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第2章ー第14話 田舎犬の戸惑い
「おれは、躰を動かすことが面倒で避けてきた。学校では、平均を取っていればいいと思っていたから、それ以上努力もしなかった。まあ、運動音痴だからな。結構それでも頑張ったほうだと思うが」
「運動音痴なのでしょうか?」
――こんなにスマートで身のこなしもいいのに?
田口は目を瞬かせた。
「走らせてみろ。お前になんかあっという間においていかれるぞ」
保住の笑顔はあどけない。古めかしい言い回しや立ち居振る舞いなくせに、こうして時折見せる笑顔は、年相応で幼い。こんな人が、係長の重責を担わされているのかと思うと、少し考えてしまうものだ、と田口は思った。
「そうでしょうか」
「まあ、いずれわかる。そういう理由で運動からは遠ざかってきた。だから、そういう勝負の世界は知らない。いい世界だ。素晴らしい」
「勝負とは、そういうものではないのでしょうか」
「いいや。それは日本人の本質の話で、おれが生きてきた勉学の世界は全く違うな」
「はあ」
「高校生の時に、後ろの席の奴に『おれもその大学に行きたいから、譲ってよ。保住くん受験失敗してくれない?』と言われたことがあるな」
「え!? そんなこと、有り得ないじゃないですか」
田口は驚きだ。
「そんなものは日常茶飯事だ。おれも少しねじが外れているからな。そんなことを言われてもなんとも思わなかったが、こうして社会に出てみて、いろいろな経験をして、まっとうな人間の感覚で見たら、あいつはクズで異様な奴だったな」
「クズって……」
――こんな可愛い顔をして怖いことを言う。
田口は開いた口が塞がらない。
「ああ、すまん。おれは口が悪い。思っていることを言ってしまうのだ」
「係長」
飛んでいる発言が多くて、やっぱりついていけない。つつましい田口の世界観とは真逆。頭のいい人は、みんなそうなのだろうか――と不思議に思えた。
「おれが生きてきた世界は、人を蹴落として上に行くことを考えている奴ばかりだった。だから勝負事は嫌いだ。自分のペースで自分の力でやってきた。人に譲ってもらいたいなんて思ったことはない。だから、おれは田口の見てきた世界は素晴らしく見える」
彼は目を細めて微笑んだ。
「本当にお前は、いい育ちをしている」
「な、そんなことを褒められても意味ないです。仕事ができません。企画書もこんなに時間がかかっても、大したものが思い浮かびません。こんなダメな男、市役所一の落ちこぼれです」
田口は目がしらが熱くなる。
――褒められた。褒められた。人に。梅沢市に来て、こんなこと初めてだ。市役所に入庁して、こんなこと初めてだ。
田口は突然訪れたこの感情を扱いきれずに戸惑っていた。おろおろと狼狽えてしまっていたのだ。しかしそんな感情の嵐を保住は知らない。きょとんとして、それからぽんと手を鳴らした。
「そうか。お前。企画書で悩んでいるのだな」
「だ、だって。できません。ずっと悩んでいます。考えているんですけど。星野一郎先生を知れば知るほど、どうしていったらいいのか全くわかりません」
保住は立ち上がると、田口の側に立つ。
「そんなに追い詰められていたのか」
彼はそう言うと、ぽんと田口の頭に手を置いた。彼の手の温もりは温かい。
「すまないな。気付いてやれていなくて」
「いや、仕事です。できなくちゃいけないんです。すみません。おれの能力が低くて……」
――自虐的な言い訳なんて無意味。
そう思うが、どうしてもよく見せたくて。保住にできない自分を見せたくなくて。
必死だったのに……無理だと観念した。露呈してしまった事実を隠す言い訳は虚しい。
――できない奴だとレッテルを張られる。
そう思ったのだった。
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