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第72話
この熱にまた触れられた。その事実が心音を加速させる。
触れて、溶けて。
重なる唇から分け合う熱は、互いの境界線を曖昧にしていく。
「ん、……し、き、」
あの日、もう二度と触れられないと思っていたはずの存在が腕の中にある。白磁の頬を朱に染めて、濡れた亜麻色が求めるように俺を映す。
言葉を聴けただけで、身体の内に満たされていくものを確かに感じていた。
それなのに、同時に満ちていけばいくほど喉が渇いていく。
欲しい。もっと、もっと。境界線ごとドロドロに溶かして、混ざり合いたい。
渇きを満たしたくて明確な意図を持って食むようにその唇を奪えば、腕の中の身体がびくりと跳ねた。
小さく震え、身体を強ばらせた飛鳥に咄嗟に我に返って肩を掴み身体を離す。
「あ、……ごめん。」
不安そうに向けられる視線に、俺は両肩からも手を離し自らの髪を掻き乱した。
「そう、だよな。ごめん、もう触れないから。」
言葉を、気持ちを貰えたとはいえ、あの夜の事実が消えるわけじゃない。触れるより先の行為は、飛鳥の中で恐怖という傷として刻まれてしまっているんだろう。もしかしたら、それは一生消えるものじゃないかもしれない。
全て、俺がした事だ。
「あ、あの、違うんだ。あの、本当に、気持ちに嘘はなくて、」
「わかってる。今はさ、こうして近くにいられるだけで十分だ。」
多くは望まない。望む資格は俺にはない。
大丈夫だと口の端に不器用な笑みを乗せてその髪を撫ぜてやれば、飛鳥の顔が悲痛に歪んだ。
「あの、……」
その手が、俺のシャツの裾を引く。
「……怖い、んだ。でも、その、」
その、あの、と繰り返されるばかりで出てこない言葉。
苦しそうに顔を歪め、強ばる身体が半歩近づいた。
離れたはずなのに、あっという間にまた俺たちの距離がゼロになる。
触れるだけの口づけ。
驚きで身を硬くした俺を亜麻色が見つめた。
「怖い、けど……触れたい。もっと、色に触れていたい。」
真っ赤に染まった顔は、今にも泣きそうだった。
都合のいいように解釈していいんだろうか。同じものを求めてくれていると、求めていいんだと。
「……嫌なら、突きとばせ。」
肩を掴んで抱き寄せ再び唇を重ねれば、飛鳥は突きとばすどころか俺の背中に手を回し、自ら閉じていた唇をうっすらと開いた。
誘われるままに舌をさし入れ、飛鳥のそれを絡めとる。
抱き寄せる身体は小さく震えていた。それでも、必死に俺の舌に絡み付いて応えようとしてくれていて、酸素を求めて鼻から抜ける吐息は甘く身体を痺れさせる。
満たされていく。だけど、飢えを感じる。
こうしていられるだけで十分だ。でも足りない。
隣にいる、それだけでいい。でも、もっと近くに。
触れられた。触れたい、もっと、もっと。
ぴちゃぴちゃと鼓膜をふるわせる水音、溶け合う熱に甘い吐息。全てが思考を狂わせていく。いったいどれくらいそうしていたのかなんて、霞がかった頭ではわからなかった。
互いに夢中になって貪りあって、口の端から飲みきれなかったものがこぼれ落ちていく。それでも離れ難くて口内の熱い塊を吸い上げ、歯列の裏をざらりと舌で撫で上げてやれば、耐えきれなくなった飛鳥の膝がかくりと脱力した。
「ぁ、……」
俺は崩れ落ちそうになる身体を支えて、そのままベッドに横たえる。
熱を含んだ荒い息。肩を上下させながら、とろんと濡れた瞳が俺を見上げる。
抱きたい。
自分の中にある凶悪な感情が胸の内で暴れ始めているのがわかった。
傷つけたくないのに、組敷いて鳴かせたい。ぐらぐらと揺れる感情に奥歯を噛み締める。
「……本当に、いいのか?」
この先に踏み込んだら、あの時と同じように自分で自分を止められなくなる気がする。自分の欲望を一方的にぶつけて、飛鳥を傷つけてしまうんじゃないか。それが、何よりも怖かった。
だけど、飛鳥は真っ直ぐに俺を見上げ、口の端に笑みを浮かべる。
「色、あのね…………僕の、バッグ、」
突然告げられた言葉の意味がわからず、俺は背後を振り返った。
先程飛鳥の肩から滑り落ち、その場に放置されていたスポーツバッグ。俺はとりあえず肩紐を掴みバッグを手繰り寄せる。
「その、あの、……藍原くんから、あずかってて、その、」
飛鳥は自らの顔を両手で隠し、それ以上は言葉にならないようだった。
わけのわからないまま、俺は足元に手繰り寄せたバッグを開いてみる。中には飛鳥の着替えに、タオルに、スマホに……それから、見覚えのある黒猫のイラストが描かれた小さな巾着袋。
晃のものだろうその袋を開いて中身を目にした瞬間、俺の血液は一瞬にして沸騰した。
「えっと、これ……」
飛鳥の顔を覆う指の隙間から、ちらりと亜麻色が覗く。
「その、………………触れ合いたいって思ったら、色に渡すんだよって、」
「っ、」
消え入りそうな小さな小さな声。けれどそれはしっかりと俺の耳に届いた。
液体の入った小さなボトルに、キャンディーみたいにカラフルなパッケージの避妊具。それは、飛鳥の明確な意思なわけで。
「怖い、けど……触れてほしい。足りないんだ。もっと、もっと、近くがいい。」
羞恥に震える声は、それでもしっかりと気持ちを伝えてくる。
独りよがりじゃない。一方的じゃない。同じ気持ちなんだと。
「飛鳥……」
手にしていた袋をヘッドボードに置き顔を覆うその手をとれば、指を絡めて握り返してくれた。
じんわりと指から伝わる体温に、凶悪な感情が凪いでいくのを感じる。
「……抱き合いたい。」
俺の言葉に、飛鳥は小さく頷いてくれた。亜麻色が恥ずかしそうに左右に泳ぐ。
「でも、あの……電気は、消してほしい、です。」
可愛い願いに思わず笑みが浮かぶ。
望み通りヘッドボードに片手を伸ばして照明を互いの顔が見えるギリギリまで落としてから、俺達は薄明かりの中でまた唇を重ねた。
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