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番外編SS それは天が張り裂けるほどの

第1部「竜の爪を磨く」3話のイヒカ視点の小話です。『狩りの夜』の回想も含みます。同人誌書き下ろし分の再録。  ***  透明な羽根を背負った妖精の少女の隣を長いマントの魔術師が歩き去った。例年のことだが、なかなかの見ものだ──高い位置から大広間を見下ろしながら、そうイヒカは思った。  きらめく剣を腰に差した騎士が鹿の角をいただく精霊と話している。白と薔薇色のニンフがふたり、イヒカをちらりとみて通り過ぎる。古めかしい意匠で飾られた館の中は奇抜な仮装に身を包んだ学生でいっぱいだ。在校生はこの日のために手のこんだ衣装を準備し、卒業生はさらに〈法〉の幻影(イリュージョン)で覆っている。  彼らのような年齢のころから、イヒカはこんな幻影を見抜くのが得意だった。戦闘の後遺症で足をひきずるようになったいまも、この天賦は消えていない。本物そっくりの鹿の角をみつめると、しだいにちらちらと揺らめく光輝の塵がみえてくる。  つまりこれは本当の意味で私の能力というわけだ、とイヒカは思う。神の「手」に動かされずとも、おのれの意思でやれることはまだあるわけだ。  とはいえ、我々にとって意思とは何なのか? 役割のあるところ、やるべきことがある……「手」として皇帝に侍ること、寄せてはかえす波のように永遠につづく辺境との争いの中で〈黒〉を率いること──それを自分の意思でやってきたと断言できるか?  イヒカは周囲をみまわし、空虚な気分のまま薄ら笑いを浮かべた。館は喜びと期待であふれているが、イヒカには無縁だ。腕のひとふりで幻影を剥がすことだってできる──もちろんそんな無粋な真似はしないけれども。なにしろ今夜、幻影をまとって遊べるのは卒業生だけの特権なのだから。かりそめの舞踏会、あるいは狩りの夜。こう名付けられた今夜は士官学校の学生が一年で唯一、羽目をはずせる夜である。  招待状には誰もが何らかの仮装をするよう指示されていたから、イヒカも一応それらしいものをつけている。いにしえに存在したとされる竜の足をかたどった装具を衰えた膝に装着しているのだ。この広間にいる誰よりも高いところから見下ろせるのはそのためだった。  広間に集まる者のほとんどは今期の士官学校卒業生と彼らを送る在学生だが、彼らにまじってちらほらと、イヒカのようなOB(オールドボーイ)枠の招待者がいる。  とはいえ、イヒカは士官学校を卒業していない。宮廷人から皇帝の側近へあがった者はみなそうだ。イヒカがこの場に招待されているのは皇帝直属の特殊師団〈黒〉の団長特権だ。招待状は毎年届くが、放置されることの方が多い。遊撃や奇襲を得意とする〈黒〉はそれほど暇ではないのだ。 「たまには行けばいいじゃないですか」  今年も招待状を捨てようとしたイヒカをそういって止めたのは副官代理のティッキーだった。 「そろそろ代理ではない副官をみつけてくださいよ。ピカピカの新人にも候補がいるかもしれない」  他の軍団なら上官に対してこんな物言いをすることは許されないが、〈黒〉はずっとこの調子だ。野太い声にイヒカはわざとらしくため息をつく。 「やれやれ、ティッキー。そんなに私の相手をするのが嫌なのかい? 辛いね」 「まさか、俺は器じゃないっていってるんですよ。今の〈黒〉に適任者がいないってのはわかりますがね、あんた、本気で探しちゃいないでしょう」 「そんなこともないさ」  ハッ。ティッキーが呆れた吐息をつくのを背中で聞きながら、イヒカはもう一度招待状をとりあげる。他の軍団のトップは学生たちの憧れの的かもしれないが、彼らのほとんどはまだ〈黒〉の存在すら知らない。皇帝陛下直属の〈黒〉は軍人の栄誉と無縁な部隊だ。  将来の新人に唾つけておくため、毎年のようにこのお遊びに出向くOBがいるのはイヒカも知っている。