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第1話

【1】花の香りは悪夢の始まり  鼻孔をくすぐるのは、蜜でも混ぜたような、甘いバラの香りだった。  ああ、またこの夢か、とキラは諦めた。  花が咲き乱れる庭園で、白い陶器がパンと音を立てて割れる。鮮やかな青紫のシロップが白い絨毯に広がった。 『やや子……それは本当か!』  男性の震える声が尋ねてくるので、まだ平らな自分の腹部をなでながらうなずいた。 『な……名前を考え――いやいやまずは医師か。あっ、なぜそのように薄着を』  おそらくお腹に宿った命の父親が、歓喜混じりの動揺を隠せないでいるようだった。  ――ぱちり、とまばたきをすると、その腹が臨月近くまで膨らんでいた。  また、あのバラと蜜の香り。今度はくすくすと笑い声がする。優しい響きのそれではなく、毒念を孕んだ複数人の笑い声。さほど低音ではないが男性のようだ。  自分は胎動する腹部を押さえながら、床にひざまずいていた。床が水で濡れているので、浴場なのかもしれない。 『どんな仕打ちも受けます、お腹の子だけは助けてください』  全身が震えて止まらない。自分の死は、宿った命の死と直結する。絶対に生き延びなければならなかった。         *** 「今日も夢見が悪かったな」  キラの朝は早い。夜明けとともに仕事が始まるので、暗いうちから身支度を調えなければならないのだ。  年季の入った寝床から半身を起こし、自身の薄茶の髪をかき上げる。隣でぷうぷうと鼻の音をさせているのは、五歳になる息子ミールだ。ふっくらとした日焼け顔に、よだれの跡をつけてぐっすりと寝ている。この顔を見ると、先ほどまで見ていた悪夢など一瞬で忘れることができる。寝汗で額に張りついている黒髪を、そっと拭ってやった。 「んー、母さま、どこ」 「おはよう、ここにいるよ」  ミールの朝の第一声は、大体「母さま」だ。母の居場所を確認して朝を迎える。ミールは、キラによく似た垂れ目をぱっちりと開けると、勢いよく身体を起こして「よし」と意気込んだ。親子の仕事が始まる合図だ。  チャーンド帝国北西部の農村に暮らすキラとミールの仕事は、水汲みから始まる。村中央にある井戸からその日に自宅や農場で使う水を汲み、二人で担いで運び込む。それが終わると羊の世話をしながら、周辺の農場にも飼料を運ばなければならない。  ミールが飼料入りのかごを背中に担ぐ。 「重くない?」 「だいじょうぶ、ぼくちからもちだから」  まだ五歳だというのに懸命に飼料を運ぶ。その健気な姿を見送りながら、キラは自分を責めた。 (僕に記憶があったら、ミールはこんな思いをせずに済んだのに)  キラは自分の年齢が分からない。正確には、年齢以外もすべて分からない。気がついたときには身重の状態で、熱を出して臥せっていた。村で唯一の医者が「流行病の高熱が原因で、記憶をなくしてしまったのだろう」と教えてくれた。 (せめて夫が生きていたら)  そっとうなじの傷をなでた。くっきりと赤く残る噛み跡は、指でも凹凸が分かる。自分に、伴侶である〝番〟のいた証拠だ。  この世界には男女とは別に、第二の性が存在しアルファ、ベータ、オメガの三種に分けられる。アルファとオメガは、百人中一人存在する程度の希少な性で、さらにこの二つの性は互いの媚香によって強く惹かれ合う性質を持っている。  優れた才覚を持つアルファは、優性遺伝子の結晶とも呼ばれ、国の首脳や王侯貴族などに多い。一方、キラの性でもあるオメガは、男でも生殖器官にアルファの子種を受け入れ、子を成すことができる性。男性のオメガは特に希少で容姿も優れた者が多いが、アルファやベータほど骨格や筋肉が発達しないため、日常生活においては不利益を被りやすい側面もあった。  オメガは九十日に一度の周期で発情し、発情時の性交中にアルファがオメガのうなじに噛みつくことで〝番〟が成立。オメガは番以外を受けつけない体質に変異する。  キラの首筋の跡は、まさにその証しだ。  その番であるアルファの男性は、キラと同じ流行病で他界してしまったというが、その彼の記憶すら高熱で失われたため、今は噛み跡しか思い出はない。  高熱から意識を取り戻したキラは、記憶のないまま出産し、唯一の肉親である祖父の家でミールと三人で暮らしている。その祖父のことも覚えていないため居候のように過ごしているのだが。 「おい、朝飯は」  朝の仕事を終えたころ、祖父がのっそりと戸口から顔を出し、農場で羊の糞の掃除をするキラに声をかけた。 「おはよう、おじいちゃん。まもなく」  まだ冬が終わったばかりだというのに汗だくのキラは、袖口で額を拭いながら答えた。 「キラ! うちの羊たちにも水を汲んできておくれ」  隣家の中年女性が柵の向こうから叫んでいる。どうしよう、と顔を見上げると、祖父は顎を女性のほうへくいと動かした。従いなさい、という意味だ。 「よそのひつじなのにね」  ミールが水汲みを手伝いながら、まっとうな意見を述べる。 「うん、ごめんね」  周辺住民から下働きのように使われる原因は借金だった。  ミールを出産してまもなく聞かされたのは、他界した番が複数の住民から金を借りていた事実だった。記憶も財もないキラが返せるはずもなく、そのぶん労働で報いる約束をしているのだ。  その労働もオメガの体格では、男性のアルファやベータほど役立っているとは言いがたい。  ミールははっとして、首を振った。 「ぼくひつじはすきなんだよ、ふわふわだから」 「毛刈りが年に一度のお楽しみだもんね」  ふふ、と笑って返事をするが、息子に気遣われる自分が情けなかった。  言いつけられた作業を終えて自宅に戻ると、祖父に汚れた顔を洗うよう指示された。キラは桶に水を汲んで、のぞき込んだ。  おそらく二十代半ばであろう顔の小さな男性が、うつろな表情でこちらを見つめていた。薄茶の前髪の間から、オメガの特徴でもある、色素の薄い双眸がのぞく。垂れ気味の目が、幼くそして弱々しく見えてしまい、情けなさに拍車をかける。 (お前はこれまでどんなふうに生きてきた? 夫はどんな人でどうやって結ばれた?)  そんな記憶が少しでもあれば、番の噛み跡を心のよりどころにせずとも、もう少し前向きに強く生きられただろうに。祖父に尋ねても「つらいことばかりだったから思い出さないほうがいい」と教えてくれない。 (これからずっと根無し草として生きるんだろうか)  そんな弱音が浮かんだ自分を、井戸水とともにピシャッとたたいた。春とはいえまだ水は冷たいので自分を叱咤するにはちょうどいい。 (ミールがいるじゃないか、僕の大切な命)  キラがキラとして立っていられるのはミールのおかげだった。ミールを守り育てることが、自分の存在理由なのだ、と。

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