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番外編SS 竜の乗り手は……
風が吹いている。
アーロンは竜の鞍に腰をしっかり据えたまま、エスクーのハーネスを握り直す。上昇する金色の竜の翼の下に広がるのは辺境の山地だ。アーロンの視界を春の模様が流れる。灰色の岩の筋に緑色と茶色が混ざりあっているが、夕暮れの光の中ではややくすんでみえる。
ななめうしろでツェットが鳴いた。
『おい、やっと飛べたからってそんなにはしゃぐな』
首にかけた通信機を通してエシュの声が耳に響いた。今のアーロンにはツェットの鳴き声の意味がわかる。地表から飛び立ち、風に乗って滑空するのが楽しくてしかたないのだ。エスクーがツェットの声を聞いて喜んでいるのもわかる。アーロンの竜はツェットのように、鳴き声や態度であからさまな表現はしない。だがエシュの竜を気にかけているのはアーロンにもわかる。首をわずかにひねって、ツェットのすぐ横を飛ぶ竜を牽制するように睨んだことにも気づく。
『おまえの竜はおまえにそっくりだな、エシュ』
今度聞こえたのはタキの声だった。ツェットのすぐそばを飛んでいる。竜の名はハイサ、ツェットとほぼ同じ大きさで、体色は青みがかった黒。
『はあ? 俺はこいつみたいなはしゃぎ方はしないぞ』
『嘘をつけ。昔からおまえの飛行は』
タキが何かいいかけた時、ツェットがいきなり前に飛び出した。いや、エスクーの腹の下にすべりこむように滑空し、山肌からあがってきた気流に乗る。同時にアーロンの耳を陽気な笑い声がくすぐった。
『ハッ、アハハハ! ツェット、よく風をつかまえたな! で、俺の飛び方が何だって、タキ?』
『もういい』
『なんだよ、愛想ないな』
『ほっとけ。生まれつきだ』
タキとエシュは幼馴染みだ。気楽なやりとりはそれゆえだとアーロンは理解している。それなのに「面白くない」と感じてしまうのは、おそらく永遠に消えることのない、エシュに対する独占欲ゆえにちがいない。
アーロンは冷静に自分の感情を分析したが「面白くない」ことに変わりはなかった。と、ふいにエスクーの気分がアーロンに触れた。同情すると同時に面白がっている。
「エスクー!」
アーロンは思わず声をあげ、間髪入れずエシュがたずねた。
『アーロン、どうした?』
「……いや、問題ない」
竜と心が通じすぎるのも考えものだ。いや、きっとこれは疲労のせいだ、とアーロンは思うことにした。何しろ早朝に城壁都市を発って辺境へ飛び、岩山のあいだで放棄された竜の巣を探したあげく、また竜の鞍におさまって山地の砦を目指しているところなのだ。これも「竜の巣の試料を手に入れたい」という城壁都市の研究班のわがままが原因である。
「エシュとアーロンなら簡単に採ってこれそうじゃないか」
研究班を率いるシュウはそういったが、さすがのエシュも竜の巣と聞けば、すぐさま首を縦にふりはしなかった。
「シュウ、部下が増えて人使いが荒くなってないか?」
「どうしてさ? 適材適所じゃないか」
「古い巣は辺境民が利用していることもある。竜は説得できても人間が説得できるとは限らないぞ」
「じゃ、タキと一緒に行くってのは? 今は〈黒〉の副官だけど、砦が古巣だろ。僕もイヒカもしばらくいたし、話を通してくれるんじゃ」
「イヒカが承知するならな」
――というやりとりがあり、そして今日の遠出になったのだった。
世界の理が変わっても辺境と帝国の綱引きは消滅したわけではない。山地の砦は反帝国の旗じるしこそ下ろしたが、城壁都市と同様に帝国からは独立している。一帯の鉱山からの産出品が砦を通じて取引されていること、野生竜の孵化場と竜のエキスパートがいることは帝国に対する大きなアドバンテージだ。
今のアーロンは竜と直接意思を通じあわせることができるが――エシュと共にアニマ・ドラコーの胎を出た副作用である――山地に生まれ竜と共に育った人間特有の土地勘はない。タキが同行しなかったら、研究班がよこしたリストを短時間で埋めるのは難しかっただろう。
エシュと共に岩山のあいだを軽々と動き回るタキは、幼馴染み同士の呼吸を思い出したようだ。とはいえ嫉妬するようなことではない。タキはエシュに対して、アーロンと同じ感情は抱いていない。そんなことは百も承知なのに、タキとエシュが話しているだけで、アーロンの胸のうちにはいらぬ競争心がわきあがる。
ピィイイイ!