卒業生には例年、軍属のホープとみなされる者が何人かいるが、無礼講のお遊びは彼らの素のふるまいを知る機会でもある。  それ以外の動機、つまり純粋に趣味としてここへ出向くOBもいる。いつもは規律でがんじがらめになっている学生を、仮面のもとで一夜だけたぶらかすのは、帝都でもめったにない娯楽だ。 「ひょっとしたら、いいのがいるかもしれませんよ。〈黒〉にふさわしい外れ者がね」  ティッキーは無責任な調子でいいつのった。外れ者か。そういえば先日──とイヒカは思い出す。新聞(ジャーナル)に興味深い話が載っていた。とある行政官のスキャンダルに士官学校の学生が関わっていた、といった内容だった。 「外れ者か。まあ、探してみるかな」 「期待しないで待ってますよ」 「なんだって、ティッキー? それじゃ矛盾している」 「あんた、期待したら行かないでしょう。天邪鬼なんだから」  たしかにその通り。とはいえ、膝に故障を抱えた時に失った人員の代わりは絶対に必要だ。どこかで軍人をひとり狩って空席に座らせる必要がある。失われたのが何年も自分を支えていた友であったとしても、こだわりは無用。  というわけでイヒカはこの華やかな空間にいるのだが、たったいま中央ではじまった派手な演武を眺めながら、場違いな自分を内心あざけっていた。  巨大な剣を振る竜の英雄は今年の卒業生アーロン。帝国軍人でもっとも誉れたかい軍団〈黄金〉を率いるヴォルフの息子、卒業に際しては総代をつとめ、今後は軍大学に進むと決まっている。若干十八歳にして軍の高官や宮廷でも名前を知られている有名人──〈黒〉とこれほど無縁な人物もなかなかいるまい。  演武を取り囲むその他大勢の学生の中には、ハッと目を引く者もいる──稀にみる美貌の少年や、きりりとしたまなざしの少女などだ。そろって憧れのまなざしをアーロンに向けているので、イヒカは我ながら感じのわるい薄笑いをうかべてしまう。しかしアーロンに憧れる少年少女には何の罪もない。酒のグラスを手に歓談していたOB連中ですら、アーロンの演武に目をみはっているのだ。  光に彩られた演武が終わり、広間に鳥の羽ばたきのような拍手が響いた。ダンスがはじまれば当然のようにアーロンは中心にいる。  イヒカはおなじ場所に佇んだまま、人の波がいったりきたりするのを眺めていた。ふいに群衆がどよめいた。アーロンが美貌の少年と上品な接吻をかわしたのだ。きっと公認の相手なのだろう。なぜか白けた気分でその光景を眺めたとき、突然イヒカは気づいた。アーロンの視線は接吻の相手ではなく群衆のあいだをさまよっている。  おやおや──イヒカのなかで、好奇心がむくりと頭をもたげる。接吻はただの礼儀にすぎないのか。竜の英雄は他に惹かれるものがあるらしい。  イヒカは広間をみまわした。竜人の幻影(イリュージョン)が目に入ったのはその直後だった。アーロンを囲む輪から遠ざかるように歩いている。  竜人とは──伝説上の生き物から選ぶにしても、これは珍しい。最初の印象はそれだけだったが、次にイヒカの注意を引いたのはもっと実用的な事柄だった。人波の本流に逆らっているにもかかわらず、周囲に溶けこむような、さりげない歩き方は、他の学生とあきらかにちがうものだ。  幻影をまとっているのだから卒業生にちがいない。だが浮世離れした中世的な美貌は学生名簿の中にはない。顔まで幻影で覆うのも珍しいふるまいだ。  イヒカは竜人を追ってさりげなく移動した。それが何かのはじまりだとは考えもせずに。  しかしあとで思い返せば、この夜のイヒカは神の見えない〈手〉にまんまと利用されたのだった。   *  シャンデリアの輝きと手の中のグラス、その向こうに立っている、幻影(イリュージョン)をまとったエシュ──あれが最初だった。  真向いに座る副官をみつめながら、イヒカはあの夜のことを思い出している。 「どうしました?」  怪訝そうなエシュの顔の横で黒髪が揺れる。金色の筋がちかりと光る。 