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【第1部 竜の爪を磨く】3.競争のゆるい池
俺が所属する〈黒〉は皇帝直属の特殊師団である。実際は大隊程度の規模でしかないのだが、それでも師団とされている。団長であるイヒカの身分と階級のせいかもしれないし、他の軍団と並べたときに釣り合いをとっておきたいという、皇帝の単なる趣味かもしれない。
一般市民向けの解説では、帝国軍は黄金、紅、萌黄、碧、青藍、紫紺の称号を持つ軍団と、皇帝直属部門である灰の七つで構成されていることになっている。称号はそのまま各軍団旗や紋章に使われていて、謁見式でならぶと綺麗なものだが、見ての通りここに〈黒〉はない。
なぜなら俺たちは秘密の即応部隊で、六つの軍団の影のようなものだから。呼ばれれば即座にどこへでも行き、ほとんどの場合は他の軍団の手にあまる「地図化」を引き受ける。というわけで〈黒〉は年がら年中、帝国の各地を飛び回り、帝都に戻ることはめったにない。
利点? 各地の特産品目録を丸暗記している隊員がつねにいること、各地の帝国軍基地と出入り業者になじみをもてること、などだろうか。
今回の作戦本部が置かれた基地はもとは軍用ではなく、かつてこの地の有力者が建てた、砦とも館ともつかない建物を改造したものだ。短期間であっても〈黒〉は何度か派遣されているから、兵舎や竜の厩舎の勝手もわかっていた。
「そう、蝶のようにひらりひらりとね」
「蝶……でありますか?」
すでに日は沈み、外は暗かった。割り当てられた兵舎の廊下に足を踏み入れたとたん、すぐ先で開けっ放しになった扉からシュウの声が聞こえてくる。俺は通りすぎざまに中をのぞく。黄色い明かりに照らされた部屋では紫煙が天井のあたりでとぐろをまき、日課をおえた隊員たちがいくつかのテーブルに散らばっている。シュウは三十日前に採用された新入り、フィルとのんびり一服している。
金髪をごく短く刈ったフィルは軍大学を出て半年で〈黒〉に来た珍しいケースだった。ここの「新入り」が実戦経験のない新兵であることはめったにないのだ。しかも礼儀正しく控えめで真面目な性格ときているから、シュウはフィルに対してやたらと先輩風を吹かせたがる。もっともフィルは新兵のくせに老成した雰囲気と顔立ちで、一方シュウは童顔だから、はたから見ていると妙にほほえましい。
「そ、ひらりひらりとめぐるわけ」
「めぐる? 何を……」
「野暮なことをきくなって。あちこちに馴染みの花がいて……」
それにしても、今日はまた何を吹きこんでいるのか。俺は戸口に立ったまま声をかける。
「シュウ、つまらんことを教えるなよ」
「お、エシュ。副官殿のお戻りか」
シュウは俺をみて大げさに腕をふった。
「飯がおわってるならカードでもどうだい? フィルも一緒に」
テーブルの上には竜の文様が入ったカードが散らばっていたが、俺は首をふる。
「飯はこれからだ。今日精製した〈地図〉の精査を明日の朝いちで頼む」
「それが会議の結果?」
シュウはうんざりしたように眸をみひらいてみせた。ところが実際は仕事大好き人間で、ことにあたらしい〈地図〉に関してなら他人をおしのけてでもやるだろう。だいたい、黒へ入るのはそんな地図狂 ばかりなのだ。
「飯がまだだって? 食堂がおわるぞ」
「いや、団長のところへいく」
シュウは訳知り顔でにやっとした。「仲良きことは美しきかな」
どこかで聞いたような言葉だった。どの世界でも似たようなフレーズはあるらしいが、今は言外の意味も無視するにかぎる。かわりに俺はテーブルのカードに向けて人差し指をふる。
「ほどほどにしとけよ。身ぐるみ剥ぐな」
「信用ないなあ。僕は新兵から小遣いを巻きあげたりしないよ」
「おまえじゃない、フィルにいった」
「え? あのねえ――」
不満そうなシュウの声を背後に聞きながら、俺は廊下を先に進んだ。
「もうすぐ誕生日だろう? エシュ」
「誰に聞いたんです」
「私は団長なんだ。隊員の誕生日くらい知ってる」
〈黒〉が他の軍団より格下だとしても、イヒカの部屋はゆったりしていた。執務机、長椅子に小さなテーブル、食卓には椅子が二脚、ベッドの横には目隠しの衝立。手狭な基地内とはいえ、一応は幹部クラスの俺の個室――ここの続き部屋だ――がベッドと小さな机でいっぱいなのを思えば圧倒的な差である。さすがに給仕はいないが、食事は他の隊員より上等だし、量の融通もきくらしい。ひとりの食事はつまらないといって、作戦が一段落するたびにイヒカが俺を呼ぶのはよくあることだった。