どこかで見知らぬ竜が鳴いた。砦の物見で旗がひるがえり、エシュは右手を振って合図する。そして弾けるように笑い出した。
『アーロン、聞こえるか?』
「――ああ」
岩山のあいだから竜が何頭も舞い上がる。羽ばたきの音にまじって歓迎の鳴き声が聞こえた。彼らはエシュとアーロンを仲間だとみなしている。同じ孵化場で生まれた竜だと思っているのだ。
竜は気にしなくても、人間はそうはいかない。砦の長老は三人を前に顔をしかめた。
「おまえたち、いったいどこでそんなに薄汚れてきたんだ?」
「空の竜の巣に用があったんだ」と答えたタキも顔をしかめている。「悪いが体を洗わせてくれ。イヒカに預かっているものもあるが、あとで」
「ああ、さっさと行け」
長老はうっとうしそうに手を振ったが、タキのあとにエシュがついていこうとすると「そうだ、ついこのまえ灰色竜を見たぞ」と思い出したようにいった。
「お? どこを飛んでいた? ドルンだけか?」
ふりむいたエシュの顔には晴れやかな笑顔が浮かんでいる。
「北西に向かっていたが、白い仔は見えなかった。すぐ雲の向こうに消えたよ。あいかわらず速い」
「用があるなら呼んでやるよ。俺はまだあいつとつながってる」
エシュは気軽に口にしたが、長老はあきれはてた顔になった。
「そんなことをしたら孵化場がどれだけ大騒ぎになると思う? いいから体を洗ってこい。におうぞ」
ここの風呂には温泉が引いてある。脱衣場でエシュはいちばんに素っ裸になった。
「あいかわらずいい湯だぜ!」
「ガキか」
歓声をあげながら浴場に向かう背中にむかって、タキが聞こえよがしにいった。たしかにこの点は同意しなくもない。
日が傾いて薄暗い浴場には他に誰もいなかった。はじめてこの砦に来たときとちがい、今は簀の子を敷いた洗い場がある。温泉を引いているおかげで湯は使い放題だ。エシュは竜のようにしずくを飛ばしはじめた。
「アーロン、背中流してやろうか」
「いい」
「なんで? ここの湯だとつるつるになるんだぞ」
「今日はいい」
タキがざばっと音を立て、岩を彫った浴槽に入った。わざとらしい飛沫があがるが、エシュは気にも留めず、うつむいて足の爪のあいだをじっくり洗っている。肩甲骨のあいだに濡れた髪が垂れている。
アーロンはそっと目をそらし、桶の湯を頭からかぶった。静かに湯につかると、湯気の向こうにタキの顔があらわれた。
「あいつの竜にそっくりだ。そう思ってるだろ?」
「……たまにな」
「ほんと、ガキのころと変わらな――」
「誰がガキだって?」
エシュがざぶざぶと湯をかきわけ、アーロンとタキのあいだに割りこむようにつかる。タキは大げさに顔をしかめた。
「おまえだ。それにおまえの竜」
「温泉なんて帝都にも城壁都市にもないだろうが。楽しんで何が悪い」
「そうか。せいぜい楽しめ。俺はのぼせる前に出るからな」
湯気の中にタキの骨ばった体が立ち上がる。エシュは両手で湯をかきながらアーロンのそばに寄ってきた。
「タキも適当なことをいいやがって。俺はツェットほど勝手気ままじゃないぞ。たしかにエスクーはアーロンに似ているが」
アーロンは思わず聞き返した。
「は? どこが似ているんだ」
「どこって、そっくりじゃないか」
「そうか?」
「いっとくが、エスクーに似てるっていうのは褒め言葉だ。ツェットに似てるっていわれるのとはちがう」
「……たしかに」
「おい、納得するなよ!」
エシュは口をとがらせ、アーロンの唇には自然と笑みがうかんだ。肩に腕をまわすと、黒髪の男はそのままアーロンにもたれてきた。熱い湯の中で肌が重なる。黒髪から垂れた雫がアーロンの首筋にぽつんと落ちた。
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