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第7章ー第70話 八つ当たりの理由と理解者
「また。そんなこと言って」
彼はそう言うと、袋からサンドイッチとおにぎりを出した。
「お好きなのをどうぞ。……足りないと思いますけど」
「部下におごってもらうつもりはない」
意地を張る必要もないのに、心のドロドロが、心を荒立てる。口から出てくる言葉は素直ではない。田口は軽くため息を吐いてから、保住の手にサンドイッチを持たせた。
「どうぞ。――おれもいただいたんです。おばちゃに。おにぎりを食べる予定だったので、こちらはどうぞ。係長が食べないなら捨てます」
手に乗せられたサンドイッチに視線を落とす。
「さあ、食べましょうよ」
――余計なことは言わないのか。恨み言でも言われてもいいくらいなのだが。
袋を破っておにぎりを食べ始める彼を見て、保住も習ってサンドイッチを食べ始めた。
――腹が減っていたようだ。
そういえば、昨晩からなにも食べていなかったことを思い出す。糖分が足りないと、頭も回らない。むしゃむしゃと食べてみると、久しぶりの食べ物は美味しく感じられた。
「うまい」
「そうですか。普通のサンドイッチですけど」
「……田口」
「はい」
「――すまないな。八つ当たりした」
保住は少し和らいだ気持ちに乗り、田口に謝罪する。
「謝られるようなことはしてませんけど」
「いや。完全なる八つ当たりだ。しかも昨晩は自宅で遅くまで仕事をさせた。お前の予算書が切り札になった。ありがとう」
頭を下げられた田口は、顔を赤くしていた。
「そんなことやめてくださいよ。部下として当然の役割をしただけです。それに、八つ当たりなんかには入りませんよ。あんなの」
「そうだろうか」
どうしてなのだろうか。今まで、人に甘えるなんてことはなかなかできないタイプなのに。
「お前にはつい甘えてしまうようだ」
「いいんです。別に。どうぞ甘えてください。いつも一人で気を張ってやっているじゃないですか。一人で踏ん張ることはないです」
――そうか。田口は、自分のことをよく理解してくれているからなのだろうか。
『飄々とこなすね、涼しい顔で』
みんなから言われる言葉は、誤りが多い。本当は苦労ばかりしている人生だと思っている。悩みに悩み抜いた結果を出している。仕事だって、寝る間も惜しんでいるのだ。そういった保住の本当の一面を理解している人間は少ない。
もしかしたら、妹のみのりですら気が付いていないことかも知れないのに、田口は理解してくれているというのか――。
「おれ、家族多いし。いろいろなこと言われることも多いんですよ。どんと受け止めますから。どうぞ、八つ当たりしてください」
八つ当たりウェルカム、なんて言われたことは初めてだ。保住は苦笑した。
「本当。お前には参るな」
「そうでしょうか。おれなんて、なんの取り柄もありませんから。係長に使い道見つけてもらって、本当に嬉しいです」
「そうか」
「そうですよ。自分の特技も特性も分からないし。自分でもどういう立ち位置がいいのかよくわかっていない。だけど、この部署に来て、自分のやるべきことが見えてくるし、自分ができることも見えてきた。楽しいです。仕事」
田口はそう言うと笑顔を見せた。
田口の笑顔はなかなか拝めないものだ。いつも無表情だからだ。だが時々ひょっこり出てくる。たまに目撃すると、心がほっこりする気がした。心に引っかかっているドロドロが少し落ちていった。
「祖父が――」
「え?」
保住は、サンドイッチを一切れ食べ終えてから、ふと呟く。
「祖父が入院したと、母から連絡があってな」
「……それは。いいのですか。行かなくて」
「病状も病院もわからん。聞いてもいない」
「どうして?」
どうして、田口に話す気になるのだろうか。よくわからないが、口から自然に言葉が出てくるのだった。
「祖父は銀行員で、長男である父親を同じ銀行員にするのが夢だった。だが、父は市役所を選び、落胆した祖父とは喧嘩別れ。結局、父が死んでも葬式にも顔を出さない人だったから、おれは彼とほとんど面識がないのだ」
「そんなことってあるんですね」
「親子の憎しみは、他人には計り知れないものがあるようだ。おれたちは祖父や祖母の形を知らない」
「そうですか……しかし、連絡は来るんですね」
「母がどうしたものかと相談をしてくる。おれは知らない。父や母が、祖父たちとどういう付き合いをしていたのか、していなかったのかも含めてだ。おれに相談されても困るのだが、あの人も一人だからな。相談できる相手がいないようだ」
「しかし、困りますね」
「そうだ。行くつもりはないのだろうが。自分の不安をこうしておれに押し付けてくる。おれも引き受けるつもりもないが、こうして心にとどまってしまうと、どうにも処理できないようだ」
田口はそっと保住の横顔を見る。
「家族の問題は、ちょっとしたことでも大問題です。心にとどまって、全てに影響を与えてきますよね」
「そうなのだな」
「係長はお見舞いに行きたいんですか?」
尋ねられてはっと顔を上げる。考えもしなかった。
――見舞いに行くのか? おれが? 会ったこともない人に? 祖父は、どう思うのだろうか。
「まさか。会いに行ったら『帰れ』と一喝されて終わりだろう」
「そんな怖い人なんですか?」
「梅沢銀行の頭取までやった御仁だ」
「それはそれは……」
保住は笑う。
「銀行員なんてスーツを着たやくざと一緒だ」
「それは言い過ぎですよ」
「そうか? おれはそう思っている」
――柄の悪い悪質な金貸しじゃないか。そんなことを言っても、市役所の税金関係も似たようなものだが……。税金の延滞金なんて、高額利息だ。
「でも、係長の顔には、そんな迷いが書いてありますけどね。係長のおじいさんだったら、結構な御年ですよね?心配な部分があるのではないですか」
――それはそうだ。死んだら死んだで構わないはずなのに、なぜ気になるのだろうか。
「亡くなる前に、一度は顔を合わせたい。そう書いてありますけど」
「田口……」
「すみません。調子に乗りました」
「いや。いいんだ。すまない。こんな話をするおれが悪い」
ため息が出た。田口に指摘されたことは、あながち違っていないからだ。
「そうだな。考えてみよう」
「それがいいです。係長は思量深い人だ。きっといい答えが出ます」
「褒めているのか?」
「おれは、いつでも褒めています」
――田口との会話は気兼ねがなくていい。救われる。仕事のことも。こうしたプライベートなことも。
「本当に、育ちのいい奴だな」
「そうでしょうか? あんな田舎育ちですよ」
「だからいいんじゃないか」
二人は、並んで昼食を摂った。
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