「もうすぐ誕生日だろう? エシュ」  驚いたように目をみはった副官にイヒカは心から満足する。悪い癖と非難されても、こうして驚かすのが楽しいのだ。 「誰に聞いたんです」 「私は団長なんだ。隊員の誕生日くらい知ってる」  正面からみかえすと、エシュの眸が一瞬揺れたように思う。しかし優秀な副官はすぐに立ち直り、冷静な仮面を取り戻した。  これも魅力のひとつだな、とイヒカは思う。〈黒〉の副官はとても魅力的な男だ。快活にして冷静沈着、なのにふとしたおりに激情が仄見え、それがなんともいえない色気になる。帝都でも辺境の基地でも寝る相手に事欠かないゆえんだ。  しかし奔放なようでいて十分な用心深さもある。エシュは絶対に軍人を相手にしない。遊んでいるのは厩舎の男ばかりで、この基地にもひとりいるだろう。  おかげで私も候補から外れてしまったわけだ。  何年も前のことなのに、いまだにあの夜を記憶しているとはおかしなものだとイヒカは思いつつ、副官と同じテーブルにつく。指揮官用のメニューにエシュが手をつけるのを眺めてから、自分の食事にとりかかる。  イヒカはエシュの食事風景を眺めるのが好きだった。礼儀は養父に仕込まれたというが、宮廷人に負けないほど美しい所作だ。生来の運動能力のなせる技かもしれない。  無意味な問いが心に浮かぶ。  あの夜、エシュと最後まで寝ていれば、そのあといったいどうなっただろう?  仮面をかぶった学生を一夜の相手にするだけなら、イヒカはすぐにエシュのことを忘れたにちがいない。  あの夜、アーロンが現れなければ。あのカーテンが風にそよぐことがなかったら?   どれもこれも無意味な問いだった。それは百も承知なのに、今夜のイヒカがあの夜を思い出してしまうのは、ついさっき終わった会議のせいか。いや、〈黄金〉のアーロンを見ている副官の顔をみたから、そしてこわばったアーロンの眸が激しく燃えるのに気づいたから──  エシュ、あれを見たか?  思わずたずねたくなる衝動をイヒカは飲みこむ。もちろんエシュもアーロンをみていた。気づかれないようにと考えたのか、距離をとるように離れたところから──しかしアーロンがエシュを睨むように見た時は、そっと顔をそらしていた。  やれやれ、とんだ恋路だな。  エシュを抱く自分をアーロンが憤怒のまなざしでみつめる様子を想像して、イヒカは皮肉な笑みを浮かべる。今にして考えると、あの時ひとつまちがえればアーロンは私を殺しかねなかった。この男はそれに気づいているのか。  イヒカは竜肉の最後のひときれを咀嚼する。  そのあと数年して再会したときも、アーロンにはものすごい目で睨まれたものだ。当時の彼は軍大学の学生で、エシュとともに城壁事件の渦中にいた。まだ〈黄金〉ではない、ただのアーロン、ひよっこのアーロンだ。  しかしあのころすでに、アーロンの執着は本物だった。イヒカをみつめたのは天が張り裂けるのではないかと悲観する昏い眸で、押し殺した憎しみが感じられた。  無理もない。あのときイヒカはエシュを〈黒〉に誘ったのだ。  そしてエシュはアーロンではなく〈黒〉を選んだ。  あれから何年? 六年か? 〈黄金〉と合同作戦をするとなれば、いったい何が起きるやら──。  内心のつぶやきをよそに、イヒカは帝都から運ばれた包みを副官に押しやる。 「今日のデザートは特別だ。帝都の手土産にもらった」  黒髪の男はさっそく包みをあけ、小鼻をうごめかせた。蒸留酒に漬けた果実がほのかに香る。口元にうかんだ無意識の微笑みをみると、イヒカの心はちょっとしたいたずら心に満ちる。  悪いな、アーロン。この男が誰を想いつづけていようが、今のこの顏を独占しているのは自分だ。  いつか天は張り裂けて地に墜ちるかもしれないが、今夜はまだその時じゃない。  今は、まだ。

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