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第28話
昼過ぎ、奈津は大学裏のカフェを目指していた。煉瓦造りの二階建てで、壁一面に見事に蔦が茂っている。
正直に言うと、ちょっと緊張していた。手のひらに薄っすらと汗をかく。けれどそんな奈津の事情などお構いなしに、自動ドアは開く。
「いらっしゃいませ」
少し長めの髪を器用にヘアピンで留めた海未が、営業用の笑顔と声で迎えてくれる。
「こちらメニューです。お決まりになったらお呼び下さい」
席を案内して、メニューを手渡すと、海未は奈津から離れようとした。それを慌てて呼び止める。
「すみませんっ、バリスタの指名ってできますかっ?」
奈津の言葉に、ぷは、と海未は吹き出した。
「特別です。できますよ」
あくまでも海未は仕事用の顔でいくらしい。すぐに澄ました顔をした。奈津ばかり緊張している。
「じゃあ、海未くんに、お願いします。柄はお任せします」
ちょっとだけ海未の頬が緩む。「了解しました」
「推しバリスタですか?」
意地悪な質問をされた。
「推しバリスタで、彼氏なんです」
予想以上に照れて、頭を掻いて笑って誤魔化そうとする。けれど奈津以上に海未が顔を真赤にしていた。
「承りました」
急いで席を離れる海未を、もう一度呼び止めた。「それと、これ、渡して下さい」
さっき作ってきたばかりの合鍵を、海未の手の中に落とした。
*****
こうして人魚は泡になって消えませんでした。
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