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第2章ー第26話 最悪の理由
「お前は父親に似すぎている。ふとあいつがそこにいるような気持ちにさせられる」
視界に入る和室の天井と、澤井の顔に目眩 がした。酔いが回っているのだろう。目元が痙攣 しているのが自分でもわかる。現実から逃げたいせいか、そういった自身の体の変化に意識が向いた。
「しかし、黒子 の位置が違うな」
彼はそう言うと、人差し指で保住の左目尻に触れた。それから、「ここだ」と右の口元に触れた。
人に触れられるのは、好きではない。好きなこと以外には全く無頓着なダメな人間だ。人生の中で、不本意な人間と関係を持ったことは何度かある。
面倒だからだ。その場をやり過ごせばいいと考えてしまうからだ。
だが澤井は別だ。保住はじっと彼を見据えて尋ねた。
「澤井さんは、父のなんなんですか?」
「同期だ」
「それだけですか?」
「それだけだ」
澤井は表情を変えることなく、じっと保住の瞳を覗き込むように見据えていた。
「本当に?」
「お前の父親からしたらそうだろう」
「では、澤井さんからはどうなんです」
ごつごつした澤井の指が保住の顎をなぞる。澤井の瞳は自分を見ているようで見ていない。保住を通して、別な人間……そう、きっと父親を見ているに違いないと理解できた。
「そうだな。特別だな」
「男同士ですけど」
「関係ない」
「あなたは既婚ではないですか。父も然りです」
「関係ない」
こんなことになるとは思いもよらなった。そばに転がっている日本酒の瓶が目に入る。随分と飲んだ。澤井も、自分も。
澤井は酔っているのだ。遥か昔のことを思い出して、なにかに酔いしれているのだ。
「酔っていますよ。澤井さん。こんなこと……」
澤井の腕を払おうとすると、逆にその手首を捕まえられる。
「つ」
床に張り付けられるように抑え込まれると、さすがに嫌な気持ちになった。
「おれは、父ではありません」
「未練がある」
「だからって、代わりはしません」
酔いで据わっている視線は熱を帯びていて、本気な気がして怖い。だが彼から目を離すことはしない。じっとその視線を見返すと、彼は軽く笑ってから保住の上から退いた。
「ふ、お前でもそんな怯えた顔をするのだな」
「澤井さん……」
「お前には欲情せんわ。お前はあいつとは違う」
「それは良かった」
「お前の父がどうこうではない。お前はお前だ」
「それはそうです」
保住は身体を起こす。
「帰ります」
「送っていく」
「結構です」
「そう、ヘソを曲げるな。うぶな女でもあるまいし。少し触れただけではないか」
――冗談じゃない。どこが少しだ! 人の上に馬乗りになっておいて。
澤井には敵わない。上手。上手。彼の前に来ると、まだまだ未熟な自分を痛感する。
「おれは、お前しか信用していない」
襖を開けた瞬間、後ろから澤井の声が聞こえた。一瞬、動きを止めてから、瞳を細めて振り返る。
「嫌いで大好きな男の子ども――だからですか?」
「いや。お前はお前なのだろう」
「そうです」
「保住の息子ということを差し引いても、この役所内でおれの要望に応えられるのはお前だけだと思っている」
「本気で言っています?」
「無論だ」
「嬉しいですね。ありがとうございます」
精一杯の平常心。
――反吐 が出る。気分が悪い。
廊下に出ると和装の女性に声をかけられた。
「お帰りですか? お車ご用意いたしますが」
「いいえ。すみません。結構です」
保住は、澤井の行きつけの料亭をあとにした。
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