というわけで俺はイヒカと向かい合っている。黄色い根菜のポタージュと、崩れそうなほど柔らかく煮た竜肉を食べた後、イヒカが「帝都の手土産にもらった」といってぽんと出したのは四角い紙包みだった。開けると蒸留酒と果実が香るケーキが登場した。
「ヴォルフの伝言では今日あたりがちょうどよく熟成しているだろう、とのことだ。ナイフがいるな」
イヒカはヴォルフ将軍を平気で呼び捨てにする。昔なじみか戦友か、そんな関係らしいが、詳しい話は聞いたことがない。
「つまりこれはヴォルフ様から?」
「ああ。奥方の手製らしいが、売れるほど作っているからと。飲み物はどうする? 飲みたいものを出そう」
俺はブーツから抜いた小刀をナプキンで拭った。
「まさか、誕生日祝いですか」
「まさかじゃない、その通りだ。親愛なる副官のためなんだから……」
イヒカはそういいながら執務机の方へ首をめぐらせ、立ち上がった。長身で痩せぎすで、金髪が骨ばった肩にかかっている。年齢不詳の面立ちは一番最初に出会ったときからほとんど変化がないような気がする。唯一はっきりわかるちがいは右膝の不自然な曲がり具合だ。過去の戦闘が遺したもの。だがイヒカは熟練した〈法〉の使い手だし、公の場では後遺症があるようにはけっして見せなかった。
「あなたがそんな調子だから隊員が誤解するんですよ」
「ん?」
「あなたと俺がデキてると思っている」
「なんてことをいうんだ、エシュ」
ぽうっと丸い光がイヒカの指のあいだに宿った。執務机の奥のキャビネットをひらき、中から背の低い瓶を取り出す。短い首の上に竜の頭をかたどった栓が嵌っている。
「私ときみはとっくにできあがってるよ。十年も前に。そしてほら、こいつは二十年物だ」
「一度だけじゃないですか」
俺は肩をすくめ、小刀でケーキをカットした。同じような会話をこれまで何度やっただろう。
「だいたいあなただと知ってたら誘わなかったし、誘われても乗りませんでした」
「ああーまったく! そうなんだ」
イヒカは瓶の首を握ったまま芝居がかった声をあげて嘆いた。
「みんなそういう。おかげで私は孤独だ。あのときはきみも中途半端なまま飛び出していったし」
「いいかげん忘れてください。瓶、ぶつけて割らないでくださいよ。もったいない」
即座にイヒカは表情を戻した。「当然だ。こいつは高い。竜石入りだからな」
俺はケーキを皿に盛り、イヒカが食卓に置いた酒瓶を横からのぞいた。
「酒瓶の竜石なんて単なる飾りでしょう。意味あるんですか?」
「竜石はもともと、竜が消化のために飲みこんだ石が体内で変化したものだ。つまり竜の分泌液に耐えて磨かれた宝石。それをさらに上等の酒に漬けて二十年――酒精も竜石を変化させるからな。この瓶を空にしたとき、最後にあらわれる一瞬の輝きを想像してみなさい」
「贅沢な遊びですね」俺はイヒカの前に盃をふたつならべた。
「俺は石はいりませんが、水気は欲しいです」
「まだ若いからな、エシュは」
注がれた液体は深い琥珀色だった。瓶の首の竜をのぞきこもうとすると、すっと伸びた手に遮られた。
「たくさん飲むもんじゃない。毎日飲むものでもない。誰かの誕生日か、誰かの命日か……記念日の酒だ。そのお菓子を持ってきてくれ。長椅子で飲もう。そうそう、水気といえば……」
何かをはぐらかされたような気がしたが、何なのかわからなかった。イヒカとの初対面は十年前、きちんと名を知ったのは六年とすこし前だが、そのあと俺が彼を上官と呼ぶようになったのはほとんど自然ななりゆきだった。
イヒカは〈法〉に関しては地図の精製にも使用にも長けたオールラウンダーだ。個性の強い〈黒〉の面々をうまく操縦する名指揮官でもある。だがごくたまに、俺はイヒカに奇妙な空気を感じた。疑念というほどのものでもない。しかし時にふと、イヒカの背後が深い霧に覆われていて、何かが——何か厄介なものがそこに隠れているような気がして、落ちつかなくなる。
団長ともなれば、軍の高官や議員、それに宮廷とつながりがあってもおかしくはなく、俺ごときに読めない内面があるのも当然だ。不安に思うわけではない。ただ、どこか奇妙だと感じるだけだった。
俺はケーキの皿を長椅子の前のテーブルにのせる。イヒカはもう長椅子に座って、横の座面をぽんぽん叩く。俺が座るとみるからに機嫌よくフォークをとりあげた。餌をもらったツェットのようだと俺は思う。食事中はそんなことは思わなかったのだが。
「うん、美味い。それでエシュ、水気の話だが」
「何ですか」
「今日来た参謀将校の彼、昔の男だろう」
は?
