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番外編SS にがいかもしれない
空は高く晴れわたり、冷たく乾いた風が吹いている。竜の背から見下ろす夜の城壁都市は大きな宝石がついたリングのようだ。ツェットは早く降りたがっている。俺が帝都でちょっとした買い物をしているあいだ、外の放牧地でさんざん遊んでいたつけがきて、厩舎の止まり木でのんびりしたいのだ。
「まったく、マイペースで自分勝手なやつだ」
わざとらしく口にしてみるが、もちろんツェットは知らん顔。聞こえていないわけじゃない。竜の聴覚や嗅覚は人間よりずっと鋭い。
だから城壁都市へ降下して〈黒〉の竜たちのねぐらに入ったとたん、ツェットは甘えるようにさえずりはじめる。俺を置いてさっさと進んでいく先には金色の竜、アーロンのエスクーがいた。
「早かったな」
アーロンの姿は見えなかったが、俺はエスクーに話しかける。金色の竜は落ち着きはらった様子で首をかすかに動かす。一方ツェットは落ち着きとは無縁で、エスクーの仕切りを鉤爪で器用にあけ、さっさと中にもぐりこんでいる。
アーロン(それにエスクー)とはしばらく別行動をとっていたからわからないではないし、他の竜よりでかいエスクーはいつも広い仕切りを使っていて、スペース的な問題はあまりない。が、それにしても図々しい。尻尾をぱしぱしとエスクーの尾にぶつけているのは親愛の表現だ。ようするにいちゃついているわけだが、俺の前でしなくてもいいだろうに。
「ツェット、すこしは照れるとか恥ずかしいとか――」
ぼやいたとたんうしろで声が聞こえた。
「エシュ。遅かったな」
俺は振り向かずに片手をあげる。アーロンは真後ろから俺の手をつかみ、腹の前に腕を回してきた。
「シュウに頼まれた買い物が思ったより大変だったんだよ」
「何を頼まれたんだ?」
首に息が当たる距離でアーロンがいった。
「大人気のパティスリーが手掛けた新作のカカオロシェ」
するとエスクーに甘えていたツェットの首がぬっと俺の方を向く。いったいどの言葉に反応したのか。それにしても、さっきは知らん顔だったくせに、食い物が話題に出るとこれか?
竜にはたしかに知能があるが、人間のような思考はしない。ツェットのような竜が人間の話をどこまで理解しているのか、俺たち人間にはいまだに謎だ。なんでもわかっているような気がするときもあるし、まったくわからないと思うこともある。
仔竜として生まれ変わったアニマ・ドラコーは、ドルンとともにこの世界のどこかにいるが、俺とアーロンを腹の中に入れていたときのように俺たちに語りかけることはなかった。俺とアーロンが神々を追い出したとき、この世界の理 はそれ以前とは異なるものに変わってしまったからだ。
「ツェット、食い意地の張った目つきはやめろ。カカオロシェは竜の食い物じゃないぞ」
俺の声にツェットは目をくるくるまわして、エスクーの翼の影にまた首をつっこんだ。
「まったく、どれだけいちゃつけば気がすむんだ」
「竜はほっておけ、エシュ」
「おまえもそんなにくっつくな。あとにしろ、あと」
アーロンの腕が離れた。ふりむくとどことなく拗ねたような表情が浮かんでいる。激戦の中でおまえの分も買ってきてやったのに、と俺はいいかけてやめる。
「早いところシュウに届けるか」
洒落たパッケージは汚れないようにしっかり包んである。俺たちは翼がこすれる音を聞きながら厩舎をあとにした。
世界の理が変わり、新生した帝国で、俺とアーロンは放浪生活をしている。とはいえ帝都にはアーロンの屋敷があるし、〈黒〉のトップに返り咲いたイヒカは俺とアーロンを〈黒〉の特別な一員として扱っている。だから城壁都市にやってくると、俺のホームはあいからず〈黒〉にある。
帝国で変化したことはあまりに多すぎて、俺にはすべて把握しきれない。俺個人に関していえば、『前世』を思い出すことや、神々を追い出す以前のこの世界――彼らが作った世界――と『前世』の関係を考えることも、ほぼなくなってしまった。そもそも『前世』は夢のようなもので、この世界のリアルではなかったのだから、当たり前ではある。
しかしそう思ったとたん、俺の頭をある言葉がよぎる。「うつし世は夢、夜のゆめこそまこと」――これを俺はどこで知ったのか?
つまり何かきっかけがあれば、『前世』の知識が俺の中によみがえることもないわけではない、というわけだ。シュウに「カカオロシェを買ってきてほしい」と頼まれたとき、まさしくこれが起きた。要するに俺は思い出したのだ。この世界の「カカオロシェ」が前世では「チョコレート」と呼ばれていたことや、前世の俺が生きていた国では、真冬のさなかに「チョコレート」を贈るイベントがあったということを。
「やったぁ! 買ってきてくれたんだ! すごい争奪戦だっただろ?」
アーロンはイヒカに伝えることがあるというので、俺はひとりでシュウが根城にしている研究所をたずねた。食いしん坊の解析官は満面の笑みで俺を迎えた。
「まったくだ。先に教えてほしかった」
「今だけの限定生産だから貴重なんだよ。原料仕入れの都合で予約生産も難しいらしくってさ。帝都にいないと情報もおそい」
「道理でな。実をいえば、一般販売分は完売していた。裏技を使ったんだぜ」
「裏技?」
「ルーに聞いたのさ。帝都上流のご婦人向けの特別販売枠にもぐりこませてもらった」
俺の養父のルーはあいかわらず帝都の屋敷で暮らしている。今は皇帝府の各種委員会に出席を要請されることも多いらしく、生活はにぎやかになっているようだ。
「うお、さすがルー閣下――じゃない、エシュ!」
「わざとらしいな。もっと感謝しろよ」
「してるってば!」
シュウは宝石箱のようなパッケージをみつめてニコニコと嬉しそうだ。一箱に入っているカカオロシェはたったの四粒。全部で三種類あり、可能なら全種類、という要望が叶ったのは俺の努力のおかげなのだと、すこしは実感してほしい。
「よし、さっそく開けてみよう……」
ほくほく顔の解析官が蓋をあけると、内部も宝石箱のようだった。仕切りの中に赤、漆黒、濃茶、純白の四つの粒が鎮座している。他の二種類の箱の中身もすべて異なるフレイバーらしい。
「それ全部ひとりで食うのか?」
「さあね。あ、エシュは自分の分も買ったよね?」
「……一応な」
「これはスタンダードだけど、こっちの箱は〈竜の眼〉だ。エシュのことだからきっとこっちを買っただろ」
まさしく図星を突かれたが、俺はしらんぷりをした。
シュウにとってもそんなことはどうでもいい話にちがいなく「とりあえずひとつ食べるならどれかな……」と箱をためつすがめつしている。ついに赤い粒をつまみかけて、何を思ったか指をひっこめた。
「そういえばさ、エシュ。ドルンの目の色、途中で変わっただろう」
急に話が変わって俺は面食らった。
「え?」
「ドルンがまだトゲトゲしていたときの話だよ。最初は赤かった。エシュがドルンに乗るようになってから色が変わった」
「――だったか?」
「え、覚えてない? 記録が――まあ、いいや。このカカオロシェを見て急に思い出しただけだよ。ドルンには他の変異体とも比較にならないほど独特なところがあったけど、今はもう調べることもできないしね」
「なんなら呼ぶか? 来てくれるかもしれないぜ」
俺は何気なくいったが、シュウは「え!」と大声をあげた。
「そんなことできるならそりゃ――」
「呼んでもあらわれる保証はできないけどな。あいついま、子守で忙しそうだから」
「……僕としてはぜひお願いしたいね。棘も抜けて丸くなったことだし、今のドルンなら研究員もそこまでびびらないかも」
たしかに今のドルンにはかつて全身を覆っていた禍々しい棘はない。しかし一般的に、仔を守っている竜はみかけほど優しくないものだ――と俺は思ったが、口には出さなかった。タイミングよくドアがひらき、アーロンがあらわれたからだ。
「やっぱりここにいたか」
「悪いねアーロン。エシュを借りてた」
シュウはあっさりそういって、俺にさっさと行けといわんばかりの目つきをする。そういえば昔のシュウはどちらかといえばアーロンを嫌っていた。今はそういうわけではないにせよ、敬遠しているのはたしかだ。というわけで俺は立ち上がったが、出て行こうとしたとたん、シュウは思い出したようにいった。
「そうそう、エシュ。〈竜の眼〉のカカオロシェは他の二種と比べても特別らしいよ」
アーロンはもう廊下を行こうとしているが、俺はついふりかえった。
「どう特別なんだ?」
「にがいかもしれない」
「大丈夫だろう――アーロンだから」
ビターでもチョコレートは甘いものだ、と続けそうになるのをこらえたら、うっかり出た言葉がこれだ。アーロンがふりかえった。
「なんだ?」
「なんでもない。行こう」
扉を閉める直前、シュウがにやにや笑っているのがみえた。
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