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第2話

 朝食が終わると、村共同の洗濯場へと急いだ。ため池から汲んできた水を使って洗濯物を足で踏み洗いする。そこは女性たちの交流の場にもなっていた。 「聞いた? 隣国のオメガのうわさ」 「アーフターブの後宮から逃げ出して、この国に隠れているんですってね」  アーフターブとは、このチャーンド帝国の北西――つまりこの村のさらに北西に位置する王国だ。  もとはガル帝国という一つの国だったが、主に宗教を理由に二つの国に分かれたのが百年以上前。キラの住むチャーンド帝国は「月」を意味し、隣国アーフターブは「太陽」を表す国名になった。  両国は大陸に流れる大河イグリス川を国境としている。宗教以外は言葉も容姿もさほど変わらないが、宗教対立が尾を引いているせいで国交はあるものの活発ではなかった。  その隣国から後宮オメガが逃げてきているといううわさは、庶民の好奇心を満たすには十分な醜聞だ。 「王太子の子を身ごもったまま逃げたらしいの、好待遇を受けているのに恩知らずなオメガだねえ」 「うちの村にもいるじゃないか、恩知らずのオメガ」  キラは聞いていないふりをして洗濯物を踏み続ける。彼女たちはこうやって何かにかこつけては借金まみれの自分をやり玉にあげ、結束を強くしているようにも見えた。 「そのうち身体で払ったりして」 「無理よ、番持ちのオメガは拒否反応が出るし、うちの村にはアルファがいないし……それにいくら見た目がいいからって、羊臭いオメガなんて萎える萎える」 「もう、やだあ。二人とも、まだ朝よ」  ふふふ、くすくす、と品のない冗談で笑い合う。 (身体なんて売るわけないだろ……怒るな、鎮まれ、怒ってはだめだ、ミールに何をされるか分からない、蓋をしろ……)  血が沸騰しているのが分かる。しかし、キラはそれを抑え込まなければならなかった。一度言い返した日から、ミールが村の子どもたちから遊んでもらえなくなったのだ。母親である彼女たちが自分の子に吹き込んだのだろう。  怒りを押し込めると、洗濯物を踏む足に力が入った。  彼女たちの言うように、オメガであるキラは借金のために身体を求められ、差し出すことも最終手段としては考えられた。貧しい田舎の女性がそうしているように。  しかし、幸いこの村にアルファがいなかった。オメガが発情期に放つ媚香は、アルファの本能を覚醒させる効果があるものの、ベータやオメガには嗅ぎ取ることができないのだ。そのため村で性的対象として見られることはなく、発情期を迎えても無理やり襲われる危険がない。発情を抑制する安物の丸薬を予定日の十日ほど前から飲めば、やり過ごせるのだった。  バシッという音がする。顔を上げると、近くで遊んでいたはずのミールが倒れていた。 「ミール!」  その手前では二回りほど身体つきの大きな少年が、太い木の枝を振り回していた。村長の孫だ。 「立てよ、俺の剣術の練習台になれ」  キラは洗濯場から飛び出して、裸足でミールに駆け寄る。 「やめてください、こんな小さい子に何を」 「村に迷惑かける親子は、俺が成敗してやる!」  少年はキラにも枝で殴りかかった。それを洗濯場の女やオメガたちは止めるどころか「やんちゃねえ」と微笑ましく眺めている。  キラはミールを抱き込んで、黙って殴られていた。村長に目をつけられれば、この村で生きていけないからだ。祖父には村の人たちに逆らってはいけないと言いつけられていた。  腕の中で、ミールが「母さま」と声を震わせていた。  少年が殴り飽きたころには、洗濯場には誰もいなくなっていた。自分の洗いかけの衣服が、洗い場にぽつんと残されている。キラはそれをすすいで絞り、木の皮で編んだかごに入れた。サンダルを履こうとして、それが履き物置き場にないことに気づく。 「……まただ」  キラのサンダルは、とにかくよく消える。決まって、この洗濯場で。遠くでくすくすと笑い声がした。 「まあいいか、もう裸足にも慣れちゃった」  キラは右手に洗濯かごを抱え、左手でミールと手をつないで自宅に向かった。ミールが立ち止まってキラの手を強く握った。 「母さまは、ぼくがつよくなってまもるから」  ミールの額には擦過傷があった。先ほど村長の孫に殴られて転倒した際に負ったようだ。そんな傷を気にも留めず、ミールは母を守ると言ってくれた。 「ありがとう……僕もミールを全身全霊で守るよ」  じわりと涙がにじむ。強くて優しい我が子の、まっすぐでつややかな黒髪をなでた。 (神様、どうかこの子だけはお守りください、この子が幸せになりますように)  村北部にそびえるラコルム山脈から暖かい風が吹き下ろし、二人の髪をふわりとなびかせる。高温乾燥の春が訪れようとしていた。  自宅の様子がおかしいと気づいたのは、祖父と誰かが言い争う声が聞こえてきたからだった。 「今すぐ出せ、たばかったら命はないと思え!」  自宅の入り口で、背の高い男が物騒なことを叫んでいた。責め立てられている祖父は、うろたえて抵抗する意志がないことを示すように、両手を挙げている。  キラはミールを納屋の陰に隠して、指示をする。 「僕がいいって言うまで、ここに隠れていて。いいね?」  ミールは真剣な表情でこくりとうなずく。子どもながら切迫した事態だと理解したようだ。  キラは洗濯かごを置いて祖父のもとへ駆け出す。  心臓がバクバクした。ミール以外では自分の血縁は祖父しかいないのだ。何があっても守らなければ、と。  祖父に詰め寄っていた男は、入り口で頭を打ちそうなほどの長身だった。着ているものも村人たちとはまったく違う。上等な上着から金属のようなものが見えるので刃物を持っているのかもしれない。 「やめてください、人を呼びますよ!」  キラは祖父と男の間に身体を滑り込ませ、男をドンと両手で突き飛ばした。  驚いたのか硬直している男の容姿に、キラは瞠目した。  麻布を巻きつけたような自分たちとはまったく違う、上流階級のいでたちだったからだ。  白地に細かな刺繍が施された詰め襟の長上衣に、共布のパンツ、絞られた腰にはタルワールと呼ばれる曲刀が携えられている。  その服装もさることながら、男の顔立ちにも驚いた。  少し日焼けした肌に、きりりと上がった眉。眉間からまっすぐに伸びた鼻筋、その左右に配置された切れ長の瞳は、髪と同じく烏のような黒。くせのない長髪は、一つに緩く束ねられ右肩から絹糸のように垂れていた。美丈夫、という言葉のよく似合う男だった。帯刀しているということは憲兵や兵士なのだろうか。  その美丈夫が、穴があきそうなほどこちらを見つめるので、キラは負けじとまくし立てた。 「祖父が何をしたというのですか、命はないってどういうことですか!」 「祖父? この老人が?」  帯刀した男は、先ほどの剣幕とはうってかわって戸惑いの声を上げる。  突然、キラの両腕を強くつかんだ。黒曜石のような瞳に射ぬくように見つめられると、背筋にチリ……と火花が散ったような痛みが走る。 「しかし、ああ、よく無事で――」 「母さまにさわるなッ」  ミールが男の片脚にしがみついた。 「ぼくの母さまにいじわるしたらゆるさないぞ!」 「ミール! 隠れていなさいと――」  ビクッと男の身体が硬直する。そして足にしがみつくミールを見下ろして、目を見開いた。 「この子は」  男がミールに手を伸ばそうとしたので、キラは彼の腕にしがみついた。 「やめてください、まだ何も知らない子どもなんです。ミールに危害を加えるようなことは――」  言い終える前に、祖父がその場に崩れ落ちた。いや、崩れ落ちたように膝をついて頭を地面にこすりつけたのだ。 「お許しを、どうかお許しを……すべてお話ししますので」  まだ夏でもないし、キラのように重労働をしてきたわけでもないのに、祖父の顔にはびっしりと汗の粒が浮かんでいた。

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