「何をいって――」冷静に返したつもりだった。だが次の瞬間、俺の気道にはケーキが無慈悲にとびこんできた。むせてゲホゲホいう俺の背中をイヒカが叩いた。
「こら、エシュ、しっかりしろ。もったいない」
「ったく、あなたのせいじゃないですか。それに水気の話って……」
「血の気といったほうがいいのかな」イヒカは平然と盃をなめている。
「久しぶりの再会か」
「もちろんです。不意打ちでした」
「どちらも帝国軍人なのに、顔を見ることもなかったのか?」
「あたりまえでしょう。俺は黒だし、あっちは黄金だ。帝都ですれちがうこともない。とっくの昔に終わってます」
俺は気をそらすためにありがたく盃をなめ、驚いてまたむせそうになった。さすが二十年物。こんな風味の酒は飲んだことがない。
イヒカは俺をさぐるようにみた。
「それなら合同作戦も問題ないか」
みぞおちのあたりがぎゅっと引き絞られるのを感じた。
「次の?」
「ああ。〈黒〉は〈黄金〉のアーロンの指揮下に入る。昔の男にあれこれいわれるのをエシュが嫌がったら困ると思ってな」
アーロンの指揮。
「馬鹿馬鹿しい」俺は軽い口調でいった。
「俺は軍人です。上の命令には従いますよ」
「どうして別れたんだい?」
イヒカの手が伸びて俺の髪を撫でた。犬でも撫でるような調子なのでそのままにしておく。
「わかっているでしょう。俺があまりにもひどい男だからです」
「そうだな、たしかに。私が何度誘っても断るくせに、各地の厩舎の連中とは仲がいい」
「〈碧〉は同僚と関係を持つのを禁止しています」
「規則にこだわるなんてきみらしくないぞ。そもそも規則で同僚との色恋を禁じているのは碧と灰くらいだ。黄金ですら禁止はしていない。さらにもうひとつ、私はきみの上官だ」
俺はイヒカの手首をつかんだ。
「命令であれば従いますよ?」
イヒカはわざとらしいため息をつく。
「あーあ。またフラれた」
「あなたはふざけているだけですから」
盃はあっという間に空になってしまった。俺は未練たらしく盃のもりあがったふちを舐める。誕生日祝いといわれたが、たしかにめったに味わえるものではない。
「エシュ」
盃を置いて立ち上がるとイヒカの腕が伸びてきた。
「厩舎で遊ぶのはかまわないから、いつものようにキスしなさい」
俺は黙って上官の首を抱き、ひたいに口づけた。そしてまた名づけようのない感覚に襲われた。なぜだろう。六年もこの隊で過ごして、ここはすっかり俺の|故郷《ホーム》になってしまった。そのせいか。
イヒカが食卓を片付けるよう伝声管ごしに命じるのを聞きながら、自分の個室につながる扉をあける。厩舎について言及されたのは意外だったし、いささか困惑してもいた。黙認されているのはわかっていたが、面と向かって許可されるとは。〈黒〉は団長以下すべての隊員が規格はずれの異端児で、こんな処遇も異端児ならではといえるかもしれない。
窓の外では石の壁が巨人の足のように立ち上がり、夜闇を照らす橙色の明かりにぼうっとふちどられている。石壁のあいだの通路は厩舎へ続いている。この基地の厩舎は館をぐるりと取りまいていて、相当な広さなのだが、合同作戦のために集まった竜を迎え入れた今は満杯にちがいない。俺の竜、ツェットはもう眠っただろうか。
俺はベッドに腰をおろした。ブーツを履き替えようとかがんだとき、ケーキを切った小刀をイヒカの部屋に置き忘れたことに気がついた。
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