1 / 30

第1話

 六月の満月の夜の海で、二宮奈津は古淵海未に出会った。  遠浅の砂浜に荷物を置いた海未は、履き古したスニーカーで、黙々と波打ち際に歩み寄っていく。ちゃぷ、とスニーカーの爪先に海水がかかる。波が寄せると一歩退いて、波が返すと二歩進んでいく。そうやって海未はいつの間にか踝まで海中にいた。六月の海はまだ冷たい。夜なら尚更だ。  なのに海未は進んでは退いて、を繰り返して沖合を目指していく。いつの間にか膝下まで海水に浸かっていた。  変なやつだな、と思っていた奈津も、さすがに声をかける。 「ねえ、上がって来なよ。風邪ひくよ」  乾いた砂浜からかけた見ず知らずのやつへの声は、届いただろうか。満月が海未の明るい色の髪をきらきらと照らす。少し長めの髪はヘアピンで留めているらしい。器用だ。  遠目では男だか女だかよくわからない薄い骨格の海未は、可愛らしい笑顔を作って、奈津に大きく手を振った。  こっちにおいでよ、と手招きしないので、新手の幽霊の類いじゃないんだろうな、と奈津は思う。 「     」  海未が何か言ったけれど、聞き取れない。そしてそのまま後ろ向きにざぶざぶと沖合を目指していく。もう腰近くまで波が来ていて、これはバランスを崩したら簡単に溺れてしまうんじゃないだろうか。 「ねえ」  もう一度奈津は、彼を呼ぶ。返事はない。  仕方がないので、奈津は手持ちのトートバッグにスマートフォンをしまって、それを砂浜に置くと、砂浜を蹴った。買ったばかりのスニーカーの中に砂が入って、不快だ。波打ち際まで小走りで行く。足元の砂は波に濡れて、じゃりじゃりと音を立てた。ここから海未までは三、四メートルはあるだろうか。 「ねえってばっ」  もう一度呼ぶ。けれど海未は相変わらず止まることなく沖へと後ろ向きに進んでいく。下半身はすっかり海の中で、Tシャツの裾が波に揺れていた。それが不意に、背中から倒れた。とぷん、と大きなしぶきが立つ。 「え」  突然のことに奈津は呆然とする。ただ数秒遅れて、服を着ていると沈みやすいんじゃなかったか、ということに気付いた。慌てて奈津はざぶざぶと海水を掻き分けて、海未の沈んだあたりを目指して行った。奈津の腰あたりの深さまで進むと、そこに海未が沈んでいた。 「大丈夫?」  差し出した奈津の腕を、海未はぎゅっと握った。幽霊みたいに冷えた手だった。線は細いけれど男の手だ、と思った途端に、思いっきり繋いだ手を引かれた。 「うわっ」  奈津は海水の中に引きずり込まれる。やっぱり六月の夜の海は冷たい。全身がぞくりとする。しかも口の中に海水が入る。鼻の中にも入って、痛い。海中には海未がいて、透きとおるような肌に、くっきりとした二重目蓋に大きな瞳で奈津を見ていた。ヘアピンがずれたのか、少し長めの髪がふわり、と海中を浮く。  ああ、人魚ってきっとこんな感じ。  そう思った矢先に、奈津は海未にキスされた。

ともだちにシェアしよう!