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第1章ー第3話 犬と猫の出会い

 四月一日。新しい部署での仕事が始まる日。自分の持ち物の中では、一番いいと思われるスーツに袖を通した。  挨拶はしっかりしなければならない。寡黙で表情も変わらない田口だが、一応、彼なりに緊張しているのだ。  ――どんなメンバーと一年間、一緒に仕事をしなければならないのか……。  人と仲良くするタイプではないが、これから一緒に仕事をする人たちがどんな人たちなのか、気になるものだ。変にいい人でなくて良い。ただ意地が悪い人ではないことを祈る。  田口は前職で上司に苦労した。係長が面倒な男で、なにをするにもいちいち難癖をつけてくるのだ。あの係長から解放されたことは幸せなことだが、世の中がそう甘くないことも知っている。  ――今度の上司は、あの男以上の人材かもしれない。社会とはそういうものだ。自分のペースで仕事ができる環境であるといいんだけど……。  そんな思いを胸に押し込めながら、田口は市役所に足を踏み入れた。 ***  今まで通っていた農業振興係は一階に配置されていたのだが、今日からの部署は二階にあった。市役所には何年も通っているが、なじみのない場所であることには違いない。なんだか緊張した。  梅沢市役所の本庁舎は、建て替えの話が出ている古い建物である。遡ると昭和初期に建築されたらしい。一度火災に遭い建て替えられてから、そのままだという話だ。  当時はこの広さで間に合っていたのかもしれないが、この複雑な現在の行政業務をこなすには、手狭すぎる。耐震の問題もあり、数年後には建て替えをする計画になっていた。 一階は市民がよく利用する窓口業務関連の部署が入る。二階は市長室や議会場など、特定の人しか関わらない部署が入っている。その二階に田口が、今日から配属された教育委員会の部署があった。田口は、異動が決まってから勉強をした内容を思い出しながら歩いていた。  教育委員会は市役所の中にあっても組織が違った。一般的な部署は市長の管轄になる。しかし教育委員会のトップは教育長だ。  これには、行政と教育を分けると言う意味があるらしい。確かに、教育分野に行政が口出しをするということは、戦時下の教育体制の二の舞になりかねないのだ。教育とは自由であるべき。そういう発想があるようだった。  しかし、内情は違っている。市長と教育委員長は、そう考えが違えることもなく、市長の影響力はここにあるということだ。トップが違うから別組織――なんてものは名ばかり。結局は、やっていることは他部署と変わらず、しかも建物も一緒なので環境がそうかわるわけではないようだった。  田口は予備知識を入れておかないと不安になるタイプだ。教育委員会への配属は初めてということもあり、ここ一週間くらいは新しい部署に関する法令を読んでみたり、部署の沿革なども目を通してみたりしてきたところだ。  不安を胸に抱きながら階段を上り切ると、まだ早い時間なのか、廊下は比較的静かだった。中央棟から右に折れると、そこが教育委員会の部署。  ――早く来すぎたのだろうか。  新人が重役出勤するわけにもいかないと思って、早めに出てきたのはいいものの、誰もいなかったら、どうしていればいいのだろうか。  自分の部署から持ってきた荷物が入っている段ボールを抱えて迷っていると、小柄な男が階段を上ってきた。 「お、早いな。あまり早いと困るものだ。新人君は、もう少し遅く来てもらわないと」  彼は八重歯を見せて笑った。  ――誰? 同僚か。  田口よりも若い職員のようだ。教育委員会の職員だろうか。自分が新人だとわかるということは、そういうことだと思った。 「おはようございます」  田口は軽く頭を下げる。年下でもなんでも、初対面の人には敬語。これは田口の鉄則だ。いや余程のことがない限り、馴れ馴れしい話し方はしない。 「随分とお堅い奴だな。おはよう」  彼は片手を上げて田口を見ていた。  ――それにしても、こんな職員が市役所にいたのだろうか。だらしのない恰好だ。信じられない。  田口は少々開いた口が塞がらなかった。漆黒の髪は寝ぐせだらけ。ワイシャツのボタンは外され、瑠璃紺色のネクタイは緩められており、制服に匹敵するスーツを着崩し過ぎだと叫びたくなる様相だった。  そんな田口の気持ちなどに気がつくわけもない男は、さっさと事務室の扉を開けた。仕方なく田口も後に続いた。  廊下は静かなのに、事務所内はもうすでに仕事が始まっていた。中は広いフロアだが、四つの島に分かれており、そのどこの席にも職員が座っていて、電話をしたり、書類を見ながら話し込んだりしているのだ。  ――この部署は朝が早いのだな。  田口はきょろきょろとするばかりだ。  ――振興係はどこだ?  天井からぶら下がっている部署名が書かれているプレートを見上げる。『振興係』とかかれたプレートを見つけてから、下に視線を戻すと先程の男がそこにいた。 「おはようございます」  男は中年の男たちに声をかけられて、にこやかに挨拶を返す。どうやら、この男と同じ部署のようだ。この、いい加減な風態の男と一緒に仕事ができるのかと不安を覚えていると、そこにいた三人の男たちが、一斉に田口を注視した。そこではっとする。  ――そうだ。自分はここで働くのだ。  そう自覚したからだ。 「おはようございます。本日付けで配属になりました。田口銀太です。どうぞ、よろしくお願いいたします」  段ボールを抱えたまま頭を下げると、男たちはにやにやと笑っているばかりだった。

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