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【第1部 竜の爪を磨く】2.大物狙いの狩猟者

 もうすぐ俺が死んだ日が来る。  手のひらに転がした〈地図〉を観察しながら俺の頭をよぎったのはそんな言葉だった。透明な媒体(メディウム)のなかに、白い円盤が浮いている。表面には紅い点が等間隔に配置され、側面は白色と焦茶の層。まるでチョコレートと生クリームをかさねたケーキのミニチュア。  ハッピーバースデー。  つまり俺がこの世界に生まれた日。同時に、前に生きていた世界で死んでしまった日。 「戻ったばかりで悪いな」  イヒカが通りすぎざまにそうささやき、会議室へ入る。数年前までここは小規模な通信基地にすぎなかった。戦略的な地の利から作戦本部を設置したのはいいが、全体的に手狭な印象で、前室につづく会議室も狭かった。  俺は他部隊の下士官にまじって前室の壁際に立っている。腹が減っていた。出動から帰って、ツェットの世話をして、自分は水を飲んだだけだ。  他部隊の連中がいなければ立ち食いでもしたいところだった。いくらバースデーケーキに似ていても〈地図〉は食えない。これはさっきの出動で俺が精製した竜のもので、戻ったとたんイヒカがよこしたのだ。  俺の上官は誰からこれを預かったなどとうかつなことを口にしなかった。今回のように各軍団が混じる作戦では、あたらしく精製した地図をどの隊が保持するかは微妙なところだ。イヒカに渡したのはアーロンにきまっているが、独断で〈黒〉の団長に渡したのだろうか。 〈地図〉は支配の〈法〉で対象を制圧し、存在の精髄(エッセンス)を凝縮したものだ。〈法〉とは用語を使えばある種の超能力、あるいは超科学、くだけていえば魔法である。常識的な物理法則とはちがう原理に基づいていて、使えるかどうかは個人の素質と訓練がものをいう。帝国で〈法〉は軍人と官僚に必須の能力だ。この世界を人間に最適な環境に保ち支配するために、絶対的に必要な能力でもある。 〈地図〉は帝国の財産だ。個人が所有する許可された複製はたくさんあるが、オリジナルは帝国の所有物である。人間の世界はすなわち帝国の領土なのだから、地図は帝国に所属する。  ――と、少なくとも帝国臣民はそう教えられて育つ。  下士官たちのあいだでふいに小さなざわめきが起きた。俺は横目をむけ、自分のささいな動作をすこしだけ後悔する。黄金、つまり参謀本部から来た三人がつかつかと入ってきたところだ。先頭にアーロンがいた。当然のことながら竜の背中にいるときより顔も姿もはっきりみえた。  最後に会ったのは軍大学の四年目、あいつが俺に愛想をつかした時以来だから、だいたい六年ぶりだ。軍服の襟と袖に黄金の線がきらめいている。他部隊の下士官が注ぐ物珍しげな視線に臆した様子はまったくなかった。学生時代の未熟な雰囲気は完全に消えている。長身はあいかわらずだが、胸や肩は以前より厚くなったようだ。唐突に軍大学の制服が頭に浮かんだ。詰襟の上の喉仏、シャツの下で動く筋肉、ずっと忘れていたあいつの匂い。  俺の喉が勝手に動いて唾を飲みこむ。無意識に〈地図〉を握りしめ、手のひらの皮膚を押しかえすキューブの直角をなぞる。あきれたな、と内心がささやく。この世の神がおまえに課した計画に乗るのは嫌なくせに、まだ未練があるみたいじゃないか。  まさか。俺は壁に背中をつけ、直立して待つ他の下士官の視線を無視した。〈黄金〉の連中は、アーロンとその後のひとりが会議室へ入り、最後のひとりは回れ右してこちらに残る。俺は首の通信機をいじり、イヒカのチャネルに合わせた。紅の師団長の指示で定例の報告がはじまったが、目新しい話はない。反乱者の数、双方の負傷者数、巻き添えを食った市民について、捕縛者の移送について。  それにしても、いつものことながら俺は不思議に思う。支配の法と地図で管理されたこの世界は、俺が生まれる前にいた場所とくらべれば一種のユートピアである。なにしろエネルギーや環境問題のような厄介ごとを超科学だか魔法だかで解決しているのだ。にもかかわらず辺境にはいつも反乱の芽があり、軍との小競り合いを繰り返している。俺も生まれたときはそのただなかにいた。  反帝国といっても、反乱勢力は独自の政府を立てはしない。綱引きのように押したり引いたりするものの、帝国の力は圧倒的だった。帝国軍は反乱者を狩るが〈法〉で無力化するだけで殺しはしない。とはいえ人間を〈地図〉化して支配するのは神の禁忌だから、捕まった反乱者は訓練所で矯正されるだけだ。  裏返せば、この世界では人間以外のすべての存在は〈地図〉化して弄れるということでもある。地図さえあれば支配を広げられるのだから、反乱者は帝国の地図を奪取し、新しい地図を作るのをもくろむ。この世界における戦いとは地図の獲得競争なのだ。  いま俺の手の中にある〈地図〉もそんな帝国と反乱者の戦いの結果といえる。安全な家畜となっていた竜の地図を反乱者が操作して新しい竜種を作り出す。俺はその竜種をもう一度〈地図〉にして、帝国の管理下に置く……  俺は地図をお手玉しながら、いつのまにか意識をぼうっとさまよわせていた。いったい俺はこんなところで何をしているのだろう。こんな気分になるのはきまった手順をくりかえしているときが多かった。竜の装具を外したり、俺の〈法〉道具である銃を分解しているとき。でなければ今のようにただ待っている時。 『ひとつ確認したい。今回の出動では竜の再地図化が行われたということだが、地図師は捕縛したのか』  通信機から聞こえた声にはっとした。竜の背で聞いたのと同じ響きだ。アーロン。 『はっ、現在確認中です』  答えたのは紅の下士官で、質問者に反応したのか急にしゃきっとした口調に変わっている。俺は吹き出しそうになる。報告書を棒読みしていたところへ不意打ちをくらったのだ。 『逃げおおせた者がいないかもう一度確認しろ。この地区では「虹」の関与は認められていないというが、本当か?』 『確認できている範囲ではその通りですが……』 「虹」は正体がはっきりしない反帝国主義者の一派である。首謀者は軍大学の落ちこぼれだったとの噂もあるが、いまだに割れていない。最初のころは都市部でアジるだけのやつらだと考えられていたが、ここ二年ほどのあいだに、辺境の反乱にも彼らの影響がうっすら見えるようになってきた。 『地図師は虹が派遣したものでないかもう一度精査するように。今回手に入れた竜の地図もだ。報告は参謀本部へ一番にあげてほしい』 『ああ、それは黒がやる』  イヒカが口をはさんだ。 『その地図はうちの副官が精製したものだ。報告書を急がせておくよ』 『わかりました。お待ちしています』  階級が上のイヒカに対してはさすがの〈黄金〉も敬語になるらしい。もっともアーロンの声が厳しいことに変わりはなかった。軍大学から〈黄金〉に配属されて六年、エリート中のエリートといえるだろう。噂なら俺だって聞いている。優秀さと作戦の遂行で容赦がないことにかけては他の追随をゆるさず、軍の高官である父親のヴォルフともども、皇帝の寵も賜っているらしい。 『「虹」と名乗る反帝国主義者だが、正体をいまだに特定できていない。だがこの半年の作戦を分析した結果、辺境で彼らの影響力が拡大しているあきらかな兆候がある。参謀本部としては早急に首謀者と活動拠点を特定し、憂慮の芽を摘んでおくよう決定し……』  やれやれ、これを告げにはるばる辺境までやってきたのか。俺は手のひらでまた地図を転がした。反乱者をモグラのように叩き潰すという強硬な方針は、俺の養父のルーと真っ向から対立する。孤児だった俺を拾ったルーは、数年前までアーロンの父ヴォルフとおなじ軍の高官だった。退役後は帝都で議員に選出されたが、盟友だったヴォルフとは政治的な見解を異にするようになって、どうやらいまは疎遠らしい。長年の友人同士であってもそんなことは起きる。  もっともルーとヴォルフの政治的な対立は俺には好都合だった。つまりそれはことを意味するからだ。とはいえ俺はアーロンと対立したいわけじゃない。単に無関心でいてほしいだけだ。俺があいつに関わらなくていいように。あいつが俺を気にしなくてもいいように。  帝国軍人は臣民の憧れの職業だが、俺が士官学校を経て軍に入ったのは、この世界で〈法〉を使える人間は軍人か官僚になるのが「普通」とみなされていたからにすぎない。官僚を選ばなかったのは|前《・》の人生の記憶のためだった。俺の忠誠心は一般的な軍人からはズレたところにある。  しかしどんな世界にもハズレ者はいる。じつは〈黒〉には俺のようないいかげんな忠誠心の持ち主が多い。帝国はある意味よくできた組織なのだ。特殊師団である〈黒〉は〈灰〉と同様に皇帝直属の組織で、他の軍団に居場所のない〈法〉能力者を預かっている。  そういえばもそうだった――と俺はぼんやり考え、そのあいだに会議は終わった。  将官たちがぞろぞろと会議室を出てくる。俺はイヒカを待ちながら、またも手のひらで地図を転がしていた。影がさして、顎をあげるとあいつがいた。ほんの二メートル先に立っている。  アーロン。  俺に気づいているのかいないのか。気づいていたって話しかけてはこないだろう。そんなことをするはずがない。俺は視線をそらし、気づかないふりをする。 「エシュ、待たせたな」  心なしか疲れた表情のイヒカがぽんと肩に手をおいた。 「食事は?」 「まだにきまってるでしょう。休めたのは竜だけですよ」 「私の部屋には参謀本部から帝都の土産が届いてる」 「まともな食いものであることを願いますね。俺は腹ぺこなんです」 「心配するな」  部屋を出ながら視線をめぐらせたが、黄金の線がきらめく軍服は廊下のずっと先を歩いていた。とたんにみっともないほど大きな音を立てて腹が鳴った。イヒカが愉快そうに笑った。 「育ち盛りだな」 「もちろん、あなたにくらべれば」 「竜なみに食えるうちが花だよ」  アーロンの背中はすぐに視界から消えた。二度と見なくてすむことを願ったが、腹の底から腰のあたりまでむずむずした。空腹のせいにちがいなかった。アーロン、俺はおまえに関わりたくない。

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