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第51話

盛大に飲み食いして数学準備室を荒らしまくった激励会という名の馬鹿騒ぎは、結局空が茜色に染まるまで続いた。 このまま夜中までやりたいと(あきら)はごねたのだが、本日の見回り当番である木崎(きざき)がふざけんなと一蹴した事に加えて、美鳥(みどり)が今日の放課後の練習をパスしたことと摂取カロリーを気にして少し走りに行きたいと申し出た事により暗くなる前に解散する事となったわけだ。 「ほら、じゃあ最後に本日の主役のご挨拶〜。」 「へ!?え、あの、」 晃に丸めたノートをマイク替わりに突きつけられ、美鳥がビクリと肩を震わせる。 何となくノリで木崎と共に拍手を送ってやれば、オロオロと俺たちの顔を見回し、ううっと唸りつつ美鳥はその場に立ち上がった。 「あ、あの、本日は本当にありがとうございました。」 深々とご丁寧に一礼し、戸惑いながらもゆっくりと言葉を紡いでいく。 「本当ならいい成績を残せるように頑張りますって言うところなんだろうけど……えっと、後悔しないように頑張ります。」 再度頭を下げる美鳥に、俺達もまた拍手を送った。 俺達にやれる事はやったと思う。後は、美鳥自身の戦いだ。多くの人間から注目されている中で一人で氷上に立ち、評価されないとわかっている演技をする。それがどれほどまでに辛い事なのか、俺達には想像することしか出来ないけど、罪悪感や孤独感、その細い身体にのしかかるものを、少しは軽くしてやれたのだろうか。 当日そばにいてやれれば、それはもっと軽くなっただろうか。 「あの、櫻井君も頑張ってね。」 向けられる笑顔に俺はどこか罪悪感を感じて、適当に返事を返すことしか出来なかった。 「あ、(しき)。ちょっといい?」 準備室の片付けも終わり、そろそろ帰るかと通学鞄を肩にかけたところで晃から声をかけられた。 少し走ってから帰るねと言う美鳥を晃と軽く手を振り送り出し、その姿が見えなくなった途端に鞄の紐を思いっきり引っ張られた。 ぐんっ、と傾いた身体に晃が顔を寄せる。 「っ、なんだよ。」 「ねぇ。……美鳥君と話、してないでしょ。」 痛いところを突かれてぐ、と思わず変な声が漏れる。 予想通りだったのだろう俺の反応に、晃は盛大にため息をついた。 「色々ありすぎてタイミング逃したのはわかるよ。わかるけどさぁ。」 むすっと頬を膨らませ思いっきり睨みつけられれば、俺は視線をそらせ逃げることしかできない。 けれど遠くから地味に木崎の視線も突き刺さってきて、もはや逃げ場なんてどこにもなかった。 「明日には離れちゃうんだよ!?わかってんのかこのヘタレ!」 グッサリと思いっきり心臓を一突きにされ、俺の心はその場に崩れ落ちる。 何一つ言い返せない。言葉にならない呻き声を出す事しか今の俺には出来なかった。 「いい?今日こそ絶対話す事!絶対の絶対だからね!」 「……わかってる。」 何とか声を絞り出しても疑いの眼差しが容赦なく向けられ、針のむしろだ。 目の前で盛大に晃の肩が上下し、これみよがしにため息を吐かれる。 「それから、『誰に』『何の招待』を受けてオーストラリアに行くのか、それもちゃんと話しときなよ?多分美鳥君わかってないでしょ。」 「……だよな。」 別に後ろめたい事などないはずなのに、どうしてこんなにも気が重いのか。 時間が無い。後回しにしたって何も解決なんてしない。全ては自分で蒔いた種で、自分の手できちんと決着をつけなければならないことなんてわかりきっている。 「……時々さ、二人ともぎこちないんだよ。見てらんない。」 ぽつりと漏らされた言葉は、何よりも深く胸に突き刺さった。 「わるい。……ちゃんと、話すから。」 ぐっと拳を握りしめ、俺よりも辛そうに俯くその頭にぽん、と手をのせる。 艶やかなその黒髪をわしゃわしゃと軽くかき乱してやりながら、このままでいいわけないだろうと、俺は自分で情けない自分の背中を蹴り飛ばしていた。 帰路に着く間もちくちくと晃に責め立てられ、満身創痍で部屋に戻った俺は部屋に帰るなりそのままベッドに沈みこんだ。 とにかく美鳥が帰ってきたら声をかけて話をしよう。この間の事を謝って、それから……ちゃんと、伝えないと。 ほんの少しだけ上昇した体温を誤魔化すように俺は寝返りを打ちベッドの上に身を起こす。 机の脇に置いていたスーツケースを引っ張り出し、荷造りを終えていた中身を再度確認する。漏れがないか一つ一つチェックをしてから、俺は荷物の中に胸に挿していたペンと五線紙のメモ帳を加えてケースを閉じた。 荷物を再び机の脇に寄せてから、今度はクローゼットを開き、適当にTシャツを手にして制服から着替えてしまえば、やることが無くなり俺は再びベッドに沈みこむ。 しんとした部屋に自分の心音が響く。とてもじゃないがピアノを弾くような精神状態じゃなくて、俺はただぼんやりと天井を見上げその時を待った。 どのくらいそうしていただろうか。カーテンの隙間から見える空は茜色から薄闇に変わっていて、夜の訪れを告げていた。 がチャリと玄関を開く音がして、俺はその場に飛び起きる。 初めに感じた違和感は、その音だった。 いつもなら玄関が開くと同時に「ただいま」と声がするはずなのに。 バタンと重い戸が閉まる音がして、部屋は再び静寂に包まれる。 「美鳥?」 何かがおかしい。確認しようとその場に立ち上がった時には遠慮がちに俺の部屋の戸がノックされていた。 どうぞと声をかけても反応が返ってこない。ドアの向こうに人の気配は確かにあるのに。 やがてゆっくりと一呼吸分の間を置いてから、ぎぃっと小さく音を立ててドアが開けば、隙間からジャージ姿の美鳥が姿を現した。 「どうした?」 俺の問いに無言のまま俯いて、美鳥は音も立てずにそっと歩み寄ってくる。 「美鳥?」 再度声をかければびくりと美鳥は身体を硬直させる。うろうろとさまよう視線が定まるのを、俺はただ黙って待つしかなかった。 言葉を探しているのだろうか。薄く開いたと思った唇はすぐにぎゅっと閉ざされ、それを数度繰り返す。 やがて、おそるおそる俯いていた顔が上げられ、ようやくその瞳が俺を映した。 「……あの、今下で寮母さんが郵便物を仕分けしてて。少し手伝ってきたんだけど、」 弱々しく漏れ聞こえた言葉は、けれども意味がわからなかった。 寮宛に届いた郵便物は、その日の内に寮母さんが仕分けをして翌日の朝にはエントランス脇にある各号室の郵便ボックスに入れられている。 それは別にいつもの事で、当惑するような事ではないはずなのに。 美鳥は視線をさまよわせ、それからゆっくりと手にしていた一枚の封筒を差し出してきた。 「あの、これ、櫻井君宛なんだけど、ついでだから持ってきたんだ。」 住所が実家から寮のものへと書き換えられ転送されてきたのだろうそれは、ブルーの上質な封筒に金で箔押しがなされている。 美鳥からそれを受け取り、どこからだろうかと封筒を裏返し、そこに記されていた「Wedding」の文字を見た時、俺は全てを理解した。 中身なんて見ずとも、それが招待状である事くらい美鳥にもわかっただろう。 「あの、……今度、櫻井君がオーストラリアに行くのって、」 隠すようなことではなかった。それでも、何となくこいつには知られたくなくて今まで言えないままになっていた事。 「……従姉妹が結婚するんだ。相手は日本最大の音楽レーベルの代表取締役だとさ。」 親族の結婚式。しかも、出席者のほとんどが音楽関係者。挙句にこの婚姻のせいで所属事務所の社長と俺が親戚になるというおまけ付き。 でも多分、今目の前で美鳥を困惑させているのはそこじゃない。 「あの……差出人、ご結婚される従姉妹さんって、」 か細く絞り出された声に、俺は素直に頷いた。 「そうだよ。従姉妹で、幼なじみの……緑だ。」 封筒に記された櫻井緑(さくらいみどり)の文字は、互いにとって無視をするにはあまりに重すぎる名前だった。

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