が持っている。 不機嫌マックスの顔を目の前に、僕はニヤリとほくそ笑んだ。 「……(げん)さんに直談判に行ったくせに。」 「な、」 先生の表情を崩すにはこの一言で十分だった。 「おかしいと思ったんだよね。いくら先生でも色の入寮手続きすっぽかすなんてさ。あの頃美鳥君の事もあって、手一杯だったわけね。」 厄介事押し付けてごめんね、と満面の笑みで一言添えてやればぽかんと開いた口元がわなわなと震える。 「お、おま、なんでそれ…」 「所属のない美鳥君に名前を貸してやってほしい。練習に使うリンクの使用料は払わせてほしい。……先生だけじゃなくて生徒さんからも同じこと言われるとはなぁって、源さん笑ってたよ。」 色と美鳥君から話を聞いて、はや三日。 その間僕は状況を整理し、出来ることを模索し、当然畔倉アイスアリーナにも顔を出した。 まさか、既に先生が進めてくれていたのは想定外だったけど。お陰様で手続き等の代行はやらずにすみそうだった。 「先生個人からじゃなくて学校からのお金だからって言ったら、源さん受け取ってくれるってさ。」 ダメ押しで告げてやれば、先生は気まずそうに視線を泳がせる。 こういう人なのだ、木崎総士(きざきそうし)は。 だからこそ、僕はこの人を信頼しているんだ。 はい、と再び手にしていた書類を突きつければ、先生は悪態をつきつつそれを僕の手から奪い取った。 「くそっ、」 乱暴に椅子に座り直し、机に転がっていた印鑑を親の仇のようにグリグリと力いっぱい書類に押し付ける。 「いいか、次からは事前に相談しろ!一人で動くな!」 差し出された書類を僕は笑顔で受け取った。 「木崎ちゃんもね。一人で抱えちゃダメだよ?」 あえてそう口にしてやれば、先生は気まずそうにそっぽを向いて自らの髪をぐしゃぐしゃに掻き乱していた。

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