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第6話
【2】にぎやかな家族ごっこ
馬車に乗り込んできたジャムシードに、キラは不安げに尋ねた。
「村に……何もしてないですよね……?」
ジャムシードは羽振りのいい商人を装うために帽子を被り、口の端を引き上げた。
「残念ながら、焼き討ちにする時間はありませんでしたね」
腰に差していた短刀を引き抜いた――と思いきや、それはミールが木を削り出して作ったおもちゃの刀だった。
「騎士の命をお忘れですよ」
ジャムシードはまだ目が赤いミールにそれを渡す。騎士、と言われて目を輝かせたミールは小声で礼を言って受け取った。
「里帰り」
ジャムシードが単語だけ漏らすので、キラは首をかしげた。
「あの老人、あなたがたがいなくなったことに落胆していました。帰省を楽しみに待っているそうですよ」
だから、里帰りと言ったのか――。キラは泣きはらした目にまた涙を浮かべた。ジャムシードが手巾を差し出し、囁いた。
「よく溢れる瞳だ、堰が必要ですね」
どうして人を食ったような態度を取るのだろうと、キラは気色ばむ。
「母さまにさわるな」
その手をミールが払ってにらみつけたので、ジャムシードは両手を挙げ、頼もしい護衛に降参のポーズを取った。
旅程の説明を、ジャムシードから受ける。
イグリス川を国境としているチャーンド、アーフターブ両国は、いくつかその川に橋をかけているが、警備と検問が厳しい。男性のオメガをチャーンド帝国が探している今、キラを連れての越境は難しいのだという。そのため、まず帝国西部の港町まで数日かけて移動し、商船に乗り換えて別の島国経由でアーフターブ王国に入る計画だ。
「お隣の国なのに……そんなに国境は厳しいんですね」
「一触即発というわけではないのですが、互いに水面下でなんとか相手の弱みをつかんで優位に立とうとしている状況です」
王太子の寵妃が国内にいると分かったチャーンド帝国は、これを好機とし国内のすべての男性オメガに憲兵を派遣して調べているらしい。
「あの村が辺鄙な場所にあったので調査の手が及んでいなかった。その分、捜していたこちらも時間を要したのですが」
ゾ、と背筋が冷えた。もしジャムシードより先に憲兵があの村の調査に入っていれば、記憶のない自分は危なかったのではないだろうか――と。
「ですので、馬車内では私を従者と思っていただいていいのですが、外に出たら私たちは〝裕福なアーフターブの商人が家族同伴で商売に来ている〟ふりをしなければなりません」
「それって、具体的にはどんなことをすれば……?」
ジャムシードの言い回しがあまり理解できない。
「特に何をしろというわけではありません。あなたは私の妻、そしてミールは私の息子として振る舞うだけです」
ジャムシードはキラの手を取り、左手の小指に真っ青な石の指輪をはめた。
「これは」
「アーフターブの既婚女性やオメガは、色のついた石を身につけます」
小指をまじまじと見つめると、石の紺碧に吸い込まれそうだった。
「中古で申し訳ない、新調する時間がなかったもので」
「いえ、むしろこんな高級そうな指輪……僕の所持金はわずかですのでなくしたら弁償できません」
「差し上げますのでお気になさらず」
どこかで急きょ買ってきたのだろうか、とキラは指輪を見つめる。その美しさにうっとりしながらも、眉尻を下げたり眉根を寄せたりした。
「おろおろしてどうしましたか」
「いえ、あの……いただきものなんて初めてで、こういうときなんと言ったらいいのか分からないんです……」
ふはっ、とジャムシードが吹き出す。
「『ありがとう』でいいんじゃないでしょうか」
顔つきは凜々しいのに、花が咲くように笑う人だなと思った。ときどき嫌みだけれど。
「あの、僕の本当の名前は、なんというのでしょうか」
変な質問だな、と自分でも思うが、やはり気になっていた。キラという名は村でつけられたもの。本当の名を聞けば、ルーツを思い出す鍵になるのではないかと思ったのだ。
しかし、ジャムシードは意外にも黙って首を振った。
「言えないのです」
ジャムシードは昨夜、この一帯で高名な医師にキラの記憶喪失について相談していた。もちろん身分は明かさずに。医師からは「無理やり思い出させると精神に二次障害が起きるかもしれない」と忠告を受けたのだという。
「本国に到着してから、専門医のもとで少しずつ治療を受けたほうがいいとのことで、なるべくあなたに過去の情報を伝えないようにと厳しく言われております」
正論だったが、知らないままではもどかしい。自分はどんな人物で、どんな暮らしをしていて、そして番で王太子というのは一体どんな人なのか――。
キラは押し黙ってしまった。村にいたころは何かと仕事を言いつけられていたし、ミールを守り育てることに必死になっていたので、何も考えずにいられたが〝自分の知らない自分〟の存在を知ると〝今の自分〟が揺らぐ。記憶を失う以前の自分が、敵のようにも思えてくるのだった。
「じゃあ年齢だけでも……二十代だとは思うんですけど」
「それくらいならいいでしょうか……失踪が二十歳なので、現在は二十五ですね」
自分の予想より少し上だった。村の二十代と比較すると自分は若く見られていたからだ。
(僕は二十五歳なのか)
なぜか口元がほころんだ。凍結していた頭の一部がパキと音を立てて溶けた気がする。
「もっと知りたいです」
「お伝えしたいのはやまやまなんですが、医師が……」
ジャムシードが困惑しているようで、目を閉じて腕組みをしている。
「とにかくあなた方をアーフターブへお連れすることが優先です」
馬車内での会話に飽きたのか、ミールがおもちゃの木刀を振り回し始める。
「こら、ミール」
「ぼくはきしだから、たんれんしないといけないんだ」
先ほどジャムシードに言われた言葉を真に受けているらしい。ジャムシードが高笑いして、その調子だ、と褒めた。
「ミール、今日からしばらく私が君の父役です。しっかり剣術を教えてあげましょう」
そう言いながら、ジャムシードはミールに柄の握り方を教える。
「ちち……?」
「そうです、馬車の中では自由ですが、外に出たら私を父さまと呼んでくださいますか? 私も丁寧な言葉遣いではなくなります、父親ですからね」
練習してみましょう、とミールを促す。
「と、とうさな」
「惜しい」
「とうさま!」
よくできました、と大きな手がミールの頭頂部をなでる。なでられた本人は、突然キラの膝にしがみついて顔をこすりつけてきた。
「どうしたの、ミール」
のぞき込むと、顔を真っ赤にしていた。
「は……はずかしい」
父を知らないミールにとって、男性を父と呼ぶことも、その男性からなでられることも初体験なのだ。両側に立つ両親と手をつないで、歩いたり持ち上げられたりする子どもの姿を、こっそり盗み見ていたのをキラは知っている。
キラはそっとミールの黒髪をなでた。
「上手に言えたね、きっと父さまはお菓子も買ってくれるんじゃないかな」
「もちろんだ!」
ジャムシードは突然父親のような口調で腕を組み、わざとらしくふんぞり返ってみせる。ミールが顔を上げて、ぱっと表情を明るくした。
「剣術だってしっかり教えるぞ、父は厳しいが鍛錬についてこれるかな?」
「はい! 母さまをまもるりっぱなきしになるんだ」
鼻息をフンと荒くして、ミールはおもちゃの木刀を高く掲げた。
二人のにぎやかな剣術談義を見守っていたキラは、この旅路への不安が少しだけ薄れた気がしたのだった